福岡市内線(ふくおかしないせん)は、かつて福岡県福岡市の市内を走っていた西日本鉄道(西鉄)の軌道路線の総称である。1979年(昭和54年)2月11日に全線が廃止された。貫線(かんせん)・循環線(じゅんかんせん)・城南線(じょうなんせん)・呉服町線(ごふくまちせん)・貝塚線(かいづかせん)・吉塚線(よしづかせん)・築港線(ちっこうせん、貨物線)の7路線があった。(いずれも各路線の廃止時のデータ)福岡市内線の母体は、関西財界の福澤桃介、松永安左エ門らによって設立された福博電気軌道と、地元資本家の渡辺與八郎らによって設立された博多電気軌道である。この2社は明治時代末期のほぼ同時期、福岡市内でそれぞれ別々に路面電車を開通させ、以後、要所で両社の路線を接続させつつも別々に路線網を拡大していった。なお福博電気軌道はのちに合併や社名変更により博多電灯軌道→九州電灯鉄道→関西電気→東邦電力と名を変え、博多電気軌道は1912年(明治45年)に九州水力電気に吸収合併されたのち1929年(昭和4年)に分離され博多電気軌道(二代目)となっている。東邦電力と九州水力電気は電力事業の事業区域が重複し競合関係であったため、両社の関係は険悪で、2社併存により乗客獲得競争が行われる一方、利用者の側にとっては運賃などで不便をきたしていた。1934年(昭和9年)に東邦電力は電車事業を分離して新会社の福博電車を設立し、博多電気軌道は全事業を福博電車に譲渡することで合意し、福博電車による経営一元化が実現した。福博電車は資本金330万円、本社を福岡市天神町58番地に置いた。その後、1941年(昭和16年)には電力国家管理に伴い東邦電力は福博電車株をすべて九州電気軌道に譲渡している。1942年(昭和17年)に福博電車は九州鉄道、博多湾鉄道汽船、筑前参宮鉄道とともに九州電気軌道に吸収合併され、西日本鉄道が成立した。旧福博電車線は同社の福岡市内線となった。西鉄成立当時の福岡市内線の車両はすべて2軸車(大半が木造車)であり、輸送力増強が急がれた。そのため1943年(昭和18年)に大牟田市内線用として製造されたボギー車200形のうち9両を福岡市内線に配置している。続いて2軸車の改造名義で501形・551形ボギー車を発注したが、これらは戦時下のため落成が遅れ、戦後の1946年(昭和21年)から使用開始した。また1947年(昭和22年)には北九州線の100形を3両転属させ300形として使用した。1948年(昭和23年)に2軸車のうち状態が良く当面使用する70両を1 - 70に改番(他の2軸車はそれまでに廃車)。同年から3年間にわたり501形・551形とほぼ同形態の561形ボギー車を48両新製し、1950年(昭和25年)からは北九州線から1形・35形木造ボギー車56両を転属させた。さらに北九州線で採用した連接車を1954年(昭和29年)からは福岡市内線にも投入している。この一連の車両新製・転属により営業運転用の2軸車は同年中に全廃された。また同じ1954年(昭和29年)には宮地岳線の千鳥橋 - 貝塚間(軌間 1067 mm、直流1500V、単線)を福岡市内線と同じ軌間1435 mmに改軌、架線電圧を直流600Vに降圧、複線化したうえ、福岡市内線に編入している。1961年(昭和36年)には貨物線の築港線が休止となった。同線は国鉄の貨車(石炭車)を吉塚駅から博多築港へ直通させ、博多築港への石炭輸送を行うことを目的として敷設された貨物線であり、専用の電気機関車で貨車を牽引していたが、博多臨港線の開業・延長により国鉄線経由で博多港への貨物輸送が可能となったため輸送量が減少していた。1963年(昭和38年)12月1日に国鉄博多駅が約400m南東に移転した。当初は福岡市内線は移設されず、奥の堂電停から(新)博多駅への連絡バスを運行することで対応したが、7か月後の翌1964年(昭和39年)7月1日に(新)博多駅前を通る新線を開業した。旧線もしばらくは営業が続けられたが、同年12月7日に廃止されている。