海運アライアンス(かいうんアライアンス、shipping conference)は、コンテナ定期船会社による国際カルテルである。カルテルというと事業者間で完結する協定をイメージするのが普通である。しかし、海運アライアンスは荷主との契約もその要素とする。1873年恐慌による貨物量激減をきっかけとしてカルカッタ同盟ができた。この同盟は世界初の海運アライアンスで、カルテルの典型であった。それまでよく行われていた大口荷主への割引をやめて、全ての荷主に一率の運賃を適用した。自由競争者と荷主が抵抗したので、1877年に敷金のような制度をつくった。決められた期間に同盟船しか利用しなかった荷主に、後から運賃の一定割合を還付するディファード・リベート・システム(deferred rebate system)である。還付は二段階にして荷主をじらした。つまり、段階ごとに忠誠期間が定められており、それぞれ経過すると半額ずつ還付された。カルカッタ同盟が荷主らを屈服させた例にならい、海運アライアンスは雨後の筍のように増えた。海底ケーブルが地球を支配した時代にあって、彼らに抗うことができたのは金がうなる地域であった。まず南アフリカ連邦は1911年、"Post Office Administration and Shipping Combinations Discouragement Act" を制定した。この法律は、ディファード・リベート・システムをとる海運会社との郵便逓送契約を禁じた。またオーストラリアでは1929年、オーストラリア遠洋海運協議会を設けた。そしてオーストラリア産業保護法を改正して、荷主・同盟間の契約は協議会の認可が必要になった。これらの地域はディファード・リベート・システムがうまくいかなくなったので、海運アライアンスは荷主の枷を緩めるようになった。運賃を人質にとって半永久的に忠誠を誓わせるのをやめて、契約期間だけ縛り同時に身内料金体系を適用するようにした。一方、アメリカは海運アライアンスに特別きびしかった。まずがディファード・リベート・システムを禁じた。反トラスト法の例外として海運アライアンス自体は生き延びたが、すでに述べた契約制にせざるをえなくなった。やがてアメリカはもう一撃を加えた。を改正して、海運市場の新規参入者を冷遇する同盟を禁じたのである。当分の間この法律の運用は甘かったが、1940年に同盟約款へ「正当かつ合理的な理由がないかぎり、対等な条件で加入できる」と書かせるようになった。1970年の国連統計によると、発展途上国は、世界貿易において輸出で62.4%、輸入で16.5%を占めるにもかかわらず、世界総船腹量において7.6%を保有するにとどまった。要は、途上国が輸出したり輸入したりする貨物の大部分を先進国の船が運んでいたのである。そしてこの頃は、FRBその他中央銀行が束になってもドルを防衛しきれず、ドルを中心とした世界的なインフレが運賃を高騰させていた。そこで発展途上国は、自国の海運会社を同盟に自由参加させろとか、一定の輸送シェアを与えよとか、タリフの不当な値上げを規制せよといった要求を1972年第3回国際連合貿易開発会議総会で具体化し、強行採決した。骨子は6項目である。①すでに述べた自由参加。②輸送シェアについて、輸出入当事国間で半分ずつとするが、第三国船も運ぶときには2割を割り当てる。③発展途上国の輸出を促進するため、特恵運賃を設定する。④船主と荷主の協議機構をつくり、ここへ関係政府が参加する。⑤タリフ値上げに具体的手続を定める。⑥船主・荷主間の紛争を処理する強制的な仲裁制度を設ける。以上が定期船同盟行動憲章条約の土台となり、そのまま1974年国連全権会議において条約として採択された。翌年6月30日までの署名期間に途上国・ソ連・ドイツ・フランス・ベルギー等30か国が参加した。発効要件は参加国の保有する船腹量が世界の1/4を超えてから半年という停止条件であった。この発効条件といい、②③⑤というアファーマティブ・アクションといい、自由競争ではない。定期船同盟行動憲章条約は海運アライアンスの再編成である。国土交通省によると、イギリス・アメリカ・ノルウェーは今も立場を変えていない。かつては、海運同盟(Shipping Conference)という特殊指定で守られてきたが現在は無くなり、グローバリズムを背景とした競争が激化している。巨大化するコンテナ船の建造と保有、世界網の定期航路を維持していくためには莫大な投資が必要なため、共同運航によるグループ化とM&Aによるグループ化が進んでいる。これらのグループは『グローバルアライアンス』とも呼ばれる。
出典:wikipedia
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