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イギリス

グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(グレートブリテンおよびきたアイルランドれんごうおうこく、)、通称の一例としてイギリス、あるいは英国(えいこく)は、ヨーロッパ大陸の北西岸に位置するグレートブリテン島・アイルランド島北東部・その他多くの島嶼から成る主権国家である。イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの4つの国で構成されている。正式名称は、英語ではthe United Kingdom of Great Britain and Northern Irelandであり、日本語では、「グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国」とする場合(法文など)と「グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国」とする場合(条約文など)がある。英語での略称はUnited Kingdom、UK。日本語における一般的な略称は「イギリス」か「英国」であるが、稀に「連合王国」が用いられることもある。現在の公用文では「英国」が使用されており「イギリス」は口語で用いられることが多い。「連合王国」は2003年まで法文において用いられていた。「イギリス」はポルトガル語でイングランドを指すInglez(イングレス)が語源で、元の意味に関わらず連合王国全体を指して使われておりその一部を為す「イングランド」とは区別されている。江戸時代にはオランダ語のEngelsch(エンゲルシュ)を語源とする「エゲレス」という呼称も広く使用された。幕末から明治・大正期には「英吉利」(えいぎりす=イギリス)や「大不列顛」(だいふれつてん=大ブリテン)と表記される事もあったが、前者が「英国」という略称の語源である。ただし「英国」は狭義に連合王国全体でなくイングランド(英格蘭)のみを指す場合もある。1707年合同法においては、イングランド王国およびスコットランド王国を1王国に統合すると宣言する。同法において、新国家名称は「グレートブリテン王国」または「グレートブリテン連合王国」および「連合王国」とすると述べている。しかしながら、「連合王国」という用語は18世紀における非公式の使用にのみ見られ、「長文式」でない単なる「グレート・ブリテン」であった1707年から1800年まで、同国はごくまれに正式名称である「グレート・ブリテン連合王国」と言及された。1800年合同法では、1801年にグレート・ブリテン王国とアイルランド王国が統合し、グレート・ブリテン及びアイルランド連合王国が成立した。現在の正式国名である「グレート・ブリテン及び北(部)アイルランド連合王国」は、北アイルランドが連合王国の一部としてとどまった1922年のアイルランド自由国独立および後に採用された。イギリスは主権国家として国であるが、イングランド、スコットランド、ウェールズ、それほどの段階ではないが北アイルランドも、主権国家ではないが「国」(country)とよばれる。スコットランド、ウェールズ、北アイルランドは、権限の委譲による自治権を有する。イギリス首相のウェブサイトでは、連合王国の説明として「1国内の国々」という言葉が用いられていた。統計のような複数の統計的概要において、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドを「region」と言及している。北アイルランドは「province」とも言及される。北アイルランドに関しては、記述名の使用が「多くの場合、個人の政治的選好を明らかにする選択で議論の的になり得る」。英語では「Britain」という言葉は、連合王国の同義語として頻繁に用いられる。一方、「Great Britain」という言葉は、連合王国全体の緩い同義語として用いられる場合もあるが、本来はイングランド、スコットランドおよびウェールズを指すものであり、北アイルランドを含む(すなわち、イギリス全体を指す)場合には用いるべきでないとされる。"GB"及び"GBR"は、イギリスの標準国名コード (及びISO 3166-1 alpha-3を参照) であり、その結果として国際機関がイギリスに言及する際に用いられることがある。さらに、イギリスのオリンピックチームは「Great Britain」もしくは「Team GB」の名称を用いる。形容詞の「British」は、イギリスに関する事項への言及によく用いられる。「British」に明白な法的含意はないが、イギリスの市民権及び国籍に関する事項への言及に法律上用いられる。イギリスの国民は、自らの国民性を表現するのに多数の異なる用語を用いり、自らをイギリス人であるか、イングランド人、スコットランド人、ウェールズ人、北アイルランド人、アイルランド人であるか、又はその両方であると見なし得る。2006年、に新デザインが導入された。新パスポートの1ページ目には、英語、ウェールズ語、スコットランド・ゲール語で正式国名が記載されている。ウェールズ語での正式国名は"Teyrnas Unedig Prydain Fawr a Gogledd Iwerddon"であり、政府のウェブサイト上での略名は"Teyrnas Unedig"であるが、通常は語形変化した形"Y Deyrnas Unedig"から"DU"と略される。スコットランド・ゲール語での正式国名は"Rìoghachd Aonaichte Bhreatainn is Èireann a Tuath"であり、略名は"Rìoghachd Aonaichte"である。