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加藤宗厚

加藤 宗厚(かとう しゅうこう、1895年7月18日 - 1981年9月22日)は、日本の司書・曹洞宗僧侶。帝国図書館から国立図書館の館長を務めた勲三等を授与された人物。 渡辺重夫によれば、日本十進分類法の著名な研究者の一人。 戸籍上は、明治28年(1895年)7月18日生まれ。小学校へは、明治34年(1901年)4月に入学している。宗厚は、小学3年修了の優等賞として「小豪集」を手にするまで教科書以外の読み物、雑誌、新聞すらなかった自身が帝国図書館に採用されたこと。さらに、100万冊の蔵書を持つ国立図書館長になったことは、摩訶不思議であると当時を振り返っての感想を、自著伝に記している。1895年7月、愛知県中島郡稲島(現・稲沢市)の農家に、三男二女の二男として、生を受ける。幼名は、棄逸、捨一と書いて、すていち。父42歳、母33歳の厄年産まれのため当時の慣習に従って、鎮守社へ捨てられたことに、由来する。この頃、長男にあたる兄は、既に、長崎県対馬竹敷の禅寺で住職を営む叔父(父の末弟にあたる)の養子となっていた。1902年、2つ年下にあたる三男も名古屋の扇子屋に貰われたため跡継ぎとなるものの小学3年に、住職の叔父が帰郷した際に、父と引取り方について相談が成された。当時の宗厚は、学業に強い関心を抱いていたが産まれた妹の子守を頼まれ机を取り上げられていた事に不満があったため叔父の「中学校にも出してやるが!」(鍵括弧部は、加藤宗厚自身が記した弁まま)の一言により衝動的に誘いに乗ることを決めた。以降、引き取った叔父を、師匠と表現する。引き取られてから後、高等小学の上級になる頃には、お経もいくらか覚えたとのことで師匠と檀家廻りを行いつつ有志依頼を受け数名の子供の勉学を見る生活を送る。1908年、13歳の頃に、得度式を行い「宗厚」と命名される。 周囲からは「そうこう」「むねあつ」、子供からは「しるこさん」の名で親しまれる。年を重ねるにつれ、師匠との間にあった情は薄れ厳格な関係となる。また師匠からの「飲酒」「喫煙」の誘惑。師匠の「博打」の生活態度に対する反発心から人生において、この3つを、断つに至る。ただし飲酒については、完全に断ったわけではない。酒嫌いというわけではなく周囲の気遣いもあった。1909年、高等小学校を卒業したものの約束されていた中学進学について、約束の円滑な実行は、なされなかった。 また叔母が胃癌により失ったため進学を留保するも兄の使っていた教科書を譲り受け勉学に勤める。 翌年の秋に、曹洞宗第四中学林の規則書を取り寄せるよう師匠に命じられ山口県三田尻の宮市(防府市)にある宗立中学の受験を目指す。 進学の決意にあたっては、師匠から「典座教訓」「衆寮箴規」「永平清規」などの道元の素読を教わっていたため「宗乗」「余乗」の学科に興味を持ったためと宗厚本人は、述べている。当時の教師の中で特に印象深かったのが国漢を担当した恒藤という人物であると宗厚は振り返っている。 卒業生への送辞を読むにあたり原稿の校正を願い出たところ翌日には、以下のような漢文調の送辞の原稿が渡されたため、当時もっとも親しかったとする越智という人物に奉書に書いてもらうこととなった。「前ニハ白帆碧波ノ風光ヲ望ミ後ニハ青松ノ幽邃ヲ控エタル我ガ学園ニ蛍雪ノ功ヲ積ミ将ニ錦衣ヲ故郷ニ飾ラントス兄等ノ光栄何者カ之ニシカン(中略)同釜ノ飯ヲ喫シソノ情骨肉モ啻ナラザリシ今ヤ桓山飛鳥ノ別レヲ告ゲテ袖ヲ呉越ニ分タントス(中略)諸兄ノ前途ニハ濁浪天ヲ打ツノ海アリ峻嶺天ヲ衝クノ山アリ徒ニ枯禅ニ守株シテ死セル宗教ニ満足スベケンヤ云々」(自著、最後の国立図書館長。35頁より原文まま。続く注意書きとして、記憶のあいまいの部分あり。とのこと)この奉書は、55年の後、駒澤大学入試監督のため多々良に赴いた際に返還され表装保存されるに至っている。大正4年の夏。 家都合等により結婚が叶わぬ初恋を清算。翌年、慶雲寺(住職は、宗厚の叔父と道友関係であった)に出入りするようになり次女との関係を、恋愛ではなく結婚の対象として、考えるようになる。大学進学が控えていることもあり宗厚の師匠は反対をしていたが大学卒業まで親元預かりの約束を交わすことにより大正6年2月、関係者全員の合意の上において、形式上ではあったが挙式を執り行った。この最初の妻は、大正7年2月および大正11年2月に、長男、次男を授かるものの7月に、肺結核を患うこととなり大正15年1月13日に、宗厚と二男一女を残し亡くなる(行年32歳)。最初の妻が無くなった時には、宗厚の母67歳。長男12歳。次男8歳。 宗厚が抱える仕事の重責を理由に、二児を母に託すのは難しいと判断し忌明をもって、後妻を娶ることを決意する。 ハウスキーパー型の堅実でありながら陽気であった彼女の御蔭で家庭を省みることなく職務や研究に没頭できたと宗厚は、述べている。 また宗厚は、公式の場に妻を同伴させることがそれまで無かったのだが昭和40年11月11日の勲記、宝章の伝達式や皇居での式辞。12月8日の日本図書館協会有志による記念祝賀会。12月15日の対馬人会有志による受勲祝賀会には、妻の強い希望により3度同席させることとなる。 年が明けて16日から17日にかけて全身の痙攣から始まり体調を崩し28日には歩行困難となり頭痛を訴え昏睡状態となる。 そのまま29日(宗厚の記述によれば、午前4時10分)に、亡くなる(行年68歳)。

出典:wikipedia

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