日本における喫茶店の歴史日本にコーヒーが伝来したのは江戸時代徳川綱吉の頃で、長崎の出島においてオランダ人に振舞われたのが最初であると考えられている。大田南畝の『瓊浦又綴』には「焦げ臭くして味ふるに堪えず」とあり、日本人の味覚には合わず受け入れられなかったことが記されている。その後、黒船来航と共に西洋文化が流入し長崎、函館、横浜などの開港地を中心として西洋料理店が開店するようになり、そのメニューの一部としてコーヒーが一般庶民の目に触れるようになった。慶応2年(1866年)に輸入関税が決定され正式にコーヒーが輸入された1877年(明治10年)頃になるとコーヒーを商品として取り扱う地盤が出来上がり、下岡蓮杖が浅草寺境内に開設した「油絵茶屋」(1876年)をはじめ神戸元町の「放香堂」(1874年(明治7年)開店-創業は天保年間・現在も神戸市中央区元町通りに現存)、東京日本橋の「洗愁亭」(1886年(明治19年)開店)などの店でコーヒーが振舞われた。現代に見られるような本格的な喫茶店としての形態を初めて持ったのは1888年(明治21年)に開店した「可否茶館」である。勤めていた外務省を辞めた鄭永慶が、現在の台東区上野に開店した可否茶館は現代の複合喫茶の様相でトランプやビリヤードなどの娯楽品、国内外の新聞や書籍、化粧室やシャワー室などが備えられていた。鄭は「コーヒーを飲みながら知識を吸収し、文化交流をする場」として広めようとしたが経営は振るわず1892年(明治25年)にその幕を下ろし、鄭はアメリカ合衆国に去った。それからしばらく経った1911年(明治44年)、画家の松山省三、平岡権八郎、小山内薫がパリのカフェをイメージして4月に開店した「カフェー・プランタン」をはじめ、水野龍の「カフェー・パウリスタ」、築地精養軒の「カフェー・ライオン」など銀座にカフェーと称する店が相次いで誕生する。それぞれの店は独自色を打ち出し、カフェー・プランタンは「初の会員制カフェ」として、カフェー・パウリスタは「初の庶民喫茶店」「初のチェーン店舗型喫茶店」として、カフェー・ライオンは「初のメイド喫茶」として人気を博した。また、この頃、暖めた牛乳を提供する「ミルクホール」も登場し、学生などに人気を博した。昭和に入ると「飲食を提供しつつ(女給の)サービスを主体にした店」と、「あくまでコーヒーや軽食を主体とした店」への分化が進む。前者はそのまま「カフェー」または「特殊喫茶」「特殊飲食店」としてバーやキャバレーのような形で次第に風俗的意味合いを持つようになった。1929年(昭和4年)に「<カフェ><バー>等取締要項」が、1933年(昭和8年)に「特殊飲食店取締規則」が出され規制の対象となった。一方後者は「純喫茶」「喫茶店」と呼称されるようになり、やがて外来する店舗も含んだ「カフェ」として発展していくこととなった。1933年(昭和8年)当時は、特殊飲食店が喫茶店の2倍を数えたものの、一般庶民にコーヒーが浸透しはじめ、1935年(昭和10年)には東京市だけで10,000店舗を数えるなど順調に増え続けサービスや提供形態の多様化が進んだ。多様化は地域の特性を育み、例えば銀座は高級感を売りに出した店舗が特徴として知られるようになり神田は容姿端麗な女性給仕を揃えた学生を対象としたサービスを展開、神保町は落ち着いた雰囲気で本を読みながら過ごすスタイルが定着した。戦前の喫茶店、カフェーや女給の姿は永井荷風や谷崎潤一郎の『痴人の愛』、広津和郎の『女給』、龍膽寺雄の『甃路スナップ 夜中から朝まで』、太宰治、林芙美子の『放浪記』、佐多稲子の『レストラン洛陽』、平林たい子の『砂漠の花』、宇野千代の『脂粉の顔』などの作品で様々に描き出されている。しかし日中戦争が勃発し、戦時体制が敷かれるようになるとコーヒーは贅沢品に指定され、1938年(昭和13年)には輸入制限が始まった。第二次世界大戦がはじまると完全に輸入が禁止され、供給源を断たれた喫茶店は次々と閉店していった。そのような中でも大豆や百合根を原料とした代用コーヒーを用いて細々と経営を続ける店も見られた。また、こうした事情を契機として、喫茶店から別の業種へ転向した店も多く見られ、「千疋屋」「ウエスト」「コロンバン」「中村屋」などはその転向が成功した代表的な存在である。