藤原 家長(ふじわら の いえなが、生没年未詳)は、平安時代末期の廷臣。藤原北家魚名流、参議・藤原家保の子。官位は正四位下・刑部卿。元永元年(1118年)白河院判官代と鳥羽天皇の蔵人に任ぜられる。美濃・土佐・備中などの国司を歴任後、久寿3年(1156年)能登守に任ぜられる。また、藤原忠実・頼長父子に近侍し、その外出の際にはしばしば前駆を勤めている。その関係からか保元元年(1156年)の保元の乱においては崇徳上皇方に参じたとされ、『保元物語』においては乱の後に出家・降伏した公家の中にその名が見える。ただし、その際の処罰を含め、その後の具体的な動静については不明であるが、乱を通じて能登守の官職を解任されたらしく、乱後の9月の除目では藤原基家が能登守に任ぜられている。実家の善勝寺流(六条家流)は庖丁道を伝える家柄であり、家長も鳥羽院の御前の酒宴において包丁人を勤め、魚をさばいた際の逸話が『古事談』に見える。『尊卑分脈』による。
出典:wikipedia
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