1066年にノルマンディー公であったウィリアム征服王 (William the Conqueror) がイングランドを征服し、大陸の進んだ封建制を導入して、王国の体制を整えていった。人口、経済力に勝るイングランドがウェールズ、スコットランドを圧倒していった。1282年にウェールズ地方にもイングランドの州制度がしかれ、1536年及び1543年の統一法の下、正式に併合した()。1603年にイングランドとスコットランドが同君連合を形成、1707年、合同法により、イングランドとスコットランドは合邦しグレートブリテン王国となった。さらに1801年の合同法ではアイルランド王国と合邦し、グレートブリテン及びアイルランド連合王国となった。ウィンザー朝のジョージ5世の1922年に英愛条約が発効され、北部6州(北アイルランド;アルスター9州の中の6州)を除く26州がアイルランド自由国(現アイルランド共和国)として独立し、1927年に現在の名称へと改名した。スコットランドが独立すべきかどうかを問う住民投票が2014年9月に実施されたが独立は否決された。イギリスは世界に先駆けて産業革命を達成し、19世紀始めのナポレオン戦争後は七つの海の覇権を握って世界中に進出し、カナダからオーストラリア、インドや香港に広がる広大な植民地を経営し、奴隷貿易が代表するような交易を繰り広げイギリス帝国を建設した。中国国内でのアヘン販売を武力で認めさせるため、清朝に対して阿片戦争を仕掛けた。栄光ある孤立はエドワード7世のときに放棄され、イギリスの覇権を裏づけていた金融資本は世界各地に散らばってゆき、やがてバルフォア報告書が提出された。第二次世界大戦後はかつて植民地であったアメリカに覇権を譲った。労働党のクレメント・アトリー政権が「ゆりかごから墓場まで」をスローガンにいち早く福祉国家を作り上げたが、階級社会の伝統が根強いこともあって経済の停滞を招き、1960年代以降は「英国病」とまで呼ばれる不景気に苦しんだ。1980年代に保守党のマーガレット・サッチャー政権が経済再建のためにネオリベラリズム的なサッチャー主義に基づき、急進的な構造改革(民営化・行政改革・規制緩和)を実施し、失業者が続出、地方経済は不振を極めたが、ロンドンを中心に金融産業などが成長した。1990年代、政権は保守党から労働党のトニー・ブレアに交代し、イギリスは市場化一辺倒の政策を修正した第三の道への路線に進むことになった。このころからイギリスは久しぶりの好況に沸き、「老大国」のイメージを払拭すべく「クール・ブリタニア」と呼ばれるイメージ戦略、文化政策に力が入れられるようになった。イギリスはグレートブリテン島のイングランド、ウェールズ、スコットランド、およびアイルランド島北東部の北アイルランドで構成されている。この2つの大きな島と、その周囲大小の島々をブリテン諸島と呼ぶ。グレートブリテン島は中部から南部を占めるイングランド、北部のスコットランド、西部のウェールズに大別される。アイルランド島から北アイルランドを除いた地域はアイルランド共和国がある。北アイルランドとアイルランド共和国の国境の他に、イギリスは大西洋に囲まれ、東に北海、南にイギリス海峡がある。アイリッシュ海は、グレートブリテン島とアイルランド島の間に位置する。イギリスの総面積は243,610kmであり、世界第78位及びヨーロッパ第11位。イングランドの大部分は岩の多い低地からなり、北西の山がちな地域(湖水地方のカンブリア山脈)、北部(ペニンネスの湿地帯、ピーク・ディストリクトの石灰岩丘陵地帯、デールと呼ばれる渓谷、パーベック島、リンカンシャーの石灰岩質の丘陵地帯)から南イングランドの泥炭質のノース・ダウンズ、サウス・ダウンズ、チルターンにいたる。イングランドを流れる主な河川は、テムズ川、セヴァーン川、トレント川、ウーズ川である。主な都市はロンドン、バーミンガム、ヨーク、ニューカッスル・アポン・タインなど。イングランド南部のドーヴァーには、英仏海峡トンネルがあり、対岸のフランスと連絡する。イングランドには標高 1000m を超える地点はない。ウェールズは山がちで、最高峰は標高 1,085m のスノードン山である。本土の北にアングルシー島がある。ウェールズの首都また最大の都市はカーディフで、南ウェールズに位置する。スコットランドは地理的に多様で、南部および東部は比較的標高が低く、ベン・ネビス山がある北部および西部は標高が高い。ベン・ネビス山はイギリスの最高地点で標高 1343 m である。スコットランドには数多くの半島、湾、ロッホと呼ばれる湖があり、グレート・ブリテン島最大の淡水湖であるロッホ・ネスもスコットランドに位置する。西部また北部の海域には、ヘブリディーズ諸島、オークニー諸島、シェトランド諸島を含む大小さまざまな島が分布する。スコットランドの主要都市は首都エディンバラ、グラスゴー、アバディーンである。北アイルランドは、アイルランド島の北東部を占め、ほとんどは丘陵地である。中央部は平野で、ほぼ中央に位置するネイ湖はイギリス諸島最大の湖である。主要都市はベルファストとデリー。現在イギリスは大小あわせて1098ほどの島々からなる。ほとんどは自然の島だが、いくつかはクランノグといわれる、過去の時代に石と木を骨組みに作られ、しだいに廃棄物で大きくなっていった人工の島がある。イギリスの大半はなだらかな丘陵地及び平原で占められており、国土のおよそ90%が可住地となっている。そのため、国土面積自体は日本のおよそ3分の2(本州と四国を併せた程度)であるが、可住地面積は逆に日本の倍近くに及んでいる。イギリスは森林も少なく、日本が国土の3分の2が森林で覆われているのに対し、イギリスの森林率は11%ほどである。その他、のフォークランド諸島、ジブラルタル、インド洋地域を含む14の海外領土を有する。ガーンジー、ジャージー、マン島はイギリスの一部ではなく、イギリスの君主をともに君主とし、イギリス政府が防衛及び国際的表示に対して責任を負う王室属領である。