オクゼンフルト(Ochsenfurt)はドイツ連邦共和国バイエルン州ウンターフランケン地方のヴュルツブルク郡の市で、マインドライエックの南部に位置する。歴史的な旧市街を囲む多くの市門や塔を持つ市壁は現在もその大部分が保存されている。オクゼンフルトはかつてヴュルツブルク聖堂参事家の所領に属していた。Ochsen(雄牛)は、昔、車を牽くのに使われた動物で、牛車でマイン川を渡れる場所(Furt = 渡河地点)を意味した。イギリスのオックスフォードやトルコのボスポラスなど、同じ意味の地名は各地にある。オクゼンフルトは、ヴュルツブルクとキッツィンゲンの間、ウンターフランケンのヴュルツブルク郡に位置する。町の中をマイン川やいくつもの小さな川(例えば、ティーアバッハ川)が流れている。この街は数多くのブドウ山に囲まれたオクゼンフルターガウに位置する。本市は、公式にはの16地区 (Ort) からなる。このうち小集落や孤立農場などを除く集落を以下に列記する。オクゼンフルトは725年に初めて文献に記録されている。聖ボニファティウスによってこの街に創設された修道院の女子修道院長テークラ・フォン・キッツィンゲンの命令書がそれである。おそらく11世紀までにオクゼンフルトは王領となったと推測されている。名高い市壁や塔は14世紀に造営された。1512年に橋が建設され、オクゼンフルトは経済的に重要な町となっていった。1525年のドイツ農民戦争ではこの街にも暴徒が襲来した。新市庁舎は1479年に完成した。聖アンドレアス教会は1288年に献堂された。オクゼンフルトは1803年にバイエルン選帝侯領となった。1806年にヴュルツブルク大公国に移されたが、1813年に都市部はバイエルン王国領となった。1945年、オクゼンフルトはアメリカの管理地区に属すこととなった。第二次世界大戦でマイン川の橋は破壊されたものの、旧市街は被害を受けなかった。1972年にオクゼンフルト郡は廃止され、ヴュルツブルク郡に編入された。市長は、ペーター・ユークス (Unabhängige Wahlgemeinschaft) である。オクゼンフルトは、ドイツ鉄道の高速鉄道網における重要な運輸軸路線の一つであるトロイヒトリンゲン - ヴュルツブルク線沿いに位置する。この路線上を1時間毎に運行しているレギオナルバーンが、上級中心都市ヴュルツブルクとの間を結んでいる。オクゼンフルトからガウケーニヒスホーフェンを経由してレッティンゲンに至るガウ鉄道は1990年代に廃止された。多くのバス路線がこの街と、特にヴュルツブルク郡南部の市町村とを結んでいる。この街はマインフランケン交通連盟 (VVM) に加盟している。近隣を通るアウトバーンA7号線およびA3号線はオクゼンフルトにとって重要な南北および東西の交通軸である。最寄りのインターチェンジは、A7号線は約8km離れたマルクトブライト、A3号線は約12km北のアイベルシュタットにある。また連邦道B13号線がオクゼンフルトを通っている。旧マイン橋は1512 - 19年に建造された。この橋は13連のアーチを台座として構成されていた。1866年の普墺戦争でプロイセン軍によって破壊され、その後再建された。1945年3月31日、アメリカ軍の進駐を前に中央部のアーチが破壊された。損傷した旧マイン橋は戦後、近代的な船舶の航行を考慮し、中央部にコンクリートの梁を用いてアーチを高くした形で再建された。それ以外の部分はそのまま保存された。しかし、やがて老朽化が顕著になり、市区内の徒歩・二輪車の交通だけが許可されるようになった。2006年9月からは東海の危険が高まったため、徒歩や自転車での通行も禁止された。2007年にまず中央部の鉄筋コンクリートが取り壊された。同年中に全体を撤去し、その後似た形の橋を新たに架ける計画であった。ところが、この過程で行われた建築調査でこの橋の建築史上の重要性が明らかとなり、ヴュルツブルクの旧マイン橋やレーゲンスブルクの石橋に匹敵する重要な橋であると判断された。このことから橋保存の市民運動が興った。連邦および州の文化財保護局ならびにオクゼンフルト市当局は、この橋を2009年から原型に忠実に補修再建することを決めた。この間、交通は旧マイン橋の下流に作られた新しい橋を利用した。1954年、オクゼンフルトに新マイン橋が建造され、その上を連邦道B13号線が通るようになった。しかしこの橋も老朽化したため、2010年にこの橋は取り壊され、その後に新しい橋が架けられることになっている。
出典:wikipedia
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