戦後の荒廃した日本で喫茶店が復活を見るのは1947年(昭和22年)頃からで、戦時下の代用コーヒーや米軍の放出品を用いたGIコーヒーなどが提供された。一般にコーヒーが再び広まるのは、輸入が再開された1950年(昭和25年)以降となる。こうした輸入豆は、その需要のほとんどが喫茶店であったと見られ、オリハラコーヒーの代表である折原烈男は当時を振返り、「輸入が再開されたコーヒーはその9割以上が喫茶店で消費されていた。そのほとんどは個人経営の喫茶店だった」と語っている。世の中が平静を取り戻すにつれ、そのときの世情を取り込んだ様々な喫茶店が興亡した。1960年(昭和35年)頃は個人経営の店が主流となり、店主のこだわりが店の個性として色濃く反映された喫茶店が人気を獲得した。特に「音楽系喫茶」と呼ばれる喫茶店は、美輪明宏や金子由香利などを輩出した「銀巴里」に代表されるシャンソン喫茶、「ACB」「メグ」「灯」のようなジャズやロックの音楽演奏がサービスの主となったジャズ喫茶、歌声喫茶、ロック喫茶、後年のディスコやクラブなどに多大な影響を与えたロカビリー喫茶、ゴーゴー喫茶など多数の業態の店が誕生している。LPレコードなど金銭的にも個人レベルでは入手が困難であった時代であり、喫茶店にはこうした音楽鑑賞を趣味とした庶民たちへの場所貸しといった要素が強く出ていた。そのため、住宅環境の改善や音楽配信媒体の低価格化が進むにつれ、こうした業態の喫茶店の需要は無くなっていった。1970年(昭和45年)頃、名古屋で漫画喫茶という業態の喫茶店が誕生する。雑誌やコミックを多数取り揃え自由に読ませる形式が広く受け入れられ、ブームを巻き起こした。当初、漫画喫茶はフルサービスの店が主流で入退店時刻を店側が管理し規定時間を超えた場合はもう1品注文して貰うといった方式が一般的であった。さらに1995年(平成7年)以降のインターネットの普及に伴い、こうした店は漫画の他、インターネットのサービスも提供するようになる。全国にチェーン展開されるとパーソナル化が進行し、現在に見られる簡易な間仕切りが施されたセルフサービスタイプの店舗が一般化した。1970年(昭和45年)代以降は、コーヒーを飲むという行為がより大勢の人に浸透し、「珈琲館」や「カフェ・ド・コロラド」といった珈琲専門店も登場した。やがて時代の流れが速くなり、「喫茶店でのんびり」といった行為が見られなくなると、細切れに空いた時間を活用したいという客のニーズに合わせた、従来の喫茶店に変わるセルフサービスのカフェが主流となった。そうしたカフェの文化概念を日本で確立し定着させたのは、鳥羽博道が1962年(昭和37年)に設立した「ドトールコーヒー」である。セルフカフェが定着していた日本に、1996年(平成8年)に進出してきた「スターバックス」は、カフェ ラテに代表される「ミルク系コーヒー」いわゆる「シアトル系コーヒー」をもたらした。スターバックスのメニューや提案は、特に女性に支持された。スターバックスは、日本に上陸して僅か10年で業界最大手であったドトールコーヒーの売り上げを上回り、一躍業界最大手に躍り出たことでも知られる。続いて日本に進出して来た「タリーズコーヒー」「シアトルズベスト」と合わせて、「シアトル御三家」とも呼ばれる。この様に躍進的な動きはあるものの近年の喫茶店業界全体を見ると後退の一途であり、1981年(昭和56年)には154,630店を数えた喫茶店は2006年(平成18年)には81,042店と約半減している。上記表は、全日本コーヒー協会が発表した『コーヒーの需要動向に関する基本調査』において、1週間あたりのコーヒー飲用杯数を飲用場所別に集計したもので、全体としての総飲用量が増加傾向にあるにも関わらず、喫茶店での飲用量は下降している。景気の冷え込みによる外食産業全体の不振の他、コンビニエンスストアやファーストフード店の競合など、外食産業の多様化が原因とされ、特にコンビニを中心として展開されるチルドカップコーヒーは、年々その市場規模を拡大している。
出典:wikipedia
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