イギリスは四つの非独立国であるイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドより構成される。それぞれの国は首都を持ち、ロンドン(イングランド)、エディンバラ(スコットランド)、カーディフ(ウェールズ)、ベルファスト(北アイルランド)がそれである。中でもイングランドの首都であるロンドンは、イギリス連合王国の首都としての機能も置かれている。イングランドの首都ロンドンは、ヨーロッパ第2の規模の都市的地域及びユーロスタットによれば欧州連合最大の約1,400万人の人口を有する都市圏であり、重要な世界都市及び金融センターである。ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの首都は各々カーディフ、エディンバラ、ベルファストである。4位以下の都市人口が僅差であり順位が変わりやすい。2006年はロンドン、バーミンガム、リーズ、グラスゴー、シェフィールドの順となっている。イギリスの気候は2つの要因によって基調が定まっている。まず、メキシコ湾流に由来する暖流の北大西洋海流の影響下にあるため、北緯50度から60度という高緯度にもかかわらず温暖であること、次に中緯度の偏西風の影響を強く受けることである。以上から西岸海洋性気候 (Cfb) が卓越する。大陸性気候はまったく見られず、気温の年較差は小さい。メキシコ湾流の影響は冬季に強く現れる。特に西部において気温の低下が抑制され、気温が西岸からの距離に依存するようになる。夏季においては緯度と気温の関連が強くなり、比較的東部が高温になる。水の蒸散量が多い夏季に東部が高温になることから、年間を通じて東部が比較的乾燥し、西部が湿潤となる。降水量の傾向もメキシコ湾流の影響を受けている。東部においては、降水量は一年を通じて平均しており、かつ、一日当たりの降水量が少ない。冬季、特に風速が観測できない日には霧が発生しやすい。この傾向が強く当てはまる都市としてロンドンが挙げられる。西部においては降水量が2500mmを超えることがある。首都ロンドンの年平均気温は10.0度、年平均降水量は750.6mm。1月の平均気温は4.4度、7月の平均気温は17.1度。政体は議院内閣制を踏まえた立憲君主制に基づき統治されており、君主は1952年2月6日以来エリザベス2世である。不成典憲法(不文憲法)の国家であり、一つに成典化された憲法典はなく、制定法(議会制定法だけでなく「大憲章(マグナ・カルタ)」のような国王と貴族の契約も含む)や判例法、歴史的文書及び慣習法(憲法的習律と呼ばれる)などイギリスの憲法を構成している。憲法を構成する法律が他の法律と同様に議会で修正可能なため軟性憲法と呼ばれる。国家元首はイギリスの君主であるが、憲法を構成する慣習法の一つに「国王は君臨すれども統治せず」とあり、その存在は極めて儀礼的である。このように歴史的にも人の支配を排した法の支配が発達しており、伝統の中に築かれた民主主義が見て取れる。また、立法権優位の議会主義が発達している。議院内閣制や政党制(複数政党制)など、現在多くの国家が採用している民主的諸制度が発祥した国として有名である。立法権は議会に、行政権は首相及び内閣に、司法権はイギリス最高裁判所及び以下の下級裁判所によって行使される。イギリスの議会は、上院(貴族院)と下院(庶民院)の二院制である。1911年に制定された議会法(憲法の構成要素の一つ)により、「下院の優越」が定められている。議院内閣制に基づき、行政の長である首相は憲法的習律に従って下院第一党党首(下院議員)を国王が任命、閣僚は議会上下両院の議員から選出される。下院は単純小選挙区制による直接選挙(普通選挙)で選ばれるが、上院は非公選であり任命制である。近年、従来右派の保守党と左派の労働党により二大政党制化して来たが、近年では第三勢力の自由民主党(旧自由党の継承政党)の勢力も拡大している。ウェールズ、スコットランド、北アイルランドは各々異なる政権を有しており、1996年に北アイルランド議会、1999年にはスコットランド議会とウェールズ議会が設置され、自治が始まった。スコットランドには主にスコットランド国民党によるスコットランド独立運動が存在し、北アイルランドには20世紀から続く北アイルランド問題も存在する。2016年6月欧州連合からの離脱を問う国民投票で賛成多数となり、1973年のEEC加盟以来の大陸との一体化が幕を閉じた。これを受けてキャメロン首相からメイ首相へ交代した。連合王国の地方行政制度は次の各地方によって異なっている。このほか、連合王国には含まれないものの、連合王国がその国際関係について責任を負う地域として、海外領土および王室属領が存在する。イギリスは19世紀から20世紀前半までの間、世界最高位の大国であった。現在も列強であり続け、経済、文化、軍事、科学、政治で国際的な。1946年の第1回国際連合安全保障理事会以来、同国は同理事会常任理事国であり、G7G8、G20、NATO、欧州評議会、OECD 、WTO、EUの加盟国となっている。そして、アメリカ合衆国と歴史的に「特別な関係」を持つ。アメリカ合衆国とヨーロッパ以外にも、1920年代までは日本と日英同盟を結んでいた友好同盟国であったため、大正時代の日本海軍はイギリス海軍の伝統に多大な影響を受けながら発展した。イギリスと密接な同盟国は、連邦国と他の英語圏の国家を含む。イギリスの世界的な存在と影響は、各国との相補関係と軍事力を通して拡大されている。それは、世界中で約80の軍事基地の設置と軍の配備を維持していることにも現れている。2011年の軍事支出は627億ドルと一定水準を保っている。イギリスの軍隊は「イギリス軍」または「陛下の軍」として知られている。