大紫(だいし)は、648年から685年まで日本で用いられた冠位である。上から数えて5番目で、小繍あるいは小縫の下、小紫の上にあたる。大化3年(647年)の七色十三階冠で設けられた。大紫とそのすぐ下の小紫がかぶった紫冠は、織で縁取りし、金銀の鈿で飾ったものである。服の色は浅紫を用いさせた。翌年4月1日に古い冠を止め、この新しい制度に移行した。13階中5階という順位は中程度に見えるが、紫冠は旧冠位十二階で制度の上に超越した大臣の冠である。小紫以上の6階が大臣級で、該当者ごくわずかという形で導入された。その後の改正で、大化5年(649年)2月に冠位十九階の5階目、天智天皇3年(664年)2月に冠位二十六階の5階目になった。下の冠位は小紫でかわりないが、上は天智天皇3年(664年)2月を境に小繍から小縫に変わった。『日本書紀』に出てくる人物では、大化5年(649年)4月20日に左大臣となった巨勢徳多(徳陀古)と、同じく右大臣になった大伴長徳が、同日に小紫から大紫になった。両人の大紫より高い冠位を持つ者はこの時点でなく、徳多は後に大繍になったが、長徳は大紫のまま死んだ。続いては、天智天皇3年(664年)5月に亡くなった蘇我連子が大紫で、連子も大臣だったと考えられている。さらに、巨勢人が大雲という位だったとする記事が『続日本紀』にある。大雲は他に見えない冠位で、これを大紫の誤りとする説がある。大紫になったのがいつかは不明だが、巨勢人は天智天皇10年(671年)1月2日に大錦下であり、5日に御史大夫に任命された。その同じ5日に大錦上の中臣金が御史大夫より上の左大臣に任命されたので、人が大紫になったのはそれより後、かつ翌年7月に壬申の乱に敗れて流刑になる前となろう。しかし大雲を不明のままにして大紫にあてない説もある。天武天皇は大臣を置かなかったが、壬申の乱で功績を立てた者に、死後大紫や小紫の位を贈った。彼らは生前の地位はさして引き上げられず、死後に贈位によって顕彰されたのである。大紫か小紫か不明だが、奈良県で出土した「金銅威奈大村骨蔵器」には、威奈大村の祖父威奈鏡公が紫冠と刻まれている。
出典:wikipedia
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