芝村(しばむら)は兵庫県武庫郡に所属した村の一つで、現在で言うJR西宮駅の北側と阪急西宮北口駅の南側に囲まれた、西宮市西福町・神明町・芦原町・両度町・高松町・南昭和町・丸橋町に当たる範囲に存在した。明治の大合併を経ずして行政村となったため非常に狭く、民家の犇いている場所だった。明治4年の「解放令」時点での人口1049人で武庫郡最大のかわた村(後の被差別部落)として知られ、芝村水平社が設立され、全国水平社運動の拠点の一つとなった地域である。東は瓦木村、東南は今津町、南は西宮町(のち西宮市)、東は大社村。御手洗川と津門川の間、旧・中村(大社村域)の東にある。東西約760m、南北約1320m。単独村政したため大字には分かれない。高低はなく一概に海抜5m、大社村より来る御手洗川が芝村北西端を通り西宮市へ入り、富倉川は瓦木村から芝村の上丸橋・両度・細工田の各字を過ぎて西へ流れ村の最南端で御手洗川に入る。このように狭小で単純な土地である故、土地利用は大正初年には飽和状態に達し、人口も限界に達していた。この事が後に西宮市との合併の理由となった。(後述)明治16年の地籍図に条里制地割遺構と字三ノ坪があることから武庫西条に属すると考えられる。村域に神祇官田という字があり、広田神社か又は中世に広田社領を管握していた神祇伯主家(白川家)になんらかの関わりがあったと見られる。荘園制においては広田社領の広田郷に属していたのが、鎌倉時代以降は西宮郷・仁部荘・戸田荘に分裂し、うち戸田荘に属した。伝承によるとこの村は元は西宮町の池田松原神社の東端、東芝という地に居住していたものが、いつ頃からか今の地に移転させられたといわれている。天正年間は豊臣氏直隷、奉公片桐主膳の采邑。『慶長国絵図』に村名がみえ、高262石余。『正保郷帳』『摂津商改帳』『旧高旧領』にも高同じ。江戸時代最初幕府領。元和3年(1617年)に戸田氏鉄の尼崎藩領となり、寛永12年(1635年)尼崎城主が青山幸成となり、寛文4年(1664年)より青山氏分家の旗本(幸正系)領に文知となり青山三之助の代まで青山氏の支配下であった。明和6年(1769年)の上知令により大阪町奉行所の支配、上大市村代官の管理下にあった。明和8年(1771年)の「西宮勤番所取捌帳」(西宮市役所蔵)によれば中村の枝郷。宝永8年(1711年)の家数20/人数115・牛7。元文5年(1740年)閏7月1日、大雨により武庫川の堤防が決壊、当村では一時に132石余が荒場となり倒壊52軒、流失2軒、牛2頭の壊滅的打撃を受けた。農業用水は上大市村外五ヶ村を井親とする百間樋の井子村に所属。鎮守の八幡神社は天保年間(1830〜 1844年)に寺田弥上右衛門が夢告により創建したと伝えられる(元は西福寺の西隣だったが大正14年(1925年)に北方200mの現在地に移転した)。先述の通りこの村は穢多の住まわされたかわた村である。周囲の村々から迫害を受け、主郷である中村から枝郷として支配を受けていた。文政7年(1824年)2月5日、戸長の吉岡四郎右衛門は本村の分離独立を謀り、領主の道中の行列へ厳禁であった直訴をした。侍従がこれを阻むが彼は屈せずに駕籠を追って膝行し、ついには帰らぬ人となった。村民は四郎右衛門の行を徳として毎年2月5日に「五日祭(四良右衛門祭)」と称して彼を慰霊した。慰霊碑は八幡神社の元旧社地に立つ。万延元年(1860年)、当村と中村の小作人が共同して中村田地の小作につき宛米一割人分の用捨を地主に要求する小作騒動を起こした。また、慶応2年(1867年)、西宮から始まった米安売り騒動は芝村が発端という。明治4年(1871年)の解放令により身分制度から解放されたこの部落は、戸籍編製法により兵庫県第16区(64区分のうち)に入り、明治5年(1872年)8月から第7区(19区分)、明治11年(1878年)郡区町村編制法により再び武庫郡。明治22年(1889年)町村制公布時には念願叶って単独村政にまで漕ぎつけた。大正時代に書かれた『武庫郡誌』では被差別部落である事は伏せられているも、あまり良い様には書かれていない。「村民は概して衛生概念に乏しく、絶えず普及啓発に努めているが効果は少なく、村人の衛生概念は幼稚であるが粗食祖服に甘んじよく働き強健であるため伝染病にかかる者は少し」だという。衛生対策としては明治9年(1876年)には村営浴場「戎湯」を設置している。