しかし、公式の場では「アームド・フォーシーズ・オブ・ザ・クラウン」と呼ばれる(クラウンは冠、王冠の意)。全軍の最高司令官はイギリスの君主であるが、首相が事実上の指揮権を有している。軍の日常的な管理は国防省に設置されている国防委員会によって行われている。イギリスの軍隊は各国の軍隊に比べて広範囲にわたる活動を行い、世界的な戦力投射能力を有する軍事大国の1つに数えられ、国防省によると軍事費は世界で2位を誇る。現在、軍事費はGDPの2.5%を占めている。イギリス軍はイギリス本国と海外の領土を防衛しつつ、世界的なイギリスの将来的国益を保護し、国際的な平和維持活動の支援を任ぜられている。2005年の時点で陸軍は102,440名、空軍は49,210名、海軍(海兵隊を含む)は36,320名の兵員から構成されており、イギリス軍の190,000名が現役軍人として80か国以上の国に展開、配置されている。イギリスは核兵器の保有を認められている5カ国の1つであり、である。核弾頭搭載のトライデント II 潜水艦発射弾道ミサイル (SLBM) を運用している。イギリス海軍は、トライデント IIを搭載した原子力潜水艦4隻で核抑止力の任務に担っている。イギリス軍の幅広い活動能力にも関わらず、最近の国事的な国防政策でも協同作戦時に最も過酷な任務を引き受けることを想定している。イギリス軍が単独で戦った最後の戦争はフォークランド紛争で、全面的な戦闘が丸々3か月続いた。現在はボスニア紛争、コソボ紛争、アフガニスタン侵攻、イラク戦争など、アメリカ軍やNATO諸国との連合作戦が慣例となっている。イギリス海軍の軽歩兵部隊であるイギリス海兵隊は、水陸両用作戦の任務が基本であるが、イギリス政府の外交政策を支援するため、軽歩兵部隊の特性を生かして海外へ即座に展開できる機動力を持つ。IMFによると、2013年のイギリスのGDPは2兆5357億ドルであり、世界第6位、欧州では、ドイツ、フランスに次ぐ第3位である。同年の一人当たりのGDPは39,567ドルである。購買力平価では世界第10位である。人間開発指数は世界第14位で「非常に高い」に分類される。首都ロンドンはニューヨークや香港などと共に世界トップレベルの金融センターである。ロンドンのシティには、世界屈指の証券取引所であるロンドン証券取引所がある。イギリスの外国為替の1日平均取引金額は2兆7260億ドルであり、アメリカの2倍以上の規模を誇り世界一である。富裕層人口も非常に多く、金融資産100万ドル以上を持つ富裕世帯は約41万世帯と推計されており、アメリカ、日本、中国に次ぐ第4位である。また、金融資産1億ドル以上を持つ超富裕世帯は1,125世帯と推計されており、アメリカに次ぐ第2位である。18世紀の産業革命以降、近代において世界経済をリードする工業国で、造船や航空機製造などの重工業から金融業やエンターテイメント産業に至るまで、様々な産業が盛んである。歴史的に造船業は特筆に値し、三段膨張機関が登場してから第一次世界大戦勃発までは世界の船の三分のニを生産した。しかしながら、19世紀後半からはアメリカ合衆国、ドイツ帝国の工業化により世界的優位は失われた。イギリスを含む世界金融資本がイギリス製造業への投資より、ドイツ・アメリカおよび植民地への投資を選好したためである。イギリス製造業はしだいにドイツ・フランスやアメリカ合衆国に立ち後れるようになってゆく。20世紀に入るころより国力は衰え始め、二度の世界大戦はイギリス経済に大きな負担を与えた。各地の植民地をほとんど独立させた1960年代後半には経済力はいっそう衰退した。戦後の経済政策の基調は市場と国営セクター双方を活用する混合経済体制となり、左派の労働党は「ゆりかごから墓場まで」と呼ばれる公共福祉の改善に力を入れ、保守党も基本的にこれに近い政策を踏襲、1960年代には世界有数の福祉国家になった。しかし、オイルショックを契機とした不況になんら実用的な手立てを打たなかったために、継続的な不況に陥り、企業の倒産やストが相次いだ。20世紀初頭から沈滞を続けたイギリス経済は深刻に行き詰まり、英国病とまで呼ばれた。1979年に登場したサッチャー政権下で国営企業の民営化や各種規制の緩和が進められ、1980年代後半には海外からの直接投資や証券投資が拡大した。この過程で製造業や鉱業部門の労働者が大量解雇され、深刻な失業問題が発生。基幹産業の一つである自動車産業の殆どが外国企業の傘下に下ったが、外国からの投資の拡大を、しだいに自国の産業の活性化や雇用の増大に繋げて行き、その後の経済復調のきっかけにして行った(ウィンブルドン現象)。その後、1997年に登場したブレア政権における経済政策の成功などにより、経済は復調し、アメリカや他のヨーロッパの国に先駆けて好景気を享受するようになったが、その反面でロンドンを除く地方は経済発展から取り残され、貧富の差の拡大や不動産価格の上昇などの問題が噴出してきている。さらに、2008年にはアメリカ合衆国のサブプライムローン問題の影響をまともに受けて金融不安が増大した上に、資源、食料の高騰の直撃を受け、アリスター・ダーリング財務大臣が「過去60年間で恐らく最悪の下降局面に直面している」と非常に悲観的な見通しを明らかにしている。2012年2月時点で失業率は8%を超えるまでに悪化した状態にある。イギリスの鉱業は産業革命を支えた石炭が著名である。300年以上にわたる採炭の歴史があり、石炭産業の歴史がどの国よりも長い。2002年時点においても3193万トンを採掘しているものの、ほぼ同量の石炭を輸入している。北海油田からの原油採掘量は1億1000万トンに及び、これは世界シェアの3.2%に達する。最も重要なエネルギー資源は天然ガスであり、世界シェアの4.3%(第4位)を占める。有機鉱物以外では、世界第8位となるカリ塩 (KCl) 、同10位となる塩 (NaCl) がある。金属鉱物には恵まれていない。最大の鉛鉱でも1000トンである。