ツポレフ Tu-144(ツポレフ144;ロシア語:)は、ソ連のツポレフ設計局で設計・製造された超音速輸送機 (SST) である。NATOコードネームでは「チャージャー (Charger)」と名付けられた。しかしTu-144はその外観がコンコルドに非常に似たものであったことから、西側では登場当初から「ソ連のスパイ活動によるコピー説」が広く流布しており、そのためこの機は一般に「コンコルドスキー(Concordski または Konkordski)」と呼ばれていた。ただし、初飛行はこちらの方がコンコルドよりも早かった。1950年代末、イギリスやフランス、アメリカ合衆国といった西側の航空先進国では超音速輸送機の研究や構想が盛んに行われた。音速の二倍で飛び、同じ航路を当時の亜音速のジェット旅客機の半分の時間で飛ぶ超音速輸送機は、1機あたりの生産性が倍になって航空会社の保有する機体の数を半減させることができ、大西洋間の日帰り旅行が可能となるなど乗客にとっては世界をより小さくするものであり、将来的には商用旅客機のほとんどは超音速輸送機になるだろう――したがって、超音速輸送機は航空史の新たな時代を担うものである…と、ばら色の未来が真剣に語られていたのである。ソ連でのこの種の航空機の必要性は必ずしも高いとは言えなかったのではあるが、スプートニク計画や世界初のSLBM搭載潜水艦の就役など、西側より優れた科学技術を誇示することでソビエト連邦と社会主義の求心力維持に活用してきたフルシチョフ政権にとっては、西側諸国が超音速輸送機を実用化していくのを指をくわえて見ていることは出来なかった。また、広大なソ連邦の中で政府高官や重要な物資や郵便物を移動させるために使うのであれば、超音速輸送機の需要が無いとは言えなかった。なお、陸上飛行でのソニックブームやオゾン層の破壊などの超音速輸送機による環境破壊の問題については、開発開始時には西側諸国でも認識されておらず、その後もソ連においてはあまり重要視されなかった。このような経緯もあって、ソ連においても超音速輸送機の開発がはじめられることとなった。開発を担当することになったのは超音速機と旅客機と両方の設計について実績を積んでいたツポレフ設計局であった。雑誌「Technology of the Air Transport」の1962年1月号でTu-144の概要が発表され、大臣会議による計画承認ののち、航空省は1963年7月26日にTu-144の開発をスタートさせた。計画では開始から4年後までに5機の原型機が製造され、最初の機体は1966年には完成していることが求められた。新たなる超音速旅客機の開発のために、超音速戦闘機のMiG-21を用いた2機の試験機が製造された。この機体はMiG-21I「アナローク」と名付けられたが、尾翼付きデルタのMiG-21に対し、MiG-21Iは無尾翼で、機首までなだらかに曲線を描くオージー翼を備えていた。MiG-21Iを用いてオージー翼の特性や無尾翼機の操縦性などが試験され、そのデータはTu-144の開発に活用された。原型機は1968年12月31日に初飛行した。この初飛行はライバルのコンコルドより2ヶ月早いものであった。また、この原型機は量産型Tu-144Sと異なる点が多かった。主翼はコンコルドそっくりの(そしてMiG-21Iと相似形の)オージー翼で、機首のカナードは装備されていなかった。量産型Tu-144Sより翼幅はやや小さく、胴体もやや短かった。4基のエンジンは中央にまとめられてその外側で主脚が出入りし、コックピット風防前のバイザーの窓はよりコンコルドに近い形のものであった。Tu-144原型機で試験が行われた後、多数の改良点を盛り込んだ量産型Tu-144Sが製造され、1971年7月1日に初飛行した。量産型のTu-144Sでは、製作の面倒なオージー翼の代わりに、オージー翼の曲線を2本の直線で置き換えたダブルデルタ翼が取り入れられ、翼幅、翼面積ともに拡大された。また、離着陸時にのみ展開し、大きく機首上げモーメントを生じさせる引き込み式のカナードが装備され、エレボンをフラップとして用いることが出来るようになり、離着陸性能が大幅に向上した。もし、このカナード(先尾翼)が無いと、デルタ翼やオージー翼は後縁フラップが付けられない。付けても後ろ側だけが持ち上がる形となり、通常の尾翼の飛行機がエレベーターを下げて機首を下向きにするのと同じことになってしまう。