パンコウ区 (Bezirk Pankow) はドイツの首都ベルリンの行政区であり、区コードは03である。2001年の行政改革前にも同名の区があったが、区域は現在に比べ小さかった。この旧パンコウ区、旧プレンツラウアー・ベルク区、旧が合併し、現在のパンコウ区が成立した。人口は約万人とベルリン全区で最大である。またパンコ区、パンコー区とも表記される。パンコウ区はベルリンの北東に位置し、周囲にはリヒテンベルク区、フリードリヒスハイン=クロイツベルク区、ミッテ区、ライニッケンドルフ区があり、またブランデンブルク州のオーバーハーフェル郡、バルニム郡と境界を接している。ほぼ全域にわたって氷河期にできた卓状地にあり、平坦、またはゆるやかな起伏がある。地形の大部分は底堆石平地である。に沿って外縁堆積原が北から南へ広がり、に至る。パンコウ区には全13地区がある。区内の人口分布は非常に差異が大きい。全人口の三分の二が、プレンツラウアー・ベルク、パンコウ、ヴァイセンゼーの各地区に居住している。プレンツラウアー・ベルク地区がベルリンで第五位の人口密度である一方、ブランケンフェルデとシュタットラントジードルング・マルヒョウ(「マルヒョウ都市外縁住宅団地」)地区は、ベルリン全市で最も人口密度の低い地区である。この2地区を合計すると、面積では全区の五分の一を占めるが、人口では全区の1%にも満たない。プレンツラウアー・ベルク地区は、ベルリン全市でノイケルン区のに次いで2番目に人口の多い地区である。時点の人口は人であった。面積は103.07 km²であり、基準日の人口密度は1 km²当たり人であった。2012年12月31日時点の外国人の割合は7.9%であったが、地区によって大幅に異なる。を持つ住民の割合は、前記基準日では13.7%であった。失業率は2013年4月30日では10%と、ベルリン全体で最低であった(参照:最高値はノイケルン区の17.1%)。2012年12月31日時点の平均年齢は40.8歳であった。男女別の割合は、「2011年度統計年鑑」によると、女性が50.7%、男性が49.3%であった。区民の代表機関としてパンコウ区議会が置かれている。2001年の行政改革前の旧パンコウ区長は以下である。2001年の行政改革の後、旧パンコウ区、旧プレンツラウアー・ベルク区、旧が合併し成立した。1920年の大ベルリン成立にともない、それまでに属していた下記の村 () と領地区域 () からベルリン第19区が編成された。ローゼンタール村のを含む西部はライニッケンドルフ区に編入された。区内で最も人口の多い地区の名を取り、「パンコウ」区と名付けられた。旧パンコウ村の役所が新設パンコウ区の区役所および区議会所在地となった。1930年にベルリン地下鉄のとの間が開通し、パンコウ区に地下鉄が到達した。1938年にベルリンの区の境界が変更された。ヴォランク通り (Wollankstraße) 付近のの西側地域は、パンコウ区からに所属が変更になった。ライニッケンドルフ区は北部線より東側の地域、と南部に続くヴァルトシュティーク=ジードルング(Waldsteg-Siedlung, 「森の小道住宅地」)がパンコウ区に編入された。この他にとのプレンツラウアー・ベルク区との境界線に若干の変更があった。境界の変更によって区の人口は1,629人、また面積は81 haに増加した。なおパンコウ区とライニッケンドルフ区との旧境界線は、今日でもハウプト通り (Hauptstraße) がに名称を変える部分に伺える。変更後、最初に建つのはヴィルヘルムスルー変電所 (Abspannwerk Wilhelmsruh) である。第二次世界大戦の末期、1945年4月22日にパンコウ区はソ連赤軍に占領され、ベルリン分割占領の際には、ヤルタ協定に基づきソ連占領地域となった。1949年10月から1990年まで東ベルリンの区 (, 都市区) であった。東ベルリンの地位については議論の余地があるものの、事実上、東ドイツの一部であった。1961年8月にベルリンの壁が建設されると、鉄道線のベルリン北部線に正確に沿った区の境界線は重要な意味を持った。Sバーンの、は、その駅名にもかかわらず西ベルリンに位置するため、パンコウ区から利用できなくなった。Sバーンのはパンコウ区に立地するものの東口は同じく封鎖された。ただし西ベルリンからは利用可能であった。1985年には、当時のパンコウ区から、、が当時のに編入された。これはヴァイセンゼー区の大部分が新設のに編入されたための措置であった。1990年10月3日のドイツ再統一にともない、パンコウ区は連邦州であるベルリンの一部となった。2000年9月16日にはベルリン地下鉄2号線がからまで延伸された。2001年1月1日、パンコウ区はベルリン区改編の一環として、プレンツラウアー・ベルク区と合併した。この広大な新設区の名称は長い対立の末、区議会で再度「パンコウ」に決まった。「パンコウ」という単語は西ドイツでは換喩的に用いられ、東ドイツの指導部を指した。それは1949年からに東ドイツの大統領府が置かれていたためである。なおは当時ヴィルヘルム・ピークであった。