オトラント海峡海戦(オトラントかいきょうかいせん、Battle of the Strait of Otranto)は、第二次世界大戦中の1940年11月12日に、地中海のオトラント海峡で生起した海戦。この海戦は、連合国艦隊が攻撃目標を求めてアドリア海に入ったことで発生することになった。その艦隊は、ヘンリー・プリダム・ウィッペル中将が率いており、リアンダー級軽巡洋艦「オライオン」「エイジャックス、パース級軽巡洋艦「シドニー、トライバル級駆逐艦「ヌビアン」「モホーク」で構成されていた。この艦隊は、タラントに対する攻撃から敵の目をそらすことを目的としていた。11月12日、4隻の商船Antonio Locatelli、Premuda、Capo Vado、Catalaniからなるイタリアの船団がイタリアのブリンディジからアルバニアのヴロラへ向けて航行していた。この船団は水雷艇ファブリッツィと仮装巡洋艦「ラム3世()」によって護衛されていた。11月11日の夜連合国艦隊は北に向かって進んだ。12日1時にはバーリとドゥラスを結ぶ線まで達し、艦隊は南へと針路を変えた。20分後、艦隊は6隻の敵艦船(上記のイタリア船団)を発見し、それを駆逐艦2隻と商船4隻と判断した。イタリア船団は艦隊の前を横切ってイタリア本土へ向かっていた。1時27分、モホークが砲火を開き、戦闘が開始された。混乱した夜戦の中、シドニーは先頭の貨物船に対して11kmの距離で攻撃をおこない火災を発生させた。その後23分で残り3隻の商船も沈没するか損傷し炎上した。ファブリッツィも被弾してひどく損傷し、11人の死者と17人の負傷者を出してヴロラへ退却した。ラム3世は交戦後、無傷で撤退した。この海戦でイタリア側は4隻の商船すべてを失った。イタリア海軍の人的損害は、戦死36人、負傷42人であった。一方、連合国側の死傷者は皆無であった。ただ、1時40分にはシドニーの艦尾近くを魚雷が通過していた。イタリア空軍機が連合国艦隊の捜索に向かったが、艦隊を発見した飛行艇カントZ.501は撃墜された。イタリア海軍はヴロラの北に魚雷艇部隊を展開させ、巡洋艦や駆逐艦をブリンディジやタラントから出撃させたが、連合国艦隊を捕捉することは出来なかった。海戦後、イタリアの水雷艇2隻が140人を救助した。
出典:wikipedia
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