レーテー(Lethe, ;古代ギリシア語発音 、現代ギリシア語: )は、古代ギリシア語では、「忘却」あるいは「隠匿」を意味する。レーテーは、「真実」を意味するギリシア語、つまり「非忘却」「非隠匿」を意味する と関連がある。ギリシア神話でのレーテーは、黄泉の国にいくつかある川の1つである。川の水を飲んだ者は、完璧な忘却を体験することになる。レーテーはまたナーイアス(水のニンフ)でもあるが、水の精としてのレテは多分に、レテの名を持つ川と関連付けるよりも、独立した忘却の象徴として扱われる。レーテーはエリス(ヘーシオドスの『神統記』では不和の女神)の娘であり、アルゴスらの姉妹である。古代ギリシア人の一部は、魂は転生の前にレーテーの川の水を飲まされるため、前世の記憶をなくすのだと信じていた。プラトンの『国家篇』最終章『エルの物語』では、アムレス(「不注意」の意)川の流れる「レテの平原」にたどり着いた、死者の話を語っている。いくつかの神秘主義的宗教では、別の川ムネーモシュネーの存在も伝えられている。ムネーモシュネーの川の水を飲んだ人々は、すべてを記憶して全知の領域に達する。入会者は死後に、レーテーの代わりにムネーモシュネーの水を飲む選択を得ると教えられていたのである。紀元前4世紀、もしくはさらに古い時代のものと思われる黄金の平板に、これら2本の川の名を含む韻文の銘が発見されているが、これは南イタリアの Thurii や、その他のギリシア世界のいたるところで発見される。レーテーとムネーモシュネーの川は、ボイオーティアのトロフォニウスの聖地にあり、崇拝者は神の諮問を受ける前に、その水を飲んだのだという。近年では、マルティン・ハイデッガーが「存在の隠蔽」や「存在の忘却」を現代哲学の重大な課題とみなし、「レーテー( lēthē )」をその象徴とした。その例が、ニーチェの著作 (Vol 1, p. 194) やパルメニデスの本に見られる。スペインガリシア州オウレンセ県行政区にあるシンソ・デ・リミア近くの小さな川、リミア川には伝説のレーテー川同様、記憶をなくす力があると、古代の著作者の間では言われてきた。紀元前138年、ローマの将軍デキムス・ユニウス・ブルートゥス・カッライクスが神話に決着をつけようとしたのは、この地域での軍事作戦をリミア川が妨げたためであった。彼はリミア川を横切り、岸の向こうから一人ずつ、兵士の名を呼んでみせたと伝えられる。兵士は、将軍が自分たちの名前を忘れていなかったので驚愕し、同様に恐れることなく川を横切った。この行為によってリミア川は、地域の伝承で語られるような危険なものではないと証明された。アラスカ州には、万煙谷(カトマイ国立公園)を流れるレテ川が存在する。ウォルター・サヴェジ・ランドール は、時が飛ぶように過ぎる様子を、レーテーの水滴を時が翼につけるという比喩で表現した。『神曲』では、レーテーの流れは地表から地球の中心へと流れ、その源流は煉獄の山頂のエデンの園に位置するとされる。ジョン・キーツの詩『憂愁のオード』は、冒頭「いや いや 忘却(レテ)の川へ行ってはならぬ」()で始まる。彼の『ナイチンゲールに寄す』の「 (レテ)」は、語り手を沈めて「 (にぶい痺れ)」を生じさせる。バイロンの『ドン・ジュアン』第4篇第4節エドガー・アラン・ポーは詩『死美人』で、レーテーのような水面を包含する「不変の谷」が「眠っている」様子を表現した。ボードレール作『悪の華』中の詩『憂愁』(初版第61篇、再版第77篇)は次のような行で終わる。ボードレールはまた「レテ 」と題した詩も作っており、その中では、礼賛に値するも無慈悲な女性がレーテー川の忘却の比喩として用いられる。フランス・ロマン派の詩人、ラマルティーヌは『谷間 Le Vallon 』の中で次のようにレーテー川に触れている。スウィンバーンの『プロセルピナ讃歌』にという行があり、キリスト教が公式宗教となって古代ローマの原宗教の伝統と信仰が衰えていくのを嘆いている。エドナ・ミレイの詩『レテ 』では、川は次のように表現された。アフリカン・アメリカンの詩人フェントン・ジョンソン (1888-1958) による詩『真紅の女 』では、若い女性が飢餓のあまり売春に走る。詩は次のような行で結ばれている。シルヴィア・プラスの1962年の詩『あと一息 』は次のように結ばれている。アレン・ギンズバーグの詩『カリフォルニアのスーパーマーケットで 』でも、レーテーの川に触れている。 ビリー・コリンズは詩『忘却 』で次のように述べている。シャーロット・ターナー・スミスは『ソネットV: ダウンズ川に 』でレーテー川の忘却を欲する。バイロンの詩『汝を忘れず 』でもレーテーに触れている。ウェルギリウスの叙事詩『アエネイス』6巻でアエネアスは、「滑らかな液体で長い忘却の飲み物」つまりレーテー川の水をローマの未来の英雄が飲む様子を先見する。