『切腹』(せっぷく)は、1962年の日本映画。昭和37年度芸術祭参加作品。滝口康彦の小説『異聞浪人記』を、松竹の小林正樹が演出した作品である。社会派映画を監督してきた小林正樹が、初めて演出した時代劇映画である。武家社会の虚飾と武士道の残酷性などの要素をふんだんに取り入れた、かつて日本人が尊重していたサムライ精神へのアンチテーゼがこめられた作品である。1963年に第16回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞、第13回毎日映画コンクールでは日本映画大賞・音楽賞・美術賞・録音賞を受賞した。また、ブルーリボン賞では橋本忍が脚本賞、仲代達矢が主演男優賞を受賞した。さらに『キネマ旬報』においてはその年のベスト3に入賞した。1630年(寛永7年)5月13日、井伊家の江戸屋敷を安芸広島福島家元家臣、津雲半四郎と名乗る老浪人が訪ねてきた。半四郎は井伊家の家老である斎藤勘解由に「仕官もままならず生活も苦しいので、このまま生き恥を晒すよりは武士らしく、潔く切腹したい。ついては屋敷の庭先を借りたい」と申し出た。これは当時、江戸市中に満ち溢れた食い詰め浪人によって横行していたゆすりの手法であった。このような浪人が訪れるようになった原因は、ある藩で切腹志願の浪人の覚悟を認められ仕官が適ったという前例があったからであり、それがうわさとなり他の浪人達も同じ手を使って職を求めてくるようになったという経緯がある。当然諸藩はこれらの浪人を皆召し抱えることは出来ない。以後処置に困り、切腹志願者に対しては職を与えるのではなく表向き武士の覚悟を評価するという名目で褒賞として金銭を渡すことで引き取ってもらっていた。藩は実際に切腹する気はないことは十分承知していたが、武士の情けを示したのである。しかしながらこのような浪人の出現がたび重なり藩としても対処に苦難するようになった。温情を掛けることが結果として、切腹志願の浪人を招きよせるという構図が出来上がってしまったのである。勘解由はこの悪循環を断つべく、先日、同じように申し出てきた千々岩求女(ぢぢいわもとめ)という若い浪人を庭先で本当に切腹させるという挙に出た。ただし世間の倫理的批判を躱すために切腹志願者に対して、礼を尽くした対応をする必要があると考え、求女を入浴させ、衣服まで与えた。その際求女に対し、一旦仕官が適いそうなそぶりをし希望を抱かせ、そのあと切腹に至らせるという念の云った陰険さを示した。切腹に際し求女はいったん家に帰り戻り切腹することを申し出たが、勘解由はそれを逃げ口実と解し許さず直ちに切腹を命じた。実は求女には病気の妻子がおり、最後の別れを告げようとしていたのである。ここに至っては求女は武士の意地を通すために切腹する覚悟を決めた。だがもともと切腹する心積もり気はなかったので、腹を召す脇差を準備していなかった。千々岩求女は武士の魂である刀でさえ質草に出さねばならぬほど困窮し、携えていたのは竹光であった。しかしながら勘解由はあえて冷酷に竹光での詰め腹を切らせたのである。だがこの判断は世間からの倫理的な批判を招きかねない危険な処置でもあり、部下からも諌められたが耳を貸さずあえて断行してしまった。結果としてこの判断の誤りが事を複雑にこじらせる原因となった。切れぬ竹光を腹に突き悶え苦しむ求女に介錯人の沢潟彦九郎は無慈悲にも首を落とす時間を故意に遅らせ死に至るまで壮絶な苦痛を与えさせた。勘解由の意を汲んで、藩士においてサディスティックな心理を共有する雰囲気が醸成されてしまったのである。だが、そのことに勘解由は良心の呵責を感じ、自分がした酷な判断を多少なりとも悔いていた。それゆえに今回は「勇武の家風できこえた井伊家はゆすりたかりに屈することはない」からと、そのいきさつを語り聞かせて思いとどまらせようとした。だが半四郎は動じず、千々岩求女の同類では決してなく本当に腹を切る覚悟であると決意のほどを述べた。こちらの温情を受け入れない頑なな態度に勘解由は腹を立て、同じ過ちを繰り返すことになることを知りながら配下の者に切腹の準備を命じた。実は半四郎は求女の育ての親でありかつ娘の婿であり、求女が冷酷にも詰め腹を切らされたことに遺恨を持っていたのである。半四朗にとって求女の帰宅の嘆願を拒絶したことは、勘解由がその場では事情を知る由もなかったため致し方なくもあると考えたが、竹光での切腹の強要については断じて許すことのできないものであった。いざ、切腹の時となり、半四郎は介錯人に井伊家中の沢潟彦九郎、矢崎隼人、川辺右馬介を一人づつ名指しで希望した。しかしその三名は奇怪なことに揃って病欠であった。介錯は誰か他の者で事を早々に片づけたい勘解由に、半四郎は、悪事を犯した罪人でない自身が請うた切腹である以上、介錯を指名するに道理有りとして拒否する。これに勘解由は異議を唱えられず、近しい配下を病欠三名の究明に走らせた。それを見越したうえで半四郎は勘解由らの知らなかった求女の事実と衝撃的な内容を語る。三名は求女を死に追いやった者たちであり、それを知った剣の達人の半四郎によって復讐として髷を切り落とされていたのであった。武士にとって不覚にも髷を切られるのは万死に値し死を以て恥を雪がねばならないが、卑劣にも三名は命を惜しみ髷が生え揃うまで仮病を偽り出仕しないつもりであった。その経緯を知ると勘解由は井伊家の恥が世間に広まることを恐れ、部下に半四郎を取りこめ斬り捨てるように命じた。情け容赦もなく浪人の求女を竹光で切腹させ、かつ家臣が不覚にも髷を落とされたことが世間に知られれば、譜代といえども幕府よりおとがめを受けずにはいられないことを勘解由は知っていたからである。しかしながら半四郎は剣の達人であり、返り討ちに遭い多数の死傷者を出すに至った。結局半四郎は土壇場で切腹し鉄砲で討ち死にしたが、上記の病欠の三名については、沢潟は切腹して果て、他の二人は勘解由によって拝死を受け、返り討ちによる傷者は手厚い治療を受けた。そして公儀には半四郎は見事切腹したとし、死者はすべてが病死として報告された。管理職の勘解由にとって最優先すべきことは組織(藩)の存続であり、半四郎が笑った通り武士道は建前に過ぎなかったのである。だが勘解由の処置は結果的に適切で、井伊家の名誉は守られ、武勇は以前にもまして江戸中に響き、老中よりも賞讃の言葉を賜ったのであった。小姓:天津七三郎、田中謙三、中原伸、池田恒夫、宮城稔、門田高明、山本一郎、高杉玄、西田智、小宮山鉄朗、成田舟一郎、春日昇、倉新八、林健二、林章太郎、片岡市女蔵、小沢文也、竹本幸之佑
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