大統領制が廃止された後も、1964年にミッテ区のに移転するまで、シェーンハウゼン宮殿は国家元首を担う機関である国家評議会の所在地であった。付近のとともに東ドイツの政治の中枢であった。しかし1974年以降、東西ドイツの関係が改善すると「パンコウ」という用語は影を潜めた。ただし1983年には、の歌謡曲『』で再び日の目を見ることになった。区内の道路交通で重要なのは、都心から放射線状に北方または北東に延びる3本の連邦道路である。(/ベルリン通り (Berliner Straße)、Sバーンのベルリン=パンコウ=ハイナースドルフ (Berlin-Pankow-Heinersdorf) 駅付近でに合流する(/プレンツラウ遊歩道 (Prenzlauer Promenade))、(/)である。重要な道路としてはこの他に2本の環状道路がある。(内側)と、--(Sバーン環状線外側)である。区内のベルリン市電路線の大部分は、道路交通の項で触れた主要道路に沿っている。この他にも南西から北東へ走る補完路線がある。から北へ走る路面電車線はパンコウ地区で3方向へ分岐する。の路線はパンコウ区を抜けた後、進路を東へ向けリヒテンベルク区へ向かう。ベルリーナー・アレーの区間は2005年秋に改修され、防音を目的とした軌道の芝生化、停留所の新設が行われた。区内には東側の北半分がほぼ全て含まれ、Sバーンの、、、、がある。ミッテ区のとの境界に位置するで、南から来た路線はオラーニエンブルク/方面()と 方面(に分岐する。ライニッケンドルフ区との境界付近には、、があるが、シェーンホルツ駅とヴィルヘルムスルー駅はに位置する。北東方向に走るシュテティーン線には、、ベルリン=パンコウ=ハイナースドルフ (Berlin-Pankow-Heinersdorf) 駅、、、ベルリン=ブーフ (Berlin-Buch) 駅がある。ベルリン=ブーフ駅を起点とするのがレギオナルバーンのNB27号線()である。が運行し、、一部はに至る。区内にはベルリン地下鉄2号線の駅が合計5駅ある。プレンツラウアー・ベルク地区には、、が位置し、 には、、がある。シェーンハウザー・アレー駅とパンコウ駅はSバーンとの乗換駅である。パンコウは長距離自転車道路網の一角を成している。経路は博物館島からを進み、へ曲がり、(「[ベルリンの]壁公園」)とパンコウ宮殿公園 (Schlosspark Pankow) を抜け、、方面へ進む。パンコウ区とライニッケンドルフ区、またミッテ区との境界線は、以前の東ベルリン・西ベルリンの境界線であり、今日では(「[ベルリンの]壁の道」)となっている。で重要な建物としては、20世紀初頭に建築された、またのが挙げられる。パンコウ区は緑豊かな区として知られ、、、が特筆に値する。パンコウの開墾と同時に宣教を開始した古パンコウ福音書記者教区教会もある。教会礼拝堂の一部は15世紀に造られている。プレンツラウアー・ベルク地区では、とに挟まれた昔からの地域には一見の価値がある。建物が密集するなか、幅の広い歩道にカフェやクナイペ (, 居酒屋) が立ち並んでいる。1920年代の大規模ジードルングも注目に値し、「」とは対照的な当時の新建築を現代に伝えている。特にブルーノ・タウトが計画したは、ベルリンの他5か所のジードルングとともにユネスコの世界遺産に登録されている。には地区名の元となったほぼ円形の(「白い湖」)は区内最大の水域であり湖畔にはが設けられ、多くの人々が訪れる。また同地区にはがあり、ユダヤ人墓地としてはヨーロッパで最も大きい。パンコウ区北方のの野原(座標:)にベルリン唯一の風力発電施設がある。高さは180 mあり、パンコウ区内で最も高い建造物である。紋章記述:「銀色の地に上部に対し横一文字かつこれに接する目地のない赤い城壁には、門扉のない門が3つあり、真中のものは両端のものに比べ幅広く、高い。下部には8軸の赤い輪があり、その上部の両側にはそれぞれホップが添えられる。盾の上部には赤く3つの塔がついた城壁冠があり、中ほどのものにはがつく」。紋章は、ベルリン州公文書館の調査の結果、紋章学や歴史学が求める条件を満たすものである。2009 年7月28日、パンコウ区の紋章選定に終止符が打たれた。紋章選定委員会の勧告を受け、区議会はこの紋章を制定した。2001年に行政改革が行われると、 旧パンコウ区は合併の結果、現在の大規模区となった。2006年末にはようやく区名をめぐる対立が終わり、2007年10月1日に「紋章選定」が公示された。2008年4月30日に区議会の決議により、紋章専門家に紋章の策定を委託した。これを受けマンチュは規定に沿った候補案をいくつか提出し、区議会と会合を重ねた。2009年2月24日、パンコウ区は制定した紋章を公表した。紋章は正式にから2009年7月28日に授与された。旧パンコウ区の紋章は、1987年のベルリン750周年記念祭に際し授与されたもので、かつての農村としての要素を色濃く反映したものであった。区改編の一環として紋章は差し当たり赤い城壁冠が付け加えられた。3つの塔があり、中ほどの塔にはがつく。城壁冠はベルリン全区に共通する意匠である。
出典:wikipedia
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