LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

長嶋清幸

長嶋 清幸(ながしま きよゆき、1961年11月12日 - )は、静岡県小笠郡浜岡町(現:御前崎市)出身の元プロ野球選手(外野手)、プロ野球コーチ。1980年代の新聞報道では「長島」という表記もあった。からは中日ドラゴンズでコーチを務める。小学生時代に投手として静岡県大会準優勝し、浜岡町立浜岡中学校時代は一塁手となるも、自動車工業高等学校(現・私立静岡北高)では投手で四番を打った。高校2年時、練習試合を見に来ていたスカウト木庭教が、予告ホームランを打った長嶋の打撃力に目を留めた。当時長嶋は阪神ファンであり、阪神の田丸仁スカウトも目を付け、高校3年の夏に田丸が自宅を訪問し、下位指名の予定を伝えた。しかし、阪神からのドラフト指名はなく、翌日も連絡がない間に、広島、南海から獲得意向の連絡があり、連絡翌日に自宅を訪れた木庭が両親を説き伏せ、仮契約を済ませた。この時、阪神は岡田彰布との交渉に手間取り、長嶋への連絡が遅れ、広島に先を越された田丸は悔しがった。高校卒業後、のドラフト外で広島東洋カープに入団。1年目のに一軍デビューを果たし、にこれまでの66から、日本プロ野球の公式戦出場選手で初の背番号0を着用し、ダイヤモンドグラブ賞(現・ゴールデンクラブ賞)に輝く。監督の古葉竹識に重用され、チャンスに強いバッティングと安定した守備、また俊足ということもあり、山本浩二を左翼手に追いやり、中堅手のレギュラーに定着し、合計4度のゴールデンクラブ賞を受賞する。9月15日と9月16日には、巨人の西本聖と江川卓から、長嶋が2日連続サヨナラホームランを放ち、勢いに乗ったチームはリーグ優勝を果たす。1984年の日本シリーズでは7試合で3本塁打10打点の活躍で日本一に貢献し、日本シリーズMVPに輝いた。10月12日のリーグ優勝決定試合では、5打数4安打7打点をあげ、日本シリーズで対戦が決まっていた西武の監督森祇晶が「(打ちすぎて)参考にならん」と言うほど、異常な勝負強さを誇った。1980年代黄金時代の一員として活躍していたが、には前田智徳ら若手の台頭で監督の山本浩二の構想から外れた上に、当時ダイエーの監督だった田淵幸一が「長嶋と長内(孝)と原(伸樹)がトレードに出される可能性がある」と口を滑らせてトレード要員であることが露呈。に音重鎮・山田和利との交換トレードで中日ドラゴンズ、に千葉ロッテマリーンズ、に阪神タイガースに移籍。同年オフにはフリーエージェント(FA)を行使したが翌年も残留し、以後阪神では代打の切り札として活躍。限りで現役引退。引退後はからまで阪神の二軍打撃コーチ、一軍打撃コーチ補佐、一軍守備走塁コーチ(一塁ベースコーチャー)を務めた。中日ではからまでは一軍打撃・外野守備走塁コーチ(一塁ベースコーチャー)、には一軍作戦・外野守備走塁コーチを歴任。に韓国プロ野球の三星ライオンズ打撃コーチを経て、より広島時代のチームメイトであるロッテ二軍監督の高橋慶彦に請われ、ロッテ二軍打撃コーチに就任した。2012年は一軍打撃コーチを務め、2013年からは再び二軍打撃コーチを務めた。同年10月20日、本人からの辞意申し出により退団する事が決まった。2014年より中日ドラゴンズの外野守備走塁打撃コーチに復帰。一塁ベースコーチも務める。2015年はチーフ打撃外野守備走塁コーチとなり、2016年からは二軍外野守備走塁コーチとなった。日本プロ野球史上初めて背番号0をつけた選手である(過去、練習生時代の西沢道夫、ブルペン捕手がつけていた例はあったが、正選手としては初めて)。入団時の背番号は66だったが小さな背番号を望んでいたところ、のナショナルリーグ首位打者、アル・オリバーが背番号0をつけていることを知り、0番着用を古葉竹識に相談したのがきっかけであった。広島の1983年のキャッチフレーズは「ゼロからの出発」であり、長嶋の背番号0がより一層注目を受けることになった。広島・中日・ロッテ・阪神の4球団に在籍して、背番号0をつけなかったのはわずか1年のみ在籍したロッテだけである(広島・中日・阪神では背番号0をつけて出場した期間が1年以上ある)。小柄な体型から、愛称は「マメ」。現役の長嶋を象徴するシーンとして広島時代の1988年9月9日の対中日戦が挙げられる。長冨浩志の度重なるブラッシュボールに仁村徹が激怒して乱闘が始まった。このとき長嶋は中日・岩本好広の股間に飛び蹴りを決め、プロ野球珍プレー好プレーでナレーションのみのもんたに「決まって金的~」とナレーションされるシーンがたびたび放送された。また、その時岩本に駆け寄ったのが元広島でその時中日の1軍コーチだった池田英俊である。2004年から中日において、落合博満の右腕としてチームを支えていたが、2006年10月28日に翌シーズンの契約を結ばないことを通告されて緊急で記者会見を開き、落合と野手総合コーチの高代延博を痛烈に批判した(同時に高代との確執も認めている)。「(落合監督と親しい)高代さんと、(自分が)仲悪いのは皆、知ってると思う」、「仲良しチームにしないって、言ってたのに、今はどうなの?公私混同もはなはだしい」とも非難した。落合、バッテリーチーフコーチの森繁和、高代が在籍していた日本ハム、西武から、重点的に補強。今季も両球団出身のデニー友利、鳥谷部健一、上田佳範がテスト入団するなど、ファミリー的なつながりを重視する落合政策を、ばっさりと切り捨てた。。なお落合がゼネラル・マネージャーとして中日に復帰した2014年シーズンからは、再び外野守備走塁打撃コーチとして復帰する。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。