ジェイムズ・L・グラントのホラー小説『レテの岸辺で 』は、失われた記憶という本のテーマを暗示している。ナサニエル・ホーソーンの小説『緋文字』の第4章で、ロジャー・クリングワースは「レテもネプチューンも知らない」と主張する。ロバート・A・ハインラインの小説『愛に時間を』には、「ネオ・レテ 」( の章を参考)という強力な鎮静剤が出てくる。トニ・モリスンの小説『ビラヴド 』では、主人公の名前セテ は、水の力、特に彼女の過去を風化することができるというモチーフに基づいている。ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』において、エイブラハム・ヴァン・ヘルシング教授がルーシーに、「レテの川の水のような匂いがする」()と言って、彼女の部屋にニンニクを置いてドラキュラよけにするようアドバイスする場面がある。C・S・ルイスは著書『天国と地獄の離婚 』でレテに触れ、と書いている。滝の話をしている聖霊は、芸術家に天国について説明し、間もなく彼が自分の作品の所有権をすべて忘れるだろうと語る。マルセル・プルーストの小説『失われた時を求めて』「スワンの恋」の章で、語り手は、うわべは失われてしまったかのような記憶を手繰りながら、次のように語る。サーシャ・ソコロフの処女小説『馬鹿たちの学校』では、無名の語り手はロシアの田園地帯を貫いて流れるレテのような川について何度も言及し、それが重要な意味を持つ。ヘンリー・デイヴィッド・ソローが書いた『ウォーキング Walking 』では、次のように書かれている。グレアム・グリーンの小説『第十の男』第17章で、主人公シャーロットは、はったり屋のカロッセが傷つきやすいマドモワゼル・マンジョを楽しませているのを見かける。スティーヴン・キングの小説『ローズ・マダー』では、ローズは水を飲まないよう警告されて川を横切るはめになる。物語の後半では、川の水が飲み物に数滴混ぜられ、ビルの記憶から、本の結末の後半部分に関する部分を消すために使われる。ピアズ・アンソニイの『』では、ニオベは娘と孫娘に同行し、魔法の絵筆とハープを探す旅に出る。探索の旅の間に3人は、幻覚のレテを横切らねばならなくなる。のちに地獄で、ニオベは再び川を横切らねばならなくなるが、それが本当のレテであるかもしれないと疑問に思う。ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』では、アントニーが、シーザーの血に濡れた殺人者の赤い手を見て次のように言う。加えて、シェイクスピアの『十二夜』では、セバスチャン役がレテの話題に触れる。ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『ハムレット』では、ハムレットの父の幽霊が王子に次のように言う。『アントニーとクレオパトラ』では、セクストゥス・ポンペイウスが、アントニーの想定していた軍の無気力について語り、次のように希望する。ゲーテのファウストでは、風の精霊アーリエルをはじめとするエルフ(精霊)達に囲まれ、ひとときの安息と"過去の忘却"を得たファウストが、最愛の女性グレートヒェンが自分との過ちのために処刑された悲しみを、ファウスト博士が豊かな自然の中で癒す第2部第1幕の場面で、アーリエルの言として以下の記述がある。ジョン・ウェブスターの戯曲『白い悪魔』では、ヴィットリアの夫と自身の妻の殺害を企てていたブラキアーノ侯爵が、絶命間際にヴィットリアに言う。サミュエル・ベケットのラジオ劇『Embers』において、主要人物のヘンリーが亡き妻との会話をこう記している。セーラ・ルールの『ウリディス Eurydice 』では、レーテー川は演劇の中心テーマとなる。すべての死霊はレテの水を飲んで石に変わり、声なき声で話し、この世のすべてを忘れるのである。ジャック・オッフェンバックのオペレッタ『地獄のオルフェ』では、ジョン・ステュクスが、あることを忘れたいがためにレーテーの水を飲む。彼の健忘性は、劇の終わりまで続く。ロイ・アンダーソンの『愛おしき隣人』では、ゲーテのロマン詩からの引用がエピグラフとして用いられた。この後、路面電車の行先に「 」の文字が見える。ジーン・ロッデンベリーの『アンドロメダ』には、 「レテの岸辺 」という回がある。ジョス・ウィードンの『バフィー 〜恋する十字架〜』の「 」という回で、ウィローがレテの という花を使った呪文を用いて、友人の記憶を一時的に消そうとしていた。ウルトラマンネクサスにて「レーテ」と呼ばれる装置が登場。人々の記憶を消去して機密を保持する目的で使われていた。ウィリアム・T・G・モートンは、ジエチルエーテルを史上初めて麻酔薬として使用し、エーテルを「レテオン 」と呼んだ。
出典:wikipedia
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