岩本 輝雄(いわもと てるお、1972年5月2日 - )は、神奈川県横浜市金沢区出身の元サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。ベルマーレ平塚を皮切りに名古屋グランパスエイトを退団するまで6チーム(ベルマーレの前身、フジタを除く)に在籍した。2004年に名古屋グランパスエイトを退団後、約2年間選手生活から遠ざかっていたが、2006年10月、ニュージーランドのオークランド・シティFCと契約を結び、12月に行われたFIFAクラブワールドカップのオセアニア地区代表として2試合に出場した。ファルカン監督時代の日本代表では10番をつけてプレイした経歴を持つ技巧派で、左足のキックは高い精度と威力を誇った。しかし、ファルカンに10番として選ばれた日本代表ではほとんど活躍せずに終わった。平塚時代の大先輩、信藤健仁は当時の『月刊ベルマーレ』にて、「テルは選ばれるのが早すぎた、野口は選ばれるのが遅すぎた」と発言している。明るく天真爛漫な性格からスター性があり、多くのファンを持ち、Jリーグオールスターサッカーには6度出場している。フジタ/ベルマーレ平塚時代、ニカノールヘッドコーチに見出され左サイドバックにコンバート、右サイドバックの名良橋晃と共に、どんどん攻撃参加する超攻撃的な両サイドバックとしてJリーグ昇格に貢献した。ニカノールからは「守備がきちんとできれば日本一の左サイドバックになれる」と言われたほどだった(が、ついにそれを実現することはなかった)。その活躍が認められ代表にMFとして選出された。草創期のベルマーレを象徴するダイレクトプレーでの素早いサイド攻撃を牽引し、天皇杯優勝、1994年NICOSシリーズ2位など「ベルマーレ旋風」の原動力となる。技術・攻撃力に長けるが、守備・運動量に欠けるいわゆる「スター選手」だった。ベルマーレ旋風の原動力になれたのも、サイドバックからOHの位置にあがり、守備のスペシャリスト、公文裕明が左サイドバックに入ったからである。名古屋グランパスに移籍した際、鹿島アントラーズから移籍してきたDF秋田豊に「正直言ってすぐ消える選手と思っていたのにまだ現役でやっているね」と言われたことがある。華やかな活躍の裏で怪我には何度も泣かされている。1995年には短期留学したブラジルで右足甲を痛め、代表定着のきっかけを失うと、リーグ戦で今度は左膝靱帯を傷めてしまい靱帯に筋を移植、半月板を一部切除する手術を2回受けたため、チームのアジアカップウィナーズカップ初制覇に帯同できなかった。故障の影響からか、その後ベルマーレ平塚での活躍ぶりに陰りが見え始め、京都パープルサンガ、川崎フロンターレ、ヴェルディ川崎へ次々と移籍した。しかし、怪我がちでなかなかチームに定着できずにレギュラーを奪えないことが続き、遂にはV川崎を自主退団してしまう。退団から半年後に入団したベガルタ仙台では、左サイドでの攻撃の軸として復活を果たし、チームをJ1へと導くゴールを挙げた財前宣之へのクロスに象徴される数々のアシストを記録する。2004年には名古屋グランパスエイトへ移籍したが、ここで現役生活を脅かす怪我に泣かされることになる。5月29日のナビスコカップ予選Bグループ第3節対アルビレックス新潟戦(名古屋市瑞穂公園陸上競技場)でジャンプ後の着地に失敗して右足首を負傷し、途中交代した(本人曰く「『ズルッ』と足首の骨が内側にずれる音がした」とのこと)。診断結果が「靱帯の一部損傷」と意外と軽症だったのでしばらくして練習に再開はしたものの、全く痛みが治まらず別の医師の診察を受けたところ「捻挫」だったりと症状がはっきりしなかったため、なかなか試合に復帰することができなかった。実際には負傷した時、既に靱帯が切れていたのだが、足首靭帯断裂という怪我の手術はほとんど前例がなかったために発見と治療が遅れ、10月、12月に2回手術を受けたが回復しないまま名古屋を退団。長いリハビリの日々が始まった。2回の手術で歩行可能にはなったものの、慢性的な痛みが残り、軽く運動しただけで足首はテニスボールのように腫れたという。