最も早く工業化された国であり、現在でも高度に工業化されている。農業の重要性は低下し続けており、GDPに占める農業の割合は2%を下回った。しかしながら、世界シェア10位以内に位置する農産物が8品目ある。穀物ではオオムギ(586万トン、世界シェア10位、以下2004年時点)、工芸作物では亜麻(2万6000トン、5位)、テンサイ(790万トン、9位)、ナタネ(173万トン、5位)、ホップ(2600トン、6位)である。家畜、畜産品では、ヒツジ(3550万頭、7位)、羊毛(6万5000トン、5位)、牛乳(1480万トン、9位)が主力。イギリスは産業革命成立後、自由貿易によって多大な利益を享受してきた。ただし、21世紀初頭においては貿易の比重は低下している。2004年時点の貿易依存度、すなわち国内総生産に対する輸出入額の割合は、ヨーロッパ諸国内で比較するとイタリアと並んでもっとも低い。すなわち、輸出16.1%、輸入21.3%である。国際連合のInternational Trade Statistics Yearbook 2003によると、品目別では輸出、輸入とも工業製品が8割弱を占める。輸出では電気機械(15.2%、2003年)、機械類、自動車、医薬品、原油、輸入では電気機械 (16.3%)、自動車、機械類、衣類、医薬品の順になっている。貿易相手国の地域構成は輸出、輸入ともヨーロッパ最大の工業国ドイツと似ている。輸出入とも対EUの比率が5割強。輸出においてはEUが53.4%(2003年)、次いでアメリカ合衆国15.0%、アジア12.1%、輸入においてはEU52.3%、アジア15.1%、アメリカ合衆国9.9%である。国別では、主な輸出相手国はアメリカ合衆国(15.0%、2003年)、ドイツ (10.4%)、フランス (9.4%)、オランダ (5.8%)、アイルランド (6.5%)。輸入相手国はドイツ (13.5%)、アメリカ合衆国 (9.9%)、フランス (8.3%)、オランダ (6.4%)、中華人民共和国 (5.1%) である。イギリスの原子力発電に対する中華人民共和国の投資と技術協力を積極的に推進することで、エネルギー政策と経済力の強化に取り組んでいる。2016年には、中国からの投資による原子炉の建造を承認した。EU加盟国ではあるが、通貨はユーロではなくスターリング・ポンド (GBP) が使用されている。補助単位はペニーで、1971年より1ポンドは100ペンスである。かつてポンドはUSドルが世界的に決済通貨として使われるようになる以前、イギリス帝国の経済力を背景に国際的な決済通貨として使用された。イギリスの欧州連合加盟に伴い、ヨーロッパ共通通貨であるユーロにイギリスが参加するか否かが焦点となったが、イギリス国内に反対が多く、通貨統合は見送られた。イングランド銀行が連合王国の中央銀行であるが、スコットランドと北アイルランドでは地元の商業銀行も独自の紙幣を発行している。イングランド銀行の紙幣にはエリザベス女王が刷られており、連合王国内で共通に通用する。スコットランド紙幣、北アイルランド紙幣ともに連合王国内で通用するが、受け取りを拒否されることもある。2016年6月24日、1993年に加盟した欧州連合(EU)の脱退が、国民投票によって正式に決定した。イギリスでは、ヒースロー空港などにある自動販売機でSIMカードが購入できる。プリペイド式となっており、スーパーなどで、通話・通信料をチャージして使う。おもな通信業者自動車は左側通行である。また、インド・オーストラリア・香港・シンガポールなど、旧イギリス植民地の多くが左側通行を採用している。近代鉄道の発祥の地であり国内には鉄道網が張り巡らされ、ロンドンなどの都市には14路線ある地下鉄(チューブトレイン)網が整備されている。しかし1960年代以降は設備の老朽化のために事故が多発し、さらに運行の遅延が常習化するなど問題が多発している。小規模の民間地方鉄道の運営する地方路線の集まりとして誕生したイギリスの鉄道は、19世紀から20世紀前期にかけて、競合他社の買収などを通じて比較的大規模な少数の会社が残った。1921年にはついにロンドン・ミッドランド・アンド・スコティッシュ鉄道、ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道、グレート・ウェスタン鉄道、サザン鉄道の4大鉄道会社にまとまり、これらは1948年に国有化されてイギリス国鉄 (BR) となった。しかし1994~97年にBRは、旅客輸送・貨物輸送と、線路や駅などの施設を一括管理する部門に分割されて民営化された。1994年開業したイギリス、フランス両国所有の英仏海峡トンネルは、イングランドのフォークストンからフランスのカレーまで、イギリス海峡の海底130mを長さ50.5kmで走る3本の並行したトンネルからなる。1本は貨物専用で、残り2本は乗客・車・貨物の輸送に使われる。このトンネルを使ってセント・パンクラス駅からはヨーロッパ大陸との間を結ぶユーロスターが運行され、パリやブリュッセル、リールなどのヨーロッパ内の主要都市との間を結んでいる。周囲を海に囲まれている上、世界中に植民地を持っていたことから古くからの海運立国であり、P&Oやキュナード・ラインなど多くの海運会社がある。また、歴史上有名な「タイタニック号」や「クイーン・エリザベス2」、「クイーン・メリー2」などの著名な客船を運航している。民間航空が古くから発達し、特に国際線の拡張は世界に広がる植民地間をつなぐために重要視されてきた。現在は、ブリティッシュ・エアウェイズやヴァージン・アトランティック航空、bmiやイージージェットなどの航空会社がある。中でもブリティッシュ・エアウェイズは、英国海外航空と英国欧州航空の2つの国営会社が合併して設立され、1987年に民営化された世界でも最大規模の航空会社で2009年にはスペインイベリア航空と統合合意し、2011年にインターナショナル・エアラインズ・グループを設立した。