林 昌範(はやし まさのり、1983年9月19日 - )は、横浜DeNAベイスターズに所属するプロ野球選手(投手)。千葉県船橋市出身。父親が自動車教習所を経営しているため、林は18歳で既に運転免許を取得していた。小学生の時に飯山満シーホークスで野球を始め、船橋市立七林中学校3年時にはエースで4番を務めた。千葉県総合体育大会で2位に入り、茨城で行われた関東大会に出場した。高校は船橋市立船橋高等学校に進学し、大型左腕として評価されたものの、公式戦で足に重度の骨折を負った。2001年のプロ野球ドラフト会議で他球団が指名を回避するなか、読売ジャイアンツから7巡目で指名されて入団。同ドラフトでの巨人の「隠し球」だった。背番号は96。ルーキーイヤーは一軍登板なしに終わった。序盤に、2軍のローテーション投手として9試合に先発し1完投・防御率3.22を記録、6月28日に1軍の先発左腕投手の不足を補うため、初昇格して即先発。140キロ前後の球速ながら、ゆったりとした球の出所の見にくいフォームを武器に相手打線を7回1安打無失点に抑え、そのままローテーションに定着する。7月5日の中日ドラゴンズ戦では8回表に中継ぎで登板するも、立浪和義に右前安打を放たれ、日本プロ野球史上30人目となる通算2000本安打を献上している。8月14日にはプロ入り初勝利を挙げるなど15試合登板で3勝3敗・防御率3.22の成績を残した。背番号が30となり、先発投手として25試合に登板するが、3勝9敗・防御率4.89と前年より数字を下げる。池谷公二郎の指導で投球フォームをスリークォーター気味に改造。先発ローテーションを内海哲也と争ったが敗れ、中継ぎに転向すると、フォーム改造の効果も相まって平均球速が140キロ台後半まで上昇。セットアッパー、シーズン中盤以降は抑えとして安定した投球を見せ、2勝2敗18セーブ、防御率1.61の成績を残す。この年のオフに原辰徳が監督に復帰するが、引き続きリリーフでの起用となる。原の構想では久保裕也から林に繋ぎ、新加入の豊田清で締めることになっていたが、久保と豊田のピッチングが不安を見せる中、林は1年を通して安定した投球を続けた。しかし一方でシーズン終盤には慢性的な肘痛を訴えた。同年オフの検査で肘に遊離軟骨を抱えている事が判明したが、クリーニング手術などの外科的処置を採らずに様子を見た。オフには後輩の東野峻を伴ってグアムで自主トレを行った。原から「岩瀬仁紀のような投手に成長して欲しい」と期待をこめて背番号を13に変更された。オープン戦終盤にチームに復帰したが、開幕直後に不調の豊田をカバーするため4試合連続登板したのち数日ブルペンに入らないなど、持病を抱えながらの変則的な登板となり、7月ごろから調子を落とした。オールスターゲームにファン投票で選出されて出場したものの直後に登録抹消、8月に再昇格するが1試合に登板すると左肩甲骨に違和感を訴え、再び登録抹消された。10月のクライマックスシリーズ第2ステージにて戦線復帰。第1戦にワンポイント登板、第2戦にはイニングをまたぎ1回1/3登板。打者6人を被安打0、2奪三振、1四球に抑えている。シーズン終了後まもない同月末に肘のクリーニング手術を行った。同シーズンは持病の肘痛を抱えながらも、序盤戦で唯一の勝ちパターンで信頼できるリリーフとして、前半戦の左のセットアッパーとしてリーグ優勝に貢献。離脱した時期とチーム成績が下降した時期がほぼ一致しているが公傷と認められず、年俸微減で更改した。12月7日、当時テレビ東京のアナウンサーだった亀井京子と結婚。2008年10月には第一子となる長女が誕生。前年末の肘手術の影響で、キャンプインから二軍で調整。5月20日に一軍復帰したものの制球が乱れ、2試合で降格した。その後、ウィルフィン・オビスポと共に二軍の守護神として起用されながら再調整を続けた。8月17日の対広島東洋カープ戦で2ヶ月ぶりに復帰し、9月10日までに7試合に登板、その全てで三振を奪い、計7.2イニングを投げ自責点2、1イニング3奪三振を含む奪三振13という数字を残し、球速の最高値は146キロを記録した。11月14日、マイケル中村・工藤隆人との交換トレードで二岡智宏と共に北海道日本ハムファイターズに移籍した。背番号は19に決まった。抑え候補としても期待されたが、練習試合で打ち込まれるなど不調でファームで調整することになる。開幕は二軍で迎えたが5月に一軍昇格、5月2日に初登板。5月20日には古巣である対読売ジャイアンツ戦で移籍後初勝利を飾った。なおこの勝利は巨人時代の2007年6月11日以来709日振りで、その時の対戦相手は日本ハムであった。以降は勝ちパターンでゲーム中盤の左のワンポイントとして起用されるようになった。春季キャンプに先発に挑戦するも怪我などを理由に前年どおり中継ぎとしての登板となった。前半戦は失点する場面が目立った上故障にも苦しんだ。しかし8月に登録されて以降の自責点はわずか1だった。最終的に主にワンポイントで起用され、防御率2.64の成績を残し、WHIPは1を切った。しかし、登板数、投球回数が前年度よりも10以上少なくなった。9月2日、第2子となる長男が誕生した。前年よりさらに登板数が減少し、一軍デビューしてからワーストとなる5試合の登板に留まった。11月17日に戦力外通告を受け退団。12月11日、同じく日本ハムを戦力外となった菊地和正と共に横浜DeNAベイスターズの入団が発表された。背番号は大洋の名投手・遠藤一彦がかつて使用していた24に決まった。移籍後初登板の4月4日の中日ドラゴンズ戦で1/3イニングを2安打2四球と打ち込まれ、翌日に二軍落ちした。2012年は結局32試合に登板したもの0勝でシーズンを終えた。なお防御率は1.91と安定感はあった。6月に一軍に昇格するものの、16日の西武戦、25日のヤクルト戦と連続で失点して24日間で二軍落ちした。その後8月に再昇格を果たすも、前年度を下回る14試合の登板に留まった。6月21日の埼玉西武ライオンズ戦で延長10回2死から登板し、その裏に味方が逆転サヨナラ勝ちしたためシーズン初勝利とともに全球団勝利を達成した。その後も左のセットアッパーとして活躍を見せ、56試合に登板、15ホールドの成績を残した。開幕一軍入りを果たしブルペンの柱としての活躍を期待されていたが、防御率が7点台と前年から大幅に悪化した。8月下旬に左肘の手術をするなど、苦しい1年となった。巨人時代に、NHK教育テレビ「ピタゴラスイッチ」のアルゴリズム体操に、当時の同僚である内海哲也・木佐貫洋・久保裕也とともに登場。その映像は、林本人が日本ハムへ移籍した後の放送でも不定期に流れることがあった。趣味の一つにジグソーパズルがあり、500ピースを1日で完成させるほどである。2014年オフの契約更改の際、契約とは別に本拠地横浜スタジアムのブルペンの虫の駆除を要求して話題となった。
出典:wikipedia
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