そこでカナードを付けて、主翼の後縁フラップを下げると同時に、カナードのエレベーターを用いて機首を持ち上げることにより、主翼に後縁フラップが付けられるようになった。大迎え角となる離着陸時に視界を確保するためコンコルド同様に機首を下げられるようになっていたが、コンコルドのように機首とバイザーが別に動作するのではなく、単にバイザーごと機首が上下するようになっていた。この機首を引き上げると、前方視界はわずかしか無かった。胴体は原型機の段階からコンコルドより若干太く作られており、エコノミークラスで横5列の座席を設置できた。Tu-144Sでは、胴体の長さもやや延長された。胴体後部に過熱や振動などの問題を引き起こしていたエンジンは、左右2基ずつに分離され、より外側に移された。このためにエンジン構造と主脚とが主翼下面で競合するため、主脚は小径のタイヤ8輪を装備する変わった構造とされ、エンジン2基をまとめたポッドの、それぞれのエンジンのダクトの間に引き込まれた。エンジンそのものも原型機のクズネツォフNK-144ターボファンの改良型NK-144Aに換装され、パワーアップが図られた。しかし、それでもコンコルドとは異なりマッハ2での超音速飛行時においてもアフターバーナーを焚き続けなければならなかったと言われており、ただでさえ良くない超音速輸送機の燃費をさらに悪化させた。後期にはより効率のよいコレゾフ RD-36-51ターボジェットエンジンに換装して性能を向上したTu-144Dが生産された。Tu-144は、カタログ性能面ではコンコルドをほぼ全ての面で凌駕していたが、2度、致命的な墜落事故を起こしている。1973年6月3日には、SSSR-77102号機がパリ航空ショーでの展示飛行中、パリ郊外のル・ブルジェ空港北側の村落に墜落し、乗員6名および地上の住民7名が犠牲となっている。その後、唯一の運航者アエロフロートで貨物便としての運航が開始されたが、コンコルドをもはるかに上回る劣悪な燃費性能のため間もなく運航が中止され、旅客便としての運航はわずか102便で終わった。ツポレフは燃費向上のためイギリスから有償で技術供与を受けるなどしたが解決には至らず、生産数は原型機1機、量産型のTu-144Sが10機、性能向上型のTu-144Dが5機の計16機が製造されるにとどまった。一部のTu-144は運航停止からソ連崩壊後の数年間は、ツポレフの工場で放置されていた(他、モニノ空軍博物館やジンスハイム自動車・技術博物館(ドイツ)にて雨晒しで野外展示されている機体もある。ジンスハイムの機体は機内見学可能)。しかし、次世代超音速旅客機開発のためのデータ収集を目的とするロシア・アメリカ共同プロジェクトのためRA-77114機が現役に復帰し、NASAによって1996年から数年間に渡ってアメリカで試験運用された。この現役復帰にあたっては、エンジンをTu-160が装備するより強力なNK-321ターボファンに換装し、操縦系統等にデジタル技術を取り入れるなど、大幅な改造を行っている。そのため、このTu-144はTu-144LL(LLはFlying Laboratoryのロシア語からの略語)と呼ばれている。これらのデータを元に、ツポレフ設計局はTu-244と呼ばれる新しい超音速輸送機を開発・設計し、使用するエアラインが名乗り出れば即時に具体的な形にできるとしていたが、計画は進展していない。Tu-444という小型超音速旅客機のプロジェクトが発表されたが、こちらも状況は同じである。「超音速旅客機CONCORDE」イカロス出版 107頁より引用Tu-144とTu-144S型はクズネツォフ NK-144を装備し、アフターバーナーを使用しなければマッハ2で飛行する事は出来ないがマッハ1.6で巡航することは可能。Tu-144D型はより強力で燃費が優れていて(特に超音速巡航でアフターバーナーが不要で)寿命の長いコレゾフ RD-36-51を装備。1977年のソ連映画「ミミノ」の劇中でTu-144が登場。主人公の田舎ヘリのパイロットのミミノが憧れを抱く国際航路の最新鋭機としてTu-144が描かれる。なお実際のところはTu-144が定期国際路線に就航したことはない。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。