小金井 喜美子(こがねい きみこ、明治3年11月29日(1870年1月19日) - 昭和31年(1956年)1月26日)は、近代日本の歌人・翻訳者。近代詩の形成に多大な影響を与えた訳詩集『於母影』の共訳者として、紅一点で名をつらねる等、女性文学者として明治期に若松賤子と並び称された歌人・随筆家である。夫は日本解剖学会初代会長などをつとめた小金井良精(良精は再婚)、長兄は文豪森鴎外、次兄は劇評家の三木竹二(森篤次郎)、孫の一人は作家の星新一。家族・知人などの回想記を多く著し、とりわけ鴎外と竹二に関する記述は、鴎外研究で重要な資料となっている。1870年(明治3年)11月29日、石見国(現島根県)津和野で津和野藩医、森静泰(後年、静男と改名)と峰の間に長女として生まれた(本名キミ)。2歳半で上京後、向島で暮らし、11歳のとき父親の医院移転にともない千住北組に引っ越した。当時、女子の教育制度があまり整備されていなかったこともあり、千住小学校を卒業後、関澄桂子の私塾で書道などを、佐藤応渠に漢学を、宮内省歌道文学御用掛の福羽美静に和歌を学ぶ。1885年(明治18年)秋、その福羽の勧めにより、東京女子師範学校(現お茶の水女子大)付属高等女学校に入学した。鴎外がドイツ留学中、喜美子に縁談話が複数あったものの、十代の喜美子が唯一の娘であったため、森家は鴎外が帰国してから相談するとして話を急がなかった。しかし鴎外の親友、賀古鶴所が鴎外に縁談話を伝えたところ、すぐに結婚が決まった。その相手は、鴎外からみて大学の先輩にあたり、ドイツ留学から帰国していた小金井良精であった。良精は先妻を病気で亡くしていた。1888年(明治21年)に女学校を卒業し、18歳で結婚。同年9月に鴎外が帰国し、やがて文芸活動をはじめると、新妻の喜美子も参加した。ときには、深夜まで鴎外宅で翻訳をしていると、心配した小金井家の人が迎えに来ることもあったという。1889年(明治22年)8月、雑誌『国民之友』夏期付録として訳詩集『於母影』(共訳)が刊行された。喜美子は、訳者5人のうち唯一の女性であった。その後も、精力的に翻訳をつづけ、石橋忍月には、「若松賤子と並ぶ閨秀の二妙」とまで讃えられた。同居した姑と仲が良かったものの、子供4人の出産・育児と家事に追われる中、1898年(明治31年)1月に胃の出血で倒れると、しばらく筆を絶った。1909年(明治42年)、創刊された『スバル』に「向島の家」や「千住の家」など身辺雑記のような随筆を発表。1911年(明治44年)、平塚らいてう等が『青鞜』を創刊するさい、乞われて鴎外の妻しげ子とともに賛助員になった。その後、昭和期に入っても、身辺雑記のような随筆を発表した。また、歌人として常磐会に参加したり、『明星』の後継誌『冬柏』(。与謝野寛・晶子が主宰)に投稿したりした。とくに六十代に入ると、伊勢や熊野、南紀、北海道、雲仙などに一人旅をし、詠んだ歌を『冬柏』に投稿した。1940年(昭和15年)に歌文集『泡沫千首』(私家版)を、1943年(昭和18年)に『森鴎外の系族』を刊行した。晩年は、孫20人にめぐまれ、一族で会食をすることもあり、しばしば夫と夜遅くまで会話を楽しむ等、穏やかな日々をすごした。1955年(昭和30年)10月に随筆「普請中」を発表し、翌56年(昭和31年)1月26日に他界。享年85。同年遺著として『鴎外の思い出』が刊行された。なお葬儀に際し、70年来の知人で、鴎外とも親交の深かった佐佐木信綱が次の歌をたむけた。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。