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マクラーレン・MP4/11

マクラーレン・MP4/11 (McLaren MP4/11) は、マクラーレンが1996年のF1世界選手権に投入したフォーミュラ1カーである。1996年の開幕戦から実戦投入され、シーズン後半戦はMP4/11Bを使用した。奇抜に過ぎた前年のMP4/10の失敗を踏まえ、チーフデザイナーはニール・オートレイ、エアロダイナミシストはアンリ・デュランのコンビで設計したマシンである。また、ジョーダンに在籍していたスティーブ・ニコルズが復帰し、ウィリアムズにいたデビッド・ブラウンが加入するなど、デザインチームの弱体化に歯止めをかけるてこ入れが行われた。シーズン中盤戦からショートホイールベース仕様のMP4/11Bを投入し、表彰台獲得と完走する回数を飛躍的に増やした。ラウンドタイプになったフロントセクション、コクピット周囲、リアカウル周辺はMP4/10と比較すれば、巧妙に造形されている。フロントのサスペンションアームはタイロッドのカバーに加え、残りのアームも全て偏平化された。サイドポンツーンのエアインレットは極力小さくされ、そこまでのエアの流れを整えるために、大型のディフレクターが付けられている。ドライバーの頭部保護のためコクピットサイドプロテクターの装備が義務付られたが、マクラーレンはプロテクターとエンジンカバーの間に溝を設け、サイドポンツーン上方の気流を効率良くリアウィングに当てるような独特のデザインとした。リアウィング翼端板を延長してサイドポンツーン後部と接続し、リアエンドを1枚の大きなウィングで覆っているかのようになっている。ダウンフォースが必要なサーキットでは、MP4/10で話題になったセンターウィングを再び使用した。ただし、MP4/10とは異なり、支柱に取り付けるタイプになっていた。1995年最終戦オーストラリアGPでミカ・ハッキネンがタイヤのパンクが原因でコンクリートウォールに激突。衝撃で舌を噛み切ってしまい、選手生命を左右する瀕死の重傷を負った。ハッキネンは1か月半の入院をして、辛いシーズンオフを過ごしていた。復帰が可能かどうか疑問視されていたが、2月初旬にハッキネンは3か月ぶりにサーキットに戻ってきた。ポール・リカールの初テストで、いきなりフェラーリのミハエル・シューマッハを凌ぐタイムを叩き出し、自らの実力を示すことで周囲の不安を払拭した。チームメイトにはウィリアムズから移籍してきたデビッド・クルサードと組み、アドバイザーにアラン・プロストが加入し、テストも受け持つことでハッキネンの負担を軽減した。開幕戦オーストラリアGP、第2戦ブラジルGPとハッキネンが連続入賞したが、その後は空力もサスペンションも充分な性能を発揮せず、苦戦に追い込まれる。特に姿勢変化に弱いフロントまわりの空力特性や高速コーナリングで難を示す足まわりなどはシーズン終了まで改善されなかった。なかでもフロントウィングのマウントは再三にわたって改良が加えられた。決勝最高位は大荒れのモナコグランプリでクルサードが記録した2位であったが、モナコで投入したショートホイールベースのMP4/11Bをベースに改良を行い、後半戦に向けて準備を進めていた。ショートホイールベースのMP4/11Bは寸法が違うだけでなく、リアサスペンションも変更されている。空力性能が弱いといわれていたが、ディフューザーの改良も行い、安定したダウンフォースを得られるようになり、第10戦イギリスGPからMP4/11Bを主戦マシンとした。第10戦イギリスGP以降、予選でもミカ・ハッキネンが平均2列目、デビッド・クルサードが平均3列目でグリッドを確保するようになり、第9戦迄表彰台は既述した1回のみであったが、第10戦以降、ハッキネンが7戦中4戦で3位入賞して表彰台を得てウィリアムズには及ばないが、フェラーリやベネトンと互角に争うようになっていた。結果的に今シーズンも優勝ができなかったが、確実に戦力アップはしてきていた。なお、1996年をもって1974年以来23年間に渡ってメインスポンサーを務めたマールボロとの契約を終了し、赤・白の「マールボロカラー」も見納めとなった。

出典:wikipedia

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