航空機製造業もBAEシステムズやエンジン製造のロールス・ロイス・ホールディングスがあり、1976年にはフランスとともに、コンコルド機を開発して世界初の超音速旅客輸送サービスを開始。しかし、老朽化とコスト高などにより2003年11月26日をもって運航終了となり、コンコルドは空から姿を消した。主な空港として、ロンドンのヒースロー空港、ガトウィック、スタンステッドのほか、ルートン、マンチェスター、グラスゴーなどが挙げられる。日本との間には2016年サマースケジュールでは、ヒースロー空港と成田空港の間にブリティッシュ・エアウェイズのみ1日1便直行便を運航し、羽田空港の間にも、ブリティッシュ・エアウェイズ、日本航空、全日本空輸がそれぞれ1日1便直行便を運航している。かつてはヴァージン・アトランティック航空が就航していたが2015年に撤退している。17世紀の科学革命はイングランドとスコットランドが、18世紀の産業革命はイギリスが世界の中心であった。重要な発展に貢献した科学者と技術者を多数輩出している。アイザック・ニュートン、チャールズ・ダーウィン、電磁波のジェームズ・クラーク・マクスウェル、そして最近では宇宙関係のスティーブン・ホーキング。科学上の重要な発見者には水素のヘンリー・キャベンディッシュ、ペニシリンのアレクサンダー・フレミング、DNAのフランシス・クリックがいる。工学面ではグラハム・ベルなど。科学の研究・応用は大学の重要な使命であり続け、2004年から5年間にイギリスが発表した科学論文は世界の7%を占める。学術雑誌ネイチャーや医学雑誌ランセットは世界的に著名である。イギリスの人口は2015年時点で推計6,471万人であり世界第22位である。「イギリス民族」という民族は存在しない。主な民族はイングランドを中心に居住するゲルマン民族系のイングランド人(アングロ・サクソン人)、ケルト系のスコットランド人、アイルランド人、ウェールズ人だが、旧植民地出身のインド系(印僑)、アフリカ系、カリブ系、アラブ系や華僑なども多く住む多民族国家である。イギリスの国籍法では、旧植民地関連の者も含め、自国民を次の六つの区分に分けている。いずれの身分に属するかによって、国内での様々な取扱いで差異を生ずることがあるほか、パスポートにその区分が明示されるため、海外渡航の際も相手国により取扱いが異なることがある。例えば、日本に入国する場合、British citizen(本国人)とBritish National (Overseas)(英国籍香港人)は短期訪問目的なら査証(ビザ)不要となるが、残りの四つは数日の観光訪日であってもビザが必要となる。事実上の公用語は英語(イギリス英語)でありもっとも広く使用されているが、イングランドの主にコーンウォールでコーンウォール語、ウェールズの主に北部と中部でウェールズ語、スコットランドの主にローランド地方でスコットランド語、ヘブリディーズ諸島の一部でスコットランド・ゲール語、北アイルランドの一部でとアイルランド語が話されており、それぞれの構成国で公用語になっている。特に、ウェールズでは1993年にウェールズ語が公用語になり、英語と同等の法的な地位を得た。2001年現在、ウェールズ人口の約20%がウェールズ語を使用し、その割合は僅かではあるが増加傾向にある。公文書や道路標識などはすべてウェールズ語と英語とで併記される。また、16歳までの義務教育においてウェールズ語は必修科目であり、ウェールズ語を主要な教育言語として使用し、英語は第二言語として扱う学校も多く存在する。10年に一度行われるイギリス政府の国勢調査によれば、2001年、キリスト教徒が71.6%、イスラム教徒が2.7%、ヒンドゥー教徒が1.0%。2011年、キリスト教徒74.7%、イスラム教徒2.3%、ヒンドゥー教徒が1.1%。キリスト教徒が増えた背景には、2011年4月29日のウィリアム王子の結婚が影響しているという見解がある。キリスト教の内訳は、英国国教会が62%、カトリックが13%、長老派が6%、メソジストが3%程度と推定されている。婚姻の際には、夫婦同姓・複合姓・夫婦別姓のいずれも選択可能である。また同性結婚も可能である。また、在日英国大使館においても、同性結婚登録を行うことが可能である。イギリスの学校教育は地域や公立・私立の別により異なるが、5歳より小学校教育が開始される。イギリスの医療は各地域それぞれの地方分権型であり、公的医療とプライベート診療が存在する。公的医療は国民保健サービス(NHS)によりすべてのイギリス人に提供され、医学的必要性が認められる治療は大部分は自己負担なしであり、費用は一般税収を原資としている(公費負担医療)。NHSにはイギリス国家予算の25.2%が投じられている。国全体にかかわる規制は、やや、またロイヤル・カレッジなどの外部機関が行っている。しかし政策や現業の責務は、各地方行政区である4つの女王陛下の政府、北アイルランド政府、スコットランド政府、ウェールズ政府がそれぞれになっている。それぞれの運営するNHSは、各々の政策や優先度を持ち、施政に違いをもたらしている。英国はGDPの8.5%を医療に支出しており、これはOECD平均と比べて-0.5%、EU平均と比べて-1%の値であった。1979年に保健支出が急増したことにより、その値はEU平均に近くなってきている。WHOは2000年に英国の医療制度を欧州で15位、世界で18位と評している。多くの傑作を後世に残したウィリアム・シェイクスピアは、イギリス・ルネサンス演劇を代表する空前絶後の詩人、および劇作家と言われる。初期のイギリス文学者としてはジェフリー・オブ・モンマスやジェフリー・チョーサー、トマス・マロリーが著名。18世紀になるとサミュエル・リチャードソンが登場する。