高橋 順太郎(たかはし じゅんたろう、安政3年3月28日(1856年5月2日) - 大正9年(1920年)6月4日)は明治・大正期の、医師、医学博士、薬理学者。東京帝国大学医科大学、初代薬物学教授。医術開業試験医員、日本薬局方調査委員、理学文書目録委員会委員、東京帝国大学評議委員などをつとめた。正三位勲一等瑞宝章。通称:順太郎、諱:信之(もりゆき)。石川県金沢市出身。著作に「河豚之毒」「肝油ノ効果ヲ論ス」「『ファゴール』二就テ」など安政3年3月28日(1856年5月2日)、加賀藩知行御算用者小頭高橋荘兵衛(110石・通称:荘兵衛、諱:作善)・石橋鈴(御算用者:石橋良蔵・長女)の嫡男として、金澤勘解由町(金沢市瓢箪町)に生まれる。兄弟は直次郎、花山という弟2人と、他所、敬、留という3人の妹がいる。父、荘兵衛は加賀藩士で、慶応2年8月御算用者御軍艦方産物方の職務を受け、加賀藩梅鉢艦隊の艦船購入の為、長崎のグラバー商会より駿相丸・起業丸の購入に携わる。同時期、維新の変革に伴い長崎の在崎諸藩士で構成する会議所の配下において、政治裁判掛を勤めた。順太郎も幼年期より加賀藩の御算用場に雇われる為、入塾及び自宅での両親からの教育を受け、数学の秀れた才能を有し、特に珠算の名手であった。慶応元年(1865年)11月8日、加賀藩御算用場に雇われ、慶応元年(1865年)、11歳で藩派遣による特待生に選ばれて長崎へ留学、留学中に英語及び一般数学を学び、慶応3年(1867年)7月6日に御算用者となる(切米四十表)。明治2年(1869年)2月7日漢学修行の為、加賀藩明倫堂の豊島安三郎に入塾、同年3月28日職制改正により二等中士を仰せ渡され、版籍奉還の変革により10月士族を命ぜられる。幕末の動乱期に父:荘兵衛・順太郎・弟の直次郎は職務・留学の為、長崎に在留していた。明治4年(1871年)3月26日加賀藩の貢進生として大学南校に入学し独逸學を専攻、明治7年(1874年)東京開成学校において、安東清人、神足勝記、村岡範為馳、関澄蔵、保志虎吉、和田維四郎らとともにドイツ語学生のために設けられた鉱山学科を専攻、翌年明治8年(1875年)東京開成学校の全学科廃止により9月11日から江口襄、三浦守治、菊池常三郎、谷口謙、佐藤佐、賀古鶴所、中浜東一郎、小池正直、森林太郎が在籍している第一大学区医学校(東京医学校)の本科生となった。明治14年(1881年)7月10日医学部を次席で卒業、医学士の学位を得て、同年7月14日東京大学准判任官御用掛を任免、医學部医院外科当直医(ユリウス・スクリバ助手)に命ぜられる。医院当直医就任後、薬物学に関する研究を始め、第5回文部省国費留学生に選ばれ、独逸国薬物学及び裁判医学に属する部分の研究の為、明治15年(1882年)2月4日、明治14年度派遣留学生、三浦守治、榊俶とフランス客船メンザリー号で横浜港を出発、3月23日に独逸国伯林府に到着、同年4月ベルリン大学に留学し、同大学プスレリーブライト教授に学ぶ。ベルリン大学から転学し、明治17年(1884年)4月17日、シュトラースブルク大学の実験薬理学の開祖のオスヴァルト・シュミーデベルク教授"(Oswald Schmiedeberg)"に従事し、薬物学の研鑽に励む。当時、シュミーデベルクの研究は重要な薬物と毒物をほとんど網羅するほどの多方面に及び、とくにジギタリス、ムスカリンの薬理、薬物の体内代謝(解毒機構)の研究は重要で優れた業績であった。世界20ヶ国から120名の留学生が薬理学の開祖シュミーデベルクの下に来て、その指導を受け、あるいは共同研究に加わり、それぞれ帰国の後はいずれも母国に薬理学を移植し、その先駆者、指導者となった。こうして世界的な規模で薬理研究が行われるようになって、急速な進歩をもたらした。我が国からも高橋順太郎、森島庫太、林春雄、がその留学生となって、日本の薬物学の基礎を拓いていく。明治17年(1884年)、順太郎はシュトラースブルク大学留学中、シュトラースブルクの独逸人、ルイゼ・ハインリッヒ"(Luise Heinrich)"と結婚。3年間の留学を半年間延長した後、明治18年(1885年)9月10日、アルザス・シュトラースブルクから帰国の途に着く。