芸術のための芸術(げいじゅつのためのげいじゅつ、仏:l'art pour l'art)は、19世紀初頭のフランスで用いられ始めた標語。芸術それ自身の価値は、「真の」芸術である限りにおいて、いかなる教訓的・道徳的・実用的な機能とも切り離されたものであることを表明している。そのような作品は時として「自己目的的」(autotélique <ギリシア語 'autoteles')、すなわち人間存在の「内向性」や「自発性」を取り入れるために拡張された概念であると評される。日本ではこれを主義として捉え芸術至上主義と呼ぶこともある。「芸術のための芸術」はテオフィル・ゴーティエ(1811-1872)の言葉とされる。ゴーティエが初めてこの言葉を書いたわけではないと異論を唱える者もいる。ヴィクトル・クーザンやバンジャマン・コンスタンやエドガー・アラン・ポーの作品にもこの言葉は現れる。ポーは評論『詩の原理』においてこう論じている:しかしながら、ゴーティエはこの言葉を最初に標語として掲げた人物である。「芸術のための芸術」は19世紀のボヘミアニズムの信条であり、ジョン・ラスキンから始まり、ずっと後の社会主義リアリズムを唱道する共産主義者たちに至るまでの、芸術の価値は何らかの道徳や教訓的な目的に奉仕することであると考える人々を物ともせずに掲げられた標語であった。「芸術のための芸術」は、芸術は芸術"として"価値があるのであり、芸術の探求はそれ自身で正当化されるものであり、芸術は道徳的な正当化を必要としないものであると主張した。そして実際に、彼らは道徳の破壊者を自認していた。さらに、ジェームズ・マクニール・ホイッスラーは16世紀の対抗改革以降ずっと付き纏ってきた国家や国教のために奉仕するという芸術の因習的な役割を否定してこう書いた:このような素っ気ない棄却はまた芸術家が感傷主義から距離を置くことも表明していた。この声明に見えるロマン主義の残滓は、芸術家が決定者として自身の目と感覚に信頼を寄せるということに現れている。レオポール・セダール・サンゴールやチヌア・アチェベといった芸術家たちはこの標語を限界のあるものでヨーロッパ中心主義的な芸術・創造観であると批判している。『ブラックアフリカの美学』においてサンゴールは「芸術は機能的」であり「ブラックアフリカには『芸術のための芸術』は存在しない」と論じている。アチェベはさらに辛辣で、評論集『Morning Yet on Creation Day』の中で「芸術のための芸術は脱臭された犬の糞のさらなる1欠片に過ぎない」としている。ドイツのマルクス主義の評論家・批評家であるヴァルター・ベンヤミンはさらに進んで、この標語はファシズムにおいて「完遂された」と、後世に大きな影響を与えた評論『複製技術時代の芸術』の結びで明言した。
出典:wikipedia
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