昭和30年代から福岡市でも全国の他都市と同様、自家用車の普及(モータリゼーション)、路面電車沿線の都市中心部の人口が減少し郊外の人口が増加するドーナツ化現象などの影響により路面電車の利用者が減少、また1963年(昭和38年)から福岡、北九州両路面電車路線の自動車軌道敷内通行が解禁されたことにより定時性の低下という問題が発生、特に福岡市内線の影響は深刻で、走行速度は平均2割落ち、自転車にさえ追い抜かれる状態となり、昭和36年度(1961年4月 - 1962年3月)に2億6000万人いた延べ乗客数が、昭和42年度(1967年4月 - 1968年3月)には2億3000万人と1割以上減少、路線バスの年間乗客総数の半数を割り込み、路面電車事業はついに赤字に転落、同社が運営する路線バス事業から見ても、渋滞の原因になる路面電車の存在は「お荷物」となっていた。対策として、まず、ボギー車でのワンマン運転(車掌乗務廃止)および連接車でのツーマン運転(車掌を2人から1人に減らす)の実施、信号装置の自動化などの合理化・近代化を実施して人員数を圧縮していった。これにより100形が全廃された。一方、福岡市・北九州市の将来の交通体系を審議する都市交通審議会北部九州部会では、1971年(昭和46年)に「福岡市および北九州市を中心とする旅客輸送力の整備増強に関する基本計画について」と題する答申案を運輸大臣に提出した。この内容は、1985年(昭和60年)までに高速鉄道(地下鉄もしくはモノレール)を中心とした総合的交通体系を確立し、路面電車を廃止するというものであった。これを受けて運輸省、福岡市、北九州市、西鉄により福岡市交通問題審議会が開かれ、協議により答申通り福岡市は市営地下鉄を建設し、西鉄は路面電車を廃止してバス路線を整備する方針が固められた。まず1973年(昭和48年)に交通渋滞の著しい国道201号(当時)を通る吉塚線が廃止されたのを皮切りに、1975年(昭和50年)には地下鉄工事区間と並行する貫線、呉服町線、城南線が廃止された。このときに連接車は廃車または譲渡され、ボギー車も500形・551形と561形の一部を除き廃車または北九州線に転出した。その後、残った循環線と貝塚線も1979年(昭和54年)2月11日に廃止され、福岡市内線は全廃された。●印は西鉄福岡市内線内他線との接続電停。名称は廃止時点のもの。九大前 - 西新は福博電気軌道→東邦電力が、西新 - 姪の浜は北筑線として博多電気軌道が敷設。吉塚駅近くの三角から吉塚線を通り、千代町から循環線に入り千鳥橋を経由し、博多築港前から北側に分岐して博多築港に至るルートであった。国鉄の貨車を通すため軌間は1067mmであり、吉塚線・循環線との重複区間では1067mm軌間と1435mm軌間の三線軌条となっていた。宮地岳線の千鳥橋 - 貝塚間を改築し、事実上福岡市内線に編入した路線である。しかしながら改築後も廃止まで正式名称は引き続き宮地岳線とされ、法規上も地方鉄道法に基づく鉄道線のままであった。(呼称はすべて福岡市内線廃止当時の呼称)1973年1月4日の吉塚線廃止直前時は以下の通り。当時、年々運転系統の統廃合が進んでおり、8系統のようにきわめて複雑な経路を取る系統もあった。このため、電車の系統板に路線図を刷り込み、運転系統を図示していた。1975年11月2日の大幅廃止により系統番号は使用されなくなったが、市営地下鉄開業までの間に西鉄が運行した代替バスの系統番号として使用されることとなった(その影響で一部の既存路線バスの系統番号が変更された)。また、識別のため代替バスの系統番号はオレンジ色の丸に黒数字で表示されていた。なお、地下鉄開業後も一部の系統番号は現在でも福岡都市圏の西鉄バス系統番号におおむね引き継がれている。晩年は循環線と貝塚線のみの「うちわ状」の路線だったため、貝塚 - 千鳥橋 - 環状線を一周 - 環状線をもう一周 - 千鳥橋 - 貝塚というルートで、時計回り循環と反時計回り循環が貝塚から交互発車するダイヤが組まれていた。このダイヤは営業区間のどこであっても、次に来る電車かその次に来る電車に乗れば、乗り換えなしで行けるという利点があった。福岡市内線の全廃から30年近くが経過した2008年11月、西鉄は今後10年の経営方針の中で「公共交通の利用を増やす手段として「LRT(新型路面電車)導入の検討」を盛り込んだと報じられた。西鉄の高崎繁行経営企画本部長は「(復活は)福岡市などの協力が得られるのが前提だが、市内を循環する路線があってもいい」と話している。
出典:wikipedia
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