明治18年(1885年)10月26日横浜港到着。明治18年(1886年)11月19日東京大学奏任官御用掛の任免を受け帝国大学医科大学専任講師に就任。薬物学教室を担当し、明治19年(1887年)3月6日、勅令により帝国大学令が公布され、((旧)東京大学)から帝国大学となり、従来の総理が総長となって、5分化大学を設置、医科大学の黎明期に選出された7人の教授うちの一人に選ばれ、初代東京帝国大学医科大学薬物学の教授となった。明治19年(1887年)初代帝国大学医科大学薬物学の教授就任後、帝国大学薬物学教室の実験機材・備品設備を調達、薬理研究の基盤を構築し、後進の指導教育に力を注ぎ、明治21年4月5日内務省の委託により日本薬局方調査委員に任命され、。明治24年(1891年)8月医学博士の学位を授与、、翌25年(1892年)10月5日医術開業試験医員に任命、明治34年(1900年)4月29日理学文書目録編纂医員などを務め、同年10月3日帝国大学評議員に任命された。日本薬理学会の設立に向け中心的な役割も果たした。薬学部と薬物学は混同されて捉えられるが、医学部の中に創設された薬物学(薬理学)教室である。薬物が生体に対してどのような影響を与えて効果を発揮するのかを調べたり、薬物を用いて生体の機能を明らかにしたりする学問で、帝国大学薬物学講座創設以前は医科大学内科教授エルヴィン・フォン・ベルツ(("Erwin von Bälz")によって内科治療学の一部として学生講義が行われていたが、薬理学専攻の学者によるものでなかった。当時最先端の薬理研究をドイツから吸収し、明治18年(1886年)高橋によって東京帝国大学医学部に薬物学教室が開設されたことに始まる。明治26年9月に講座制が設けられた。続いて明治33年(1900年)に森島庫太が京都帝国大学医科大学で薬理学教室が開講。 明治41年(1908年)帝国医科大学薬物学講座が二講座制になり、第一講座担当が高橋順太郎、第二講座を林春雄が担当する。大正3年(1914年)に第1次世界大戦が勃発。ヨーロッパからの輸入が途絶状態となり、その殆どの医薬品を主としてドイツからの輸入に依存していたため、品不足と価格の高騰を招いた。政府の軍事的な側面から製薬の国産化が急務とされ、国産品による自給自足体制を進められた。政府は大正4年(1915年)に「染料医薬品製造奨励法」を公布して製薬工業に対して保護助成政策を取り、内務省衛生試験所の製薬部での試験方法、所要原料、製造規模、収得率などのデータを公表して、民間企業への財政的支援を行い製薬事業の育成に努め、大正6(1917年)、輸入品に代替する新薬の製造「工業所有権戦時法」を公布して交戦国が所有する特許権を消失させ、化学製品の国産化を促進、政府の洋輸入途絶医薬品の国産化の要請にこたえ、官民合同の製薬の指導者として合成研究指導を尽くした。大正7年(1918年)、第一次世界大戦当時に大流行したスペインかぜ(流行性感冒)が世界的に蔓延し、アメリカのスペインかぜの死者は欧州で戦死するアメリカ軍人の9倍に上った。この時療養中の順太郎は肺炎薬「レミジン」の服用と最新鎮咳剤「アンチッシン」を感冒の処方薬として服用を推奨し処方箋を告知、日本における蔓延防止策を提唱、多くの人命を救った。明治19年(1886年)から逝去する大正9年(1920年)までの34年間、薬物学講座第一教室において教鞭に立ち後進の育成と薬物探求の一路の生活を続けたが、大正7年(1918年)1月に脳溢血で倒れ、麹町の自宅で療養中にも雑誌寄稿するなど活躍したが病状が悪化し、大正9年(1920年)3月に休職、同年6月4日午前8時逝去、享年65。死に際して贈正三位勲一等瑞宝章追賜。墓地は雑司ヶ谷霊園。東京大学施設内に武石弘三郎作の胸像、浜地清松作の肖像画が保存展示されている。明治初頭、日本の科学研究は治療効果と無関係に行われていた。当時、動植物の成分は単に化学的結晶を抽出分離することに止まり、実際の患者に応用するに努力まで至らず、若し偶然有効成分が単離されたとしても化学的な実証を伴わない偶然の物であった。生体の中にある科学働体が摂取されておこる変化を攻究する学問(実験薬理学)をドイツから日本に導入したのは高橋であった。