彼の作品には3つの小説の基本条件、すなわち「フィクション性および物語性、人間同士の関係(愛情・結婚など)、個人の性格や心理」といった条件が満たされていたことから、彼は「近代小説の父」と呼ばれている。19世紀の初めになるとウィリアム・ブレイク、ウィリアム・ワーズワースらロマン主義の詩人が活躍した。19世紀には小説分野において革新が見られ、ジェーン・オースティン、ブロンテ姉妹、チャールズ・ディケンズ、トーマス・ハーディらが活躍した。19世紀末には、耽美主義のオスカー・ワイルド、現代の推理小説の生みの親アーサー・コナン・ドイルが登場。20世紀に突入すると、「SFの父」ハーバート・ジョージ・ウェルズ、モダニズムを探求したデーヴィッド・ハーバート・ローレンス、ヴァージニア・ウルフ、預言者ジョージ・オーウェル、「ミステリーの女王」アガサ・クリスティなどが出てくる。そして近年、ハリー・ポッターシリーズのJ・K・ローリングがかつてのJ・R・R・トールキンのような人気を世界中で湧かせている。クラシック音楽における特筆すべきイギリス人作曲家として、「ブリタニア音楽の父」ウィリアム・バード、ヘンリー・パーセル、エドワード・エルガー、アーサー・サリヴァン、レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ、ベンジャミン・ブリテンがいる。特に欧州大陸で古典派、ロマン派が隆盛をきわめた18世紀後半から19世紀にかけて有力な作曲家が乏しかった時期もあったが、旺盛な経済力を背景に演奏市場としては隆盛を続け、ロンドンはクラシック音楽の都の一つとして現在残る。ドイツのオーケストラが地方中都市の団体でも四管フル編成を原則としているのに対し、ロンドン5大オーケストラは長年BBC交響楽団を除き(現在はロンドン交響楽団も)総員70名台の中規模編成を貫き、大曲演奏に際してはフリー奏者を臨時補充するなどの形であったにも関わらず、それなりの世界的声価を維持してきた。一時はメンバーの共有も見られ、映画音楽の仕事が多いことが批判されることもあるものの、持ち前の合理主義によって、少なくとも英語圏では随一のクラシック演奏都市であり続けている。オペラはロンドンにコヴェントガーデン王立歌劇場と、イングリッシュ・ナショナルオペラを擁し、後者は世界手も珍しい英訳上演主義の団体である。ポピュラー音楽(特にロックミュージック)において、イギリスは先鋭文化の発信地として世界的に有名である。1960、70年代になるとロックが誕生し、中でもビートルズやローリング・ストーンズといったロックンロールの影響色濃いバンドが、その表現の先駆者として活躍した。やがてキング・クリムゾンやピンク・フロイドなどのプログレッシブ・ロックや、クイーン、クリーム、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープル、ブラック・サバスなどのR&Bやハードロックがロックの更新に貢献。1970年代後半のパンク・ロックの勃興においては、アメリカ・ニューヨークからの文化を取り入れ、ロンドンを中心にセックス・ピストルズ、ザ・クラッシュらが国民的なムーブメントを起こす。パンク・ロック以降はインディー・ロックを中心にニュー・ウェーヴなどといった新たな潮流が生まれ、テクノポップ・ドラッグミュージック文化の発達と共にニュー・オーダー、ザ・ストーン・ローゼズ、グリッドなどが、メインストリームではデュラン・デュラン、デペッシュ・モードらの著名なバンドが生まれた。90年代はブリットポップやエレクトロニカがイギリスから世界中に広まり人気を博し、オアシス、ブラー、レディオヘッド、プロディジー、マッシヴ・アタックなどは特に目覚ましい。シューゲイザー、トリップホップ、ビッグビートなどといった多くの革新的音楽ジャンルも登場した。近年ではエイミー・ワインハウス、マクフライ、コールドプレイ、スパイス・ガールズらがポップシーンに名を馳せた。イギリスではロックやポップなどのポピュラー音楽が、国内だけでなく世界へ大きな市場を持つ主要な外貨獲得興業となっており、トニー・ブレア政権下などではクール・ブリタニアでロックミュージックに対する国策支援などが行われたりなど、その重要度は高い。アメリカ合衆国と共にカルチャーの本山として世界的な影響力を保ち続け、他国のポピュラー音楽産業の潮流への先駆性は、近年もいささかも揺るがない。イギリス人はユーモアのセンスが高いと言われている。また、コメディアンの多くは高学歴である。国花はそれぞれの地域が持っている。イギリス国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が21件、自然遺産が5件ある。詳細は、イギリスの世界遺産を参照。祝祭日は、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの各政府により異なる場合がある。銀行など多くの企業が休みとなることから、国民の祝祭日をバンク・ホリデー()(銀行休業日)と呼ぶ。イギリスはサッカー、ラグビー、クリケット、ゴルフ、ボクシングなど多くの競技が発祥もしくは近代スポーツとして整備された地域であり、国技としても定着している。年間観客動員数は4000万人以上を集めるサッカーが他を大きく凌いでおり、競馬の600万人、ユニオンラグビーの300万、クリケット200万がそれに続く。このうち団体球技(サッカー、ラグビー、クリケット)は発祥地域の伝統的な配慮から国際競技団体ではイギリス単体ではなく、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド(ラグビーに関してはアイルランドにまとめている)の4地域それぞれの加盟を認めているが、サッカーが公式なプログラムとして行われている近代オリンピックでは単一国家としての出場が大原則であるため、長年出場していなかった。