黒岩 彰(くろいわ あきら、1961年9月6日 - )は、1980年代に活躍した日本のスピードスケート選手で、現在は富士急行スケート部の監督。現役引退後は、西武ライオンズ球団代表を務めた経歴を持つ。群馬県吾妻郡嬬恋村出身。嬬恋村立干俣小学校の頃からスポーツは得意だったが、唯一スケートだけは同級生の女子に勝てなかった。中学校でスケート部に入部、2年生の時に軽井沢で行われた大会の500mで45秒8の記録で優勝、中学3年の時には、42秒8の群馬県中学記録を作った。群馬県立嬬恋高等学校に進学、1年の時にインターハイの500mで5位、2年の時に優勝した。レークプラシッドオリンピック出場を目指したが、逃している。専修大学商学部に進学、1年次に全日本スプリントスピードスケート選手権大会で優勝、世界スプリント選手権では6位となった。2年次の世界スプリント選手権では怪我の影響もあり8位に終わったが、3年次の世界スプリント選手権では総合優勝を果たした。4年次の1984年サラエボオリンピックでは、前年の世界スプリント選手権に日本人初の優勝を果たしていたこともあり、男子500mの優勝候補に挙げられながらも10位に終わり、北沢欣浩(2位入賞で銀メダル)の後塵を拝する敗北を喫した。このとき、アウトレーンスタートだったことや、天候不良によりスタートが遅れたことなど、黒岩にとっては不利な状況も指摘されたが、それらについては一切コメントをしなかった。この時黒岩は、1964年・東京オリンピック男子マラソンで銅メダルを獲得しながら、その4年後の1968年1月に「もう疲れ切ってしまって走れません」等と遺書を残して自殺した、円谷幸吉が気持ちがわかったという。後年、毎日のようにスケート担当記者から、オリンピックでのメダルを期待する取材を受けたことがストレスになっていたことや、ライバルにプレッシャーをかけようとして最終調整をすべき時期に世界記録を出そうとスケベ根性を出してしまったことを明かしている。決勝本番では滑走しながら、まるでゴム人形を操っている様に、体が自分のものではなくなってしまうような感覚を初めて味わったという。レース後の記憶も曖昧で、4日後の1000m決勝(9位)までの調整や、サラエボの街の記憶も残っていない。1983年大学卒業と同時に西武鉄道の実質的な親会社である国土計画に入社。入社前には堤義明を直接訪ねている。サラエボオリンピック終了後は、当時あまり取り入れられていなかったメンタルトレーニングを行い、実業団スケート部の選手として第一線で活躍。26歳で迎えた1988年カルガリーオリンピックにおいて、この時奇しくも4年前のサラエボ五輪と全く同じアウトレーンスタートであった。しかし黒岩はその男子500mでは36秒77の自己ベスト記録を出して3位入賞、ようやく悲願のオリンピック銅メダリストとなった。世界スプリント選手権では、1983年大会、1987年大会と2度の総合優勝を飾った。1988年に現役を退いてからは同チームの監督に就任し、中長距離の第1人者となった白幡圭史などを育てる。1998年の長野オリンピックでもスピードスケートのコーチとして同行した。コクドの観光部広報課長補佐を経てプロ野球・西武ライオンズに出向した。広報課長、運営部長を担当した。このライオンズへの出向によりコクドスケート部監督を退任、白幡低迷の原因となった。黒岩本人もソルトレイク五輪に向けて伸びるであろう白幡を1人にしてしまったことを後悔している。2000年9月13日に松坂大輔が起こした無免許運転・駐車違反などの不祥事には身代わりとして警察署へ出頭した。しかしその隠蔽行為が写真週刊誌に報道されたことにより、松坂は道路交通法違反、黒岩ともども犯人隠避の疑いで東京地検に書類送検されている。その結果、略式起訴により松坂は罰金19万5000円、黒岩は罰金10万円の略式命令を受けた。球団職員が駐車違反の隠蔽に関与していたことから、当時の小野球団社長及び黒岩は責任を取って辞表を提出するにまでに至った。2004年にはライオンズの球団売却問題に直面した。2004年12月より、西武球団代表に就任。堤義明オーナーが有価証券報告書偽造問題で辞任した球団運営が難しい時期でもあった。2007年1月16日付で球団代表からプリンスホテルに人事異動、新高輪プリンスホテル営業支配人に就任。プロ野球の裏金問題で、2007年5月18日付で人事部付へ降職となる。2007年7月15日付けをもってプリンスホテルを退社。スケート界への復帰の意向を明らかにした。日本スケート連盟会長に就任していた橋本聖子から依頼されて、2008年4月1日付けで、富士急行スケート部監督に就任した。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。