気楽流(きらくりゅう)とは、古武道の一つ。富田(戸田)流の流れを汲む。柔術を中心に、居合、棒、契木、分銅鎖や鎖鎌、鉄扇や十手、捕縛術、長刀や薙刀、短棒などの総合武術である。活法の整骨術も含んでいる。江戸時代の化政期、上野国・武蔵国を中心に盛隆した。創始者は、富田流(戸田流)7代目(あるいは6代目)の渡辺杢右衛門。その後、気楽流第11代目で中興の祖といわれる飯塚臥龍斎興義が、別の体系だった杢右衛門以来の気楽流と富田(戸田)流の2つに、上泉伊勢守の無敵流(新陰流の上野国での別名)を加え、これら3つを再編して気楽流「重術」と称した。これ以後、気楽流とは臥龍斎が再編したものを指す。喜楽流と書かれる例もある。大成者の飯塚臥龍斎興義以降、気楽流は彼の弟子や養子によって伝承された。臥龍斎以降の系統を3つに分けている。臥龍斎高弟・菅沼勇輔の系統は武蔵国秩父方面に伝来し、同じく高弟・児島善兵衛の系は上野国佐位郡伊勢崎方面に伝承され、臥龍斎の養子・飯塚帯刀義高の系統は勢多・甘楽・西上州方面に伝来した。講道館柔道の創始者・嘉納治五郎の師である福田八之助(柳儀斉)は、秩父の出身で天神真楊流と気楽流、奥山念流等の免許皆伝であった。このことから講道館柔道への影響も指摘されている。明治18年制定の警視庁柔術形にも技法のひとつ「見合取」が採用された。しかし警視庁の柔術形は講道館柔道の採用もあって廃れ失伝している。多くの流派で失伝した契木術の組型を現在も残している(『武芸流派大事典』)。 北関東一帯の祭りの棒術としても気楽流が存在していた。群馬県における気楽流の柔術の内、伊勢崎系の2団体は、気楽流柔術として日本古武道協会にそれぞれ加盟している。気楽流の始祖は諸説伝わり、戸田越後守(富田越後守)・上泉伊勢守・水橋隼人の3名がみえる。水橋隼人説は気楽流との関係は不明。この説は菅沼系に伝わるもので、戸田越後守の3代前に水橋があり、戸田(富田)流の伝承と内容が重複している。『上毛剣術史』にて飯嶌は、上泉伊勢守説は飯塚臥龍斎が学んだ新陰流から遡ったとして始祖は戸田越後守とするが、彼はあくまで戸田流の始祖としている。上述の戸田越後守に関しては、富田流の富田越後守重政と同一人物説・別人説がある。飯塚家の伝承が書かれた飯塚臥龍斎頌徳碑(群馬県甘楽町)には、戸田越後を元長尾氏旧臣で箕輪に仕えた戸田八郎高安が戸田流祖とする。高安はのち飯塚姓と改め11代後の子孫が臥龍斎だとしている。そして飯塚系の巻物では、戸田越後守綱義とあり、前名を新八郎一利、越後国頸城郡戸田村出身とする。菅沼系は水橋隼人の子孫に戸田を置き、名を越後守秀雄とする。児島系は戸田越後守信正とし富田ともいったとする。飯嶌は富田重政と戸田越後を同一人物説をとる。戸田を祖と伝える系統でも初期は戸田越後守・上泉伊勢守・引田文五郎の3名が入り乱れている。飯嶌の説によれば、これは流祖を神格化するため上泉や引田を配したとされ、この次に新藤雲斎が共通してきているため、戸田の後は新藤とみなしている。一方、『上毛剣術史』で諸田政治は、『皇国英名録』の説を採用し、気楽流祖は上泉・疋田・戸田の順であるとし、上泉伊勢守の流れを当初から汲んだとする。新藤のあとの1・2代は戸田内記・戸田隼人・土屋将監の名が入り乱れるが、その次は渡辺杢右衛門で統一されている。大勢がそれに続いて金沢新五兵衛、渡辺兵右衛門、絹川久右衛門、蛭川菊右衛門とし11代飯塚臥龍斎興義に至っているが、一部異なる伝承もある。『上毛剣術史』によれば、気楽流流祖は渡辺杢右衛門とされる。ただし異伝もあり、飯塚系の多くは絹川久右衛門を、児島系は飯塚臥龍斎を流祖とするなど、飯塚臥龍斎・絹川久右衛門・蛭川菊右衛門の3名が「流祖(中興の祖)」として錯綜している。『武芸流派大事典』では9代目の絹川久右衛門が気楽流と改めたと伝えるが、『多野郡誌』・『新町町誌 通史編』・『境町史 民俗編』では臥龍斎が改めたという。『新町町誌 通史編』によれば、臥龍斎は戸田流であり、これを「気楽流」と称したきっかけは、文化11年(1807年)に真之神道流との間に門弟同士の刃傷事件が起こってしまい、その結果臥龍斎が新町宿を追放され戸田流を名乗るのを禁じられたからであるという。『上毛剣術史 下』では荒木流との諍いであったと推定している。この喧嘩「新町騒動」により、臥龍斎は捕縛され、板鼻陣屋で取調べを受け所払いとなったとされる。一方、気楽流伝書では、臥龍斎は追放されたのちに臥龍斎の技量を惜しんだ領主・跡部氏の前で縄抜の術を披露して追放を赦され、跡部家の柔術師範となったと伝え、また当時既に「気楽流」であったとし追放で名乗りを禁止されたが、この赦免によってその禁止が解かれたとする。