しかし「細民に至っては不潔な衣服を纏い風体を少しも気にしない」とあり、それどころか「低知識層に至っては言語の発音が正確を欠き、風俗は野卑にして、動もすれば事の是非を弁せず付和雷同するのを弊なしとしない」としている。逆に同書において村民の長所として、「素朴な人情と強い団結心・忍耐力を挙げている。一村一旦那寺の敬虔な浄土真宗の信徒であり、如何なる悲境に陥っても敢えて常を失わず、前世よりの業報にしてこれ皆因縁因果と断念する」様だったとある。また、後生行先の妨げであるとして迷信・禁厭の類は殆ど見られなかったという。小学校令以前は西福寺の第八代住職大乘が有志の子弟を教養していたが、九代目大乘はより熱心にこれを行い本人の希望に応じて3〜 5年の修業年数でいろは歌から始まり、名取・村名・国盡・商売往来等を習わせた。また村内に二三の手習師匠がおり、10〜 20名の子弟に手習いを教えていた。この他茶の湯・立花・浄瑠璃・裁縫等の師匠があった。小学校が始まったのは明治6年(1873年)12月18日からで、当初は西福寺の一室を仮用していた。なお、村の特産品は草鞋であった。大正デモクラシーの流れを受け、この村にも部落解放運動の波が押し寄せる。まず大正11年(1922年)2月12日に武庫郡公会堂で人種差別撤廃大演説会を開催した。同年12月24日には大阪、神戸、住吉方面からの応援者100余人を加えて300余名の聴衆の中水平社宣伝演説会が行われ、芝村水平社が結成され、翌年6月7日に夏季大会を行っている。解放令の出た「足洗い日」以降も周囲から同村への差別は続いていた。大正15年(1926年)4月24日に芝村水平社はカフェーで酔った相客の差別的言辞を糾弾し、警察の介入で円満解決している。その翌日には東亜キネマ甲陽撮影所員がフットボールをしていたところに芝村の青年一団が割り込んできたところ、青年2、3名が俳優たちに頬を引っ叩かれた挙句「芝村のものなら返してしまへ」と差別的言辞を弄したとして、阪急沿線甲陽公園内花見の雑踏中、水平社員二十数名と甲陽撮影所員二十数名が棍棒を振るっての大乱闘を引き起こし警察の介入を招き、代表者らの会談の結果、双方に誤解があったとして無条件解決を告げている。更に同年9月30日には明石市の某吏員採用試験で署長から「君は芝村小学校の出身か」と前提してあたかも水平社員なるが故に採用しかねるとの意味をもらし差別的言辞を弄したとして、三十名余が大挙して署長の弁明を求めんと大挙して押し寄せようとしたのを委員が宥め、代表者として松村順信氏が明石に出張して交渉にあたった。昭和5年(1930年)には芝村に新たに社民党支部を設け、社民党支持の下に武庫郡を統一した水平社兵庫県支部分会を創立することになった。芝村は非常に狭小な自治体であった。耕地も大正11年に22町5反(22.3ha)だったのが昭和5年で22町1反で殆ど変わらず、人口も大正4年に戸数373・現住3976・本籍2899なのが昭和5年に戸数535・現住2884・本籍3367と、本籍人口は伸びを示すものの村内の人口は限界に達していた。西宮市が市政施行する計画を出した際には、同村は合併を望んだ。大正12年(1923年)10月26日の村会ではと決議している。だが大正14年(1925年)4月1日 西宮は単独で市政施行したため、この時には編入されなかった。芝村はその後昭和2年(1927年)に今津町・精道村・大社村・鳴尾村・瓦木村・甲東村と共に西宮都市計画区域に含まれた。西宮市に編入されたのは昭和8年(1933年)4月1日の事である。こうして芝村は西宮市の大字なしの区域となった。『国勢調査報告 昭和5年 第4巻 府縣編 兵庫縣』p294によれば、芝村は世帯数535、人口総数2874である。被差別部落の調査報告書『全国部落調査』(兵庫県 昭和10年1月現在)によれば、西宮市芝の芝地区は「戸数844、人口4467、主業は農業、行商、副業は日雇労働、生活程度は中」である。農産物は、米、麦を主とし、葡萄、蓮根、鶯豆等を出す。『大日本篤農家名鑑』によれば芝村の篤農家は、「岡田善太郎、花岡京知賀」などである。商業は特記すべきことはない。工業は草履、草鞋製作等あり。
出典:wikipedia
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