ワスカル(Huáscar。ウアスカル)は、ペルー海軍が保有した装甲艦。南米の太平洋戦争でチリ海軍が鹵獲して編入し、現在も記念艦として保存している。1864年にペルーが、イギリスのレアード・ブラザース(Laird Brothers、現在のキャメル・レアード())社に発注してバーケンヘッド造船所で建造された装甲艦である。この時代のペルーはコロンビアの南部とボリビアとチリ北部を領有する大国であった。当時、ペルーを含む南米諸国とスペインの間ではが勃発し、海軍力増強の必要があった。装甲艦のうち、本格的な帆走設備と砲塔を有する、砲塔艦(Turret ship)と呼ばれる形式のものである。もっとも、しばしばモニター艦にも分類され、ペルー海軍の公式サイトでもMonitorと表記されている。1865年10月に進水、翌月に就役した。艦名はインカ帝国皇帝ワスカルにちなみ、ペルー海軍の同名艦としては2代目である。帆装はブリガンティン式である。船体形状は排水量に比較して凌波性を良くするために艦首のみ乾舷が高められた短船首楼板型船体を採用している。航行には帆と蒸気機関が使用されたが、後に帆走設備は撤去された。砲塔はコールズ式砲塔1基を船体中央付近に装備していた。水面下に衝角の付く艦首船首楼のすぐ後ろに1番マストが立ち、そこから甲板一段分下がった中央部甲板上に円筒形の主砲塔が1基が配置され、その中に「アームストロング 25.4cm(14口径)滑腔砲」を連装砲架で2門を収めた。主砲塔の背後から幅の狭い上部構造物が設けられ、両脇に船橋(ブリッジ)を持つ露天艦橋の背後に1本煙突が立ち、その周囲には煙管型の通風筒が立ち並び、煙突の後方から上部構造物が設けられた。そこは艦載艇置き場となっており、2本1組のボート・ダビットが片舷2組と艦尾に1組の計5組で運用された。その後ろに2番マストが立つ。ワスカルの主砲には「1861年型 300ポンド 25.4cm(14口径)前装填式滑腔砲」()を採用した。その性能は重量185.97kgの砲弾を、最大仰角で5,500mまで届かせられる性能であった。主砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は人力を必要とした。発射速度は5分に1発であった。楔形の単装砲塔に2基が配置された。砲架の俯仰能力は仰角20度・俯角5度である。旋回角度は左右150度の旋回角度を持つ、補助に主砲塔の形式は前述通りにイギリス海軍の装甲艦に広く用いられたコールズ式砲塔である。構造を表すと、砲塔の基部は甲板部よりも掘り下げられた位置にあり、砲塔は半ば埋没した形ではめ込まれている。砲塔の台座は独楽のように中心部に刺さった軸を中心として旋回する物で、台座の側面に付けられた刻み目が歯車の役割を果たし、人力の旋回ギアで駆動する仕組みとなっていた。このため、揚弾機構は砲塔の下に配置できず、船体下部の弾薬庫から砲塔の側面まで砲弾を引き上げてから、台座の下を砲弾を運ぶ必要があった。砲室内に運ばれた砲弾は、砲室の上部から滑車で吊り下げられて砲口まで移動されて装填作業を行った。他に近接火器として「1859年型 40ポンド:12cm(-口径)後装式ライフル砲を単装砲架で2基を艦尾に搭載した。チンチャ諸島戦争末期の1866年1月に装甲フリゲート「インデペンデンシア」などとともにイギリスを出発し、途中でスペイン側の船2隻を拿捕しながら、同年6月に同盟国のチリに到着した。回航後、停戦まで大きな活躍の機会はなかった。1868年2月にペルーへと移動し、新艦長としてが着任した。彼は1876年までの長期間に渡ってその地位にあり、この間の経験が後の南米の太平洋戦争で役立つことになった。1877年5月に起きた反乱事件で、「ワスカル」は反乱軍に占拠された。「ワスカル」は反乱軍将兵の操縦で、ペルー政府軍艦隊及びイギリス艦隊と交戦した(パコーチャの海戦)。この際にイギリス艦隊のフリゲート「シャー」から、史上初の魚雷攻撃を受けたが、命中は免れた。約1ヶ月後にワスカルは政府軍に投降し、艦隊へと復帰した。ペルー・ボリビア連合軍とチリの間の太平洋戦争では、ミゲル・グラウ提督の指揮の下でペルー海軍の主力艦として活躍し、1879年5月21日のイキケの海戦で衝角によりチリ海軍コルベット「エスメラルダ」を撃沈した。さらに、通商破壊を行って成果を挙げた。しかし、同年10月8日に起きたアンガモスの海戦でチリ艦隊に破れ、鹵獲された。「ワスカル」を鹵獲したチリ海軍は、すぐさま整備して自国の艦隊に編入した。1880年2月27日にはペルーのアリカ港を攻撃し、ペルー海軍のモニター艦「マンコ・カパック」などと交戦して港に封じ込めた。そのまま同年6月のアリカ陥落まで「マンコ・カパック」の脱出を許さず、自沈に追い込んだ。ただし、「ワスカル」も艦長が戦死した。1885年から1887年まで改装工事を受けた。汽缶やスクリューの換装など大規模なもので、砲塔の動力化も行われた。1891年のチリ内戦では、反乱を起こした議会軍に使用された。議会軍の勝利まで、陸上への艦砲射撃や船団護衛などの活動をした。1897年に機関部で爆発事故が発生し、一旦は除籍となった。1905年に砲艦としての再生工事が検討されたが実施されず、その後、1917年から1930年までH級潜水艦部隊の係留母艦任務に使われた。1930年代に修復工事が行われ、1934年に記念艦として現役復帰した。1951年から1952年にかけて、1878年時点の状態への復元工事が行われた。1971年から1972年にもドック入りしての大規模な整備が行われ、船体の全面改修や機関の再生産品との換装がされた。その後もタルカワノ(Talcahuano)に係留展示されている。
出典:wikipedia
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