臥龍斎の後は菅沼勇輔系(秩父)、児島善兵衛系(伊勢崎)、飯塚帯刀義高系(甘楽)と大きく3つに分かれた。児島系は、12代の児島から同じく臥龍斎の弟子だった五十嵐金弥へ伝わり、14代斎藤武八郎が伊勢崎藩の柔術師範になった。武八郎には弟子が多く、武八郎の婿養子の斎藤武七郎、弟子の長沼綱吉、高木周輔、加藤勝馬が15代に挙がる。ただし現代まで残るのは長沼の系統のみともいう。斎藤武七郎は養父の跡を継いで伊勢崎藩指南役となったが、廃藩置県で故郷に帰り道場を開いた。この系統は武七郎養子・武二郎へと続く。加藤勝馬は新田岩松道純に仕え新田家柔術指南役となった。弟子には根岸義高などがいる。長沼綱吉の系統は下川淵村で続いた。この長沼のとき、甘楽藤岡系の長山弥一と長沼の高弟・栗原長蔵が正統気楽流宗家を巡って争っており、甘楽藤岡系との対立がみられた。長沼のあとは新井平馬・新井久平の2系統がみえる。16代新井久平系は17代森正秀へ続く。16代新井平馬の系統は17代新井数馬、18代新井道次郎と続く。道次郎の弟子には19代となり前橋で道場を開き道次郎の葬儀で演武を奉納した飯嶌文夫や、気楽流保存会の水科寿美がいる。19代飯嶌文夫は「宗家」と名乗っており、児島善兵衛・五十嵐金弥・斎藤武八郎・長沼綱吉・新井平馬・新井数馬・新井道次郎から自身へ続くとしている。岩井作夫によれば、甘楽系と秩父系が「宗家」と呼称していないのは伊勢崎の児島系に遠慮しているからという。元は型が360手あったが、戦後の入門者激減などで失伝し、100余しか残っていないとされる。また型は本来、居捕り・十手・鉄扇・棒・太刀・契木・鎖鎌・単縄・真剣の大きく9つに分かれていたが、このうちの十手・鉄扇・単縄が現在全く伝承されていない。武道研究家・武器研究家の岩井作夫は飯嶌の門人という。飯塚系は、臥龍斎の養子・飯塚帯刀義高からその子・興高が13代、14代に興高の弟・義興と続き、義興の周辺で諸流に分かれている。『上毛剣術史』には代数のある流派として、義興の高弟・根岸登美太と関口万蔵の2系統、および義興の兄弟弟子・長山弥一からその弟子・高山辰次郎へ続く1流を載せる。岩井作夫によれば、この系統の気楽流の体系は、飯塚興高が早世し、義興は興高の弟子・長山から教授を受けるという経緯のため、全て伝わっていないといい、また下田茂平の弟子で光輪洞合気道師範の川野ぐらいしか教授が行われていないという。秩父系の気楽流は菅沼勇輔が祖であるが、柔術研究家で真蔭流師範の山田實によれば、秩父に気楽流をもたらしたのは菅沼の弟子の加藤軍司・町田五郎右衛門や加藤の実父・勅使河原仁平、孫弟子の本橋惣五郎などとされる。これら12代菅沼の弟子で13代とされるのは加藤軍司のほか、町田五郎右衛門や加藤の実父・勅使河原仁平がいた。加藤軍司系は、加藤の後に本橋惣五郎へ伝わり、惣五郎の子・万作、次いで孫の武次へと伝来したが、武次の死で途絶えたという。一方、飯嶌の作成した伝系図では、菅沼と加藤の間に勅使河原が挿入され加藤は菅沼の孫弟子になっている。町田五郎右衛門系は、町田から彼の3男・吉岡佐五郎を経て関根氏が継承したという。なお現代では秩父気楽流はほぼ失伝したとされ、山田によると1960年に根岸純太郎(児島系16代新井平馬の弟子)と岩田弥市(秩父系14代本橋惣五郎を師とする斎藤忠夫の弟子)が演武を行ったのが秩父における気楽流の最後だという。山田の弟子で武道研究家の平上信行によれば、山田は最後の伝承者という本橋武次(秩父気楽流16代)から教授を受け、また上州系など他の気楽流伝承者からも教えを得て秩父気楽流を復元したが、山田は欠伝が多いことを理由に気楽流を看板に挙げていないという。系統によって技法に差異はあるが、柔術の基本的な技法は共通しており、剣、棒、鎖鎌、契木などの武器術も共通している。多くの流派では、切紙、目録、目代(もくだい)、免許皆伝の四段階で継承されていたという。目録は気楽流の全課程修了証明であり一応気楽流の武芸者となる。目代は師範代のような地位であり、門弟の取立免状である。目代はあまり使われない用語で、気楽流のほかは発祥地が同じ群馬県の馬庭念流で使用例が見られる。目代と免許皆伝の間に奥伝があるともされる。当身のことを「砕き」といい、系統で差異があるが5つの形がある。これは切紙の初手の段階で学ぶことになっている。一般に「捕手」といい大東流で「小葉返し」という形は、気楽流で「礼儀捕」という。また一般的な「小手返し」(手首関節の外旋を伴う投げ技)を気楽流では「手ツ花」というが、倒したあと押さえつける行程までを指している。
出典:wikipedia
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