蒲生 貞秀(がもう さだひで)は、室町時代の武将、歌人。蒲生氏13代蒲生秀綱の実弟で和田氏を継いでいた和田政秀(秀憲)の子。男児のなかった伯父秀綱の娘を娶って蒲生氏の家督を相続して14代当主となると同時に、蒲生貞秀と名乗る。応仁の乱においては東軍方であり、義兄弟の小倉実澄(お互いの妻が姉妹)などと行動を共にした。また、応仁・文明年間(1467年 - 1486年)に音羽城を築城し、城主となった。近江南部の有力国人として室町幕府と結びついており、延徳3年(1491年)における第2次六角高頼征伐(延徳の乱)の際に10代将軍足利義材から蒲生郡散在所職名田以下の所領の安堵を受けた。しかし、明応の政変で義材が失脚すると11代将軍足利義澄と六角高頼との間で和議が成り、しだいに高頼は南近江で勢力を盛り返した。明応4年(1495年)に高頼が近江守護に返り咲くと蒲生氏も南近江の勢力として実質的に六角氏の組下に属すことになる。同年に貞秀は52歳で出家。長男の秀行に家督を譲り智閑(知閑)と号する。また、次男高郷を高頼に出仕させ、3男秀順は音羽姓を名乗り細川氏へと仕えさせた。明応6年(1497年)には美濃で起きた先の船田合戦で高頼が石丸利光を支援した報復を受け、貞秀ら蒲生家は六角方として斎藤妙純(利国)、京極高清らと交戦している。文亀2年(1502年)に起こった高頼と伊庭貞隆との間の抗争でも高頼を支持。当初は高頼側が優勢だったものの伊庭氏が細川政元が派遣した赤沢朝経の支援を得て反撃に出ると、逆に高頼側は馬淵城、青地城、永原城らを次々と失陥し窮地に立たされる。すると高頼は観音寺城を捨て、貞秀の居城である音羽城に入城し、音羽城は伊庭貞隆と赤沢朝経に包囲・攻撃されたが持ちこたえ、高頼が折を見て政元との講和を締結させると伊庭方も戦いを継続できず兵を退いた。六角氏に属した働きが多くなった蒲生家であるが幕府奉公衆のような働きもしていたようで、永正7年(1510年)には復権した10代将軍足利義稙(義材から改名)の要請を受けて、先の将軍である足利義澄を匿った九里信隆の守る水茎岡山城攻めに幕府軍として参加している。蒲生氏の名籍を継いでいた長男秀行は永正10年(1513年)に貞秀に先立って亡くなっており、次男高郷が蒲生家の家督を強く望んだが、貞秀は秀行の子で自身の嫡孫である蒲生秀紀を後継に据えた。しかしながら後年になって遺恨となり、秀紀と高郷の間で家督争いが生じている。永正11年(1514年)に死去、享年71。戒名は信楽院殿大弐法眼智閑大徳。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。