神棚(かみだな)は家や事務所などにおいて主に神道の神をまつるための棚である。しかし、神仏習合となっている神棚もある。神棚には3種類ある。一般的にみられるのは小型の神社を摸した宮形(みやがた)の中に伊勢神宮や氏神、信仰する神の神札(お札)を入れるもので、これは札宮(ふだみや)といい、狭義にはこれを神棚と呼ぶ。神職の家など神式で葬儀を行う家には、仏教の仏壇に相当する祖先の霊をまつるための神棚があり、これは御霊舎(みたまや)という。他に、神札よりも神の依り代としての意味合いが強い「御神体」をまつる神棚もある。その場合は神棚ではなく「御神体」を授与した神社の分社とみなすほうが自然だ、とする考え方もある。以下、札宮(狭義の神棚)について説明する。神棚は一般には扉が一枚の“一社造り”と三枚の“三社造り”とが普及している。
主に、お札の枚数が一枚の時には一社造りで2~3枚の時には三社造りと言う風に使い分けられる。神棚は、できるだけ明るく清浄な場所の、最上階(または上に上階の床のない箇所)の天井近くに南向きまたは東向きに設置するのが良いとされる。最上階への設置が困難な場合があるため「雲板」や「雲文字」が用いられる。「雲板」は神棚を設置する神棚板の上部に取り付けられている雲形に彫刻されている部材である。また、「雲文字」は「雲」、「天」、「空」の木製の抜き文字あるいは紙製の書き文字を天井部分に取り付けるものである(注:下記も参照のこと)。設置場所がなくやむを得ずタンスの上にまつる場合は白い布か白い紙を敷いて神札を置くのが望ましいが、トイレと背中合わせになる場所や、人の出入りが激しい扉の上などは避けなければいけないと言われている。それ以外にも同じ部屋で神棚と仏壇の向かい合わせの設置は好ましくないとされている。神棚の正面には神鏡、左右に榊を立てた榊立て、灯明を配し、神棚の前方に注連縄をかける。このほか真榊(まさかき、ミニチュア)、雄蝶・雌蝶といった御酒口(ミキグチ)をあつらえた飾り徳利(多くは九谷焼風)、御幣(金幣)などが神具セットに含まれている場合があり、ほかにも各家庭でさまざまな縁起物(破魔矢、熊手など)が飾られている例が珍しくない。なお、神鏡を置く理由は諸説ある。神は鏡のようにあるがままを見通すものであるとか、あるいは鏡のように見る人によって違って見えるものであるからそのつもりで神の前に立てという意味であるという説や、自らの中にある神性と向き合えという意味であるとする説、あるいは鏡は太陽の光を反射するように神の光を映すものであるとする説、など。神饌(お供え)としては、洗米(またはご飯)、塩、水、酒が基本であるがそのほか、青果物、生魚、干物、菓子類などが供えられる。米、塩、水は毎朝、酒及び榊は月に2度(通常は1日と15日、ほかに祀っている神札の祭神にゆかりの日)新しいものと取り換えるのがよいとされている。ほかに、合格通知や祝物の熨斗紙などが捧げられる場合もある。神饌の置き方は、米・塩・水の場合、向かって左から水・米・塩、向かって左から水・塩、2列目に米とする。米・塩・水・酒の場合、向かって左から水・酒・米・塩、もしくは向かって左から水・塩、2列目に酒・米、向かって左から水・塩、2列目に酒・酒、3列目に米とする。また、本来神道に魚や鳥以外に四足の獣を備えてはいけないという決まりは無い。その証拠に君津市の諏訪神社では「猪鹿切り祭」で獣肉を備える神事がある。神へ供えた食べ物は後で「お下がり」としていただくようにする。神饌を供えたら家族そろって日ごろの神の加護を感謝し、これからの安全と幸福を祈るのが望ましいが、これができない場合は各自外出前に祈ってもよい。神社本庁が推奨する神棚への拝礼方法は神社と同様「二礼二拍手一礼」であるが、「二礼四拍手一礼」などさまざまな流儀がある。また、「神棚拝詞」という祝詞を唱えるのも良いとされている。神職でなくとも良い(神職を呼ぶ際は宅神祭と呼ばれる)。一般的な、神棚を拝する順序を以下に示す。① 神前に進んで軽く会釈