しかし2012年の開催が内定したロンドン五輪では4協会が一体となった統一イギリス代表としてエントリーした。またイギリスの首都であるロンドンで夏季オリンピックを行ったのは、1948年以来64年ぶりである。ただし野球においては早くから英国代表として、欧州野球選手権やWBCなどに統一ナショナルチームを送り出している。数多くのスポーツを誕生させたイギリスでも取り分け人気なのがサッカーである。イギリスでサッカーは「フットボール」と呼び、近代的なルールを確立したことから「近代サッカーの母国」と呼ばれ、それぞれの地域に独自のサッカー協会がある。イギリス国内でそれぞれ独立した形でサッカーリーグを展開しており、中でもイングランドのプレミアリーグは世界的に人気である。イングランドサッカー協会 (FA) などを含むイギリス国内の地域協会は全て、国際サッカー連盟 (FIFA) よりも早くに発足しており、FIFA加盟国では唯一特例で国内の地域単位での加盟を認められている(以降、FIFAは海外領土など一定の自治が行われている地域協会を認可している)。その為、FIFAや欧州サッカー連盟(UEFA)が主宰する各種国際大会(FIFAワールドカップ・UEFA欧州選手権・UEFAチャンピオンズリーグ・UEFAカップ・FIFA U-20ワールドカップやUEFA U-21欧州選手権などの年代別国際大会)には地域協会単位でのクラブチームやナショナルチームを参加させており、さらには7人いるFIFA副会長の一人はこの英本土4協会から選ばれる、サッカーのルールや重要事項に関しては、FIFAと英本土4協会で構成する国際サッカー評議会が決定するなど特権的な地位が与えられている。また、サッカー選手や監督がプロ競技における傑出した実績によって一代限りの騎士や勲爵士となることがある(デビッド・ベッカム、スティーヴン・ジェラードやボビー・ロブソン、アレックス・ファーガソンなど)。また、サッカーはもともとラグビーと同じく中流階級の師弟が通うパブリックスクールで近代競技として成立したが、その過程は労働者階級の娯楽として発展していった。ただ、当時のイギリスの継続的な不況からくる労働者階級の人口の割合と、それ以外の階級者も観戦していたということを注意しなければならない。労働者階級がラグビーよりもサッカーを好んでいたとされる理由として、フーリガンというあまり好ましくない暴力的なファンの存在が挙げられることもある。ただ、相次ぐフーリガン絡みの事件や事故を重く見た政府は1980年代にフーリガン規制法を制定し、スタジアムの大幅な安全基準の見直しなどを行った。各スタジアムの試合運営スタッフがスタジアムの至る所に監視カメラを設置し、特定のサポーター(フーリガン)に対する厳重な監視や入場制限を行っている。そのような取り組みの結果、スタジアムではそれまで頻発していたフーリガン絡みの事件や事故の件数が大幅に減少した。近代競馬発祥の地でもある。18世紀ゴルフに次いでスポーツ組織としてジョッキークラブが組織され、同時期にサラブレッドも成立した。どちらかと言えば平地競走よりも障害競走の方が盛んな国であり、"Favourite 100 Horses"(好きな馬100選)ではアークルを初め障害馬が上位を独占した。障害のチェルトナムフェスティバルやグランドナショナルミーティングは15~25万人もの観客動員数がある。特に最大の競走であるG3グランドナショナルの売り上げは700億円近くになり、2007年現在世界で最も馬券を売り上げる競走になっている。平地競走は、イギリスダービー、王室開催のロイヤルアスコット開催が知られ、こちらも14~25万人の観客を集める。ダービーは、この競走を冠した競走が競馬を行っている国には必ずと言っていい程存在しており世界で最も知られた競走といって良いだろう。エリザベス女王も競馬ファンとして知られており、自身何頭も競走馬を所有している。イギリスでは、日本などと違い競馬など特定の競技だけでなく全てのスポーツがギャンブルの対象となるが、売り上げはやはり競馬とサッカーが多い。競馬は1970年代を頂点に人気を失いつつあったが、後に急速に観客動員数が持ち直す傾向にある。売上高も2兆円を超え、人口当りの売り上げは香港を除けばオーストラリアに次ぐ。しかし、売り上げの多く(2003年で97.1%)が主催者側と関係のないブックメーカーに占められるという構造的な課題がある。なお、イギリス人はどんな小さな植民地にも必ずと言っていい程競馬場を建設したため、独立後も旧イギリス領は競馬が盛んな国が多い。また、馬術も盛んであり、馬術のバドミントンは3日間で15万人以上の観客動員数がある。モータースポーツ発祥の地としても知られる。フォーミュラ1(F1)では多数のチャンピオンドライバーを生み出している他、過去にはロータスやティレル、現在もマクラーレン、ウィリアムズといった数多くの名門レーシングチームが本拠を置き、車両の設計製造において常に最先端を行く。イベントにも歴史があり、1926年に初開催されたイギリスグランプリは最も古いグランプリレースのひとつである。1950年に始まったF1グランプリはイギリスグランプリを第1戦とした。また世界ラリー選手権の一戦として組み込まれているラリー・グレート・ブリテン(1933年初開催)も同シリーズの中でもっとも古いイベントの一つである。知名度は低いが、1890年にブリティッシュ・ベースボール・リーグという野球リーグが誕生している。IBAFワールドカップの第1回大会では、アメリカ合衆国との二カ国対抗戦という形ではあったが、5回戦制のこの大会を4勝1敗で勝ち、最初の優勝国となっている。2012年9月には、第3回WBC予選に出場している。

出典:wikipedia

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