2005年、癒着してしまった患部の肉を取り除く手術を行ったことである程度動けるようになり、11月にメキシコリーグのトルーカの入団テストを受けるが遂に痛みが限界に達し、途中帰国。最初の手術で靱帯を固定するために穴を開けていた骨が疲労骨折を起こしていたのが原因で、患部も更に悪化していた。ボールを蹴ることができなくなってしまったため、復帰へのモチベーションを失いつつあったが気分転換にスペインへ短期留学を行い、語学の勉強を行っていた際にリーガ・エスパニョーラの試合を観戦したことで「ピッチに戻りたい」という気持ちを再確認する。またこの頃ロベルト・バッジオの専属トレーナーだったイタリア人医師と知り合い、イタリアのボローニャまで訪ねて診察をしてもらったところ彼の診断結果が非常に見通しの明るかったことも復帰への意欲を取り戻すために十分な影響を与えた。リハビリの傍ら芸能プロダクション三桂と契約し、タレントとしても活動をしていた。2006年、4月から6月にかけてNHK衛星放送『東海道五十三次完全踏破 街道てくてく旅』に旅人として出演。徒歩により約500kmある東海道五十三次を2ヶ月半かけて完全制覇した。また、4月発売のゲームウイニングイレブン10の中ではピッチレポーターとして登場している。2008年のNHK教育テレビ『テレビでスペイン語』では得意のスペイン語を生かしてExamen(試験)コーナーでトップ賞を数多く勝ち取っている。9月11日放送分で最後を待たずに総合優勝した。クラブチームの練習に参加し順調な回復を見せていたため、8月にはJリーグのクラブとの契約交渉まで話が進展したが契約は実現せず、海外へ活動の場を求めていた彼にニュージーランドのオークランド・シティからオファーが届く。12月に控えたFIFAクラブワールドカップのために、即戦力として日本での実績と知名度がある岩本に白羽の矢が立ったのだ。オークランド・シティはアマチュアクラブであったため報酬はほとんど出せない状態だった。それでもプレーできる環境を探していた岩本は熱心に掛け合った。そして10月19日、7週間の短期契約を結び、2年ぶりの現役復帰を果たした。12月のFIFAクラブワールドカップで途中出場ながら2試合に出場。これをもって正式に現役を引退。古巣である湘南ベルマーレからのオファーもあったが、断りを入れた。「今後はサッカー解説者に専念する」としていたが、再度の現役復帰を目指して練習中との報道もある。2009年1月、現役時代に所属していたクラブの1つである仙台がクラブの親善大使である「アンバサダー」職を新設。その初代アンバサダーに就任し、2010年まで務めた。2011年12月、横浜創学館高等学校サッカー部コーチに就任。2015年8月よりワタナベエンターテインメントとマネジメント契約することが本人のブログで明らかとなった。現役引退後は、AKB48の熱狂的なファンとしても知られるようになった。推しメンバーは小嶋菜月と大島涼花であることも、公言している。本人曰く「頭の中はサッカーが8割、AKB48が2割」とのこと。2015年9月18日AKB48劇場の公演プロデュースを行った。!colspan="4"|日本!!colspan="2"|リーグ戦!!colspan="2"|!!colspan="2"|天皇杯!!colspan="2"|期間通算191||32||33||4||15||5||239||4146||10||3||1||3||0||52||1122||7||0||0||||||||24||3||4||3||1||0||29||63||0||colspan="2"|-||colspan="2"|-||3||0286||52||||||||||||その他の公式戦|2006||オークランド||16||colspan="2"|-||2||0 !rowspan="2"|通算!!colspan="2"|OFC!colspan="4"|FIFA|1994||9||2!通算
出典:wikipedia
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