② 深いお辞儀を二度
③ 拍手を二度
④ 深いお辞儀を一度
⑤ 会釈して退く
お参りをする前には洗面し、口を漱ぎ、お供えをしてあることが適当である。祝詞を奏上する場合は、深揖→二礼(再拝)→祝詞奏上→二礼二拍手一礼である。神棚をまつっている家で人が亡くなった時は、五十日間神棚に白い半紙を貼って隠し、拝礼もしてはならない。現代の武道の道場にはよく神棚が祀られているが、江戸時代の道場は神棚ではなく、『日本書紀』や『古事記』など日本神話から「剣の神、武の神」とされた「鹿島大明神」(武甕槌神)と「香取大明神」(経津主神)の二柱の神名、さらに幕末期には尊皇攘夷思想の高まりとともに「天照皇大神宮」(天照大神)を中央に加えた三柱の神名を書いた掛け軸が床にかける神床であった。道場に神棚が祀られるようになったのは明治時代以降の国家神道の影響である。1936年(昭和11年)、文部省主催の体育運動主事会議において、「道場ニハ神棚ヲ設クルコト」という答申が行われ、学校の道場への神棚設置が義務化された。その下に日章旗が掲揚され、稽古の際に神拝が行われるようになった。第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部が学校教育への武道を禁止し、1946年(昭和21年)1月12日に大日本武徳会理事長藤沼庄平から都道府県支部長宛に「神殿、神棚等撤廃ニ関スル件」が発せられ、神棚は撤去された。ただし現代においても一部の国公立校、多くの私立校では神棚が祀られている。神棚の祀り方においては、細部まで完全に統一された形式というのは存在しない。たとえば、神札は神の依代であり、神を直接見るのは畏れおおいとする神道の考え方に従って、神棚の扉を常時閉めておくべきと主張する人もいれば、神札は神とその人(家)との絆であるから、逆に常時開けておくべきと主張する人もいる。また、一宮形の神棚においては、通常、神札は前から伊勢神宮の札を重ねて入れるのが良いとされるが、たとえば春日大社などは逆に、伊勢神宮の札を奥にするのが良いとしている。神棚の上部前面に雲の形の板を取り付けるまつり方もある。これらの形式の細かい点においては、産土神社などにおいて尋ねて確認するのが良いとされるが、心がこもっていればいかなる形式でも良い、とする考え方もある。最近は、神棚の形も自由でよいという考え方から、例えば埼玉県神社庁は『未来の神棚デザインコンテスト』を開いている。仏教(主に真言宗)でも御札は神棚に祀る。その場合、神道の神札とは別けて祀る場合と、同時に祀る場合が存在し、祀る順番も合わせて厳密な決まりは無い(高野山真言宗の場合)神棚が日本の歴史に登場するのは、中世江戸時代中期頃である。もともと神道では神とは常在のものでは無く、人が祀る時に初めて現れるものとされる為、神の常在を前提とした神棚の成立はそう古いものでは無く、古代日本には神棚は存在しない。江戸時代には伊勢神宮や富士に参詣する事が観光旅行として庶民に広まっており、この時、旅行案内人としての役割を担った存在に御師(おし)がある。御師は身分的には百姓と神職の中間に位置づけられて、全国にお神札(ふだ)を配布しながら伊勢神宮への信仰を勧めた。信仰を勧める戦略の一つとして、御師は大神宮棚というものを考案する。これは伊勢神宮のお神札を家庭で祀ることの出来る物であり、これが今で言う神棚に当たる。神棚が各地の神社の御師によって広められることで、やがて庶民の間に、神道上の慣習として定着するようになった。御神札の種類
出典:wikipedia
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