矢文(やぶみ)は、手紙を弓矢を用いて遠くから放ち、文書を送る手段の一つ。手紙を矢柄(やがら)に結びつける方法の他、蟇目(ひきめ)の穴の中に入れて射て飛ばしたり、鏃(やじり)に直接文を刺して、それを放つ場合もある。前近代では、戦時中、互いに直接手紙を渡せない状況下で行われることが多い(弓を射る側は相手側に存在を悟られないように放つ)。また、時代劇と言ったドラマや漫画などの創作物の中では、果たし状を送る際、矢文の方法を用いる演出がある。緊迫した状況下で行われることが多い伝達手段のため、即席性はあってもリスクが多くなるのは当然のことであり、利点より欠点の方が大きい。また、利点には条件付のものが多い。矢文と言った行為がいつ頃から行われてきたのかは定かではないが、古代では紙は貴重なものであり、相当緊迫した状況でもない限り、ぞんざいには扱えなかったものとみられる。そのため、紙の生産技術が向上していなかった日本の律令時代に矢文を行うことは少なかったものと考えられる。少なくとも17世紀初めの頃では盛んに矢文が用いられていたことが分かる。紙の生産技術の発展以前にも、識字率の問題や文書と言った文化の普及度合いも矢文の歴史を知る上では重要となってくる。中世の東日本は西日本と比べると非常に文書史料が少ない。文字を書ける者が少なかったからだと解釈されがちではあるが、東国武士が西国に移住すると、たくさんの文書を残している。東国出身の熊谷氏は西国に移住してから文書を多数伝えているし、東国武士が多く移住した九州は中世の武家文書が多く残った地域となった。こうした考察からも、東国武士も、中世においては文字を書くことができたが、中世武家文書の資料の多さ=文書の普及率から考えれば、東国より西国で矢文文化が生じた可能性が高い。それも東国武人が西国に移住してからと考えられる。加えて、応仁の乱を迎えると、戦乱を逃れた畿内の知識人が東日本に移住してくる例が増え、日本全体で識字率が高まる時期に移る。こうなってくると、上級武士でなくとも文を書ける下地が社会的に形成されてくる。同時に、各地で頻繁に戦乱が生じる時代(戦国期)へと移ったことで、矢文を用いる状況も増えた。武家社会の混乱が矢文文化を普及させた要因でもある。
出典:wikipedia
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