高橋の研究テーマは動植物成分の科学薬理的研究で、日本の長い伝統に育まれて来た加賀藩の秘薬(漢方薬)に目を向け、漢薬の成分の科学研究を行う。瓜蒂(かてい)、莨菪根(ろうと)、黄芩(おうごん)、麻黄(まおう)、商陸(しょうりく)、河豚、肝油の成分研究を行い、莨菪根からスコポレチン、黄芩からスグデラリン、商陸からフィトラッコトキシンを単離、成分分析を行いジキタリス製剤及びエフェドリンについて薬理学的研究を行う。これら研究による成分単離の化学的研究分析並びに薬理研究を行い、実際患者に利用することを考え研究を進め、日本における治療的応用の基礎を築いた。(以上醫科大學紀要所載 独逸語文 動物学雑誌・藥學雜誌所載 和文) (以上、東京医学会雑誌所載 和文) 業績で特に著名なのがフグ毒で、日本の魚類の中で毒を持つものとして有名な河豚について化学的、薬理学的研究を推し進め、明治20年(1887年)から助教授猪子吉人と共にフグ毒の研究を始め、明治22年(1889年)フグ毒が生魚の体内にあること、水に解けやすいことなどから、高橋はそれがタンパク質(酵素)様のものでないことを証明し、毒力表を作成した。これは動物試験を基にした日本の実験薬理の端緒となった。彼は動植物成分の効果を薬理学的に研究分析して真に有効な物質を得んと努力し、有効成分の化学研究に新しい方向性をドイツから移植した実験薬物学(薬理学)の医学者であった。日本医学界に於ける薬理学を国内に浸透させたのは高橋の指導の基に、門下生猪子吉人、森島庫太、林春雄、石坂友太郎、石坂伸吉、岩川克輝、武藤喜一郎、三野安三郎、清水茂松、上村直親、島薗順次郎、ほか数多くの門人を輩出し、彼らは明治後年から大正・昭和にかけて日本の薬物研究・療法を浸透させて行った。高橋が創製した肺結核薬「ファゴール」は日局クレオソートの誘導体として動物実験に置いて副作用も認められず、結核治療薬として国内に普及した。この「ファゴール」は高価な輸入結核治療薬の国内流入を防ぎ、第一次世界大戦の勃発により諸種の薬品の輸入が絶える状態であったが、この「ファゴール」は国内生産供給を確立しており、国産肺結核薬として広く普及した。日本では、明治17年(1884年)に初めて国産肝油 Cod Liver Oil(眼鏡肝油)が伊藤千太郎商会(現在のワカサ)より発売された。この当時、肝油精製は完全でなく、肝油独特の臭気が残る料飲しづらい液体薬品であった。明治32年(1899年)高橋の肝油成分実験の積み重ねにより良純で消化性の良い肝油抽出が可能になり、さらに飲料しやすい様に糖質を加えた。肝油独特の臭気を取り除き、肝油に糖質を加えたのは高橋氏改良肝油が初の試みで、これにより液体肝油シロップの原型が出来上がった。試行錯誤しながら肝油独特の臭気を排除し、甘味により飲みやすくした改良肝油が明治40年(1907年)三共薬品合資会社から発売された。その後、明治44年(1911年)に、現在の河合製薬が成分を長期に安定化する技術を開発、ドロップ化に成功した。 大正3年(1914年)に第1次世界大戦が勃発。ヨーロッパからの輸入が途絶状態となり医薬品が欠乏し、政府は、輸入途絶医薬品の国産化を奨励した。戦前に『オプトヒン:ドイツ販売名』(エチールヒドロクプレイン)の輸入肺炎薬は戦後に輸入が絶え、高橋が同薬の人工合成を研究し精製、命名したのが肺炎薬「レミジン」である。期しくもスペイン風邪の流行で肺炎薬「レミジン」を国内に浸透させ、流行性感冒治療に役立てた功績は大きい。また大戦により輸入途絶になったサルバルサンの国産化製薬アーセミン606(アーセミン商会=第一製薬の前身)の薬理監修を行った。その他研究成果として、肺炎薬「フェマール」、強心薬「パンギタール」、鎭咳薬「アンチッシン」など世の中に送り出し、日本薬物学の泰斗にふさわしい功績を残した。(明治5年12月2日までは旧暦)) 家紋(定紋)は二重亀の甲ノ内花菱、替紋は三蓋笠(明治3年 先祖由緒并一類附帳 高橋荘兵衛)。髙橋家系譜
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