大川線(おおかわせん)は、かつて福岡県三潴郡筑邦町(営業当時は大善寺町、現在の久留米市の一部)の大善寺駅から福岡県大川市(営業当時は大川町)の西鉄大川駅までの間を結んでいた西日本鉄道(西鉄)の鉄道路線である。大川線のほか、もともと大川線と同一路線であったのが分断されたことにより派生した上久留米線(かみくるめせん)についても本記事で扱う。(すべて当該区間の休止直前のもの)大川鉄道の手により、久留米市と城島町(現在の久留米市の一部)、大川市を結ぶ軽便鉄道として建設された。旅客のほか、城島町で生産される酒や大川市で生産される家具、畳表などの貨物輸送が目的であった。久留米市内の起点は国鉄久留米駅に近い場所にある上久留米駅であった。久留米まで開通していた九州鉄道ではさらに大牟田・熊本への延伸を計画していたが出願は却下されてしまった。そこで大川-大牟田間の免許を取得していた大川鉄道を支配下におさめる方針に決定し1927年には必要な株式を取得し、大川鉄道は九州鉄道の傘下となった。しかし九州鉄道は1932年12月28日久留米-津福間を開通させたものの経営不振にくわえて1933年に役員が商法違反と背任の疑いで逮捕されるという「九鉄事件」の影響で大牟田延伸はしばらく凍結されてしまう。ようやく1936年3月の株主総会において経営立て直しの為には大牟田延伸が不可欠という意見により大牟田延伸と大川鉄道買収が決議され、1937年6月に大川鉄道は買収された。なお大川鉄道は1925年より乗合自動車業を始めており合併時点で43.8Kmの路線を運行しておりこれらも九州鉄道に移管された。そして1937年10月1日大善寺-柳河間が開通し併せて旧大川鉄道の津福-大善寺間も1435mmへ改軌され電車が走るようになり福岡-柳河間が直通するようになった。これにあわせ九州鉄道20形電車が投入された。残された上久留米 - 津福間と大善寺 - 榎津(のち西鉄大川に改称)間は前者が上久留米線、後者が榎津線(1949年より大川線)となった。西日本鉄道の路線となった後、上久留米線は沿線に日華ゴムや日本ゴムなどの軍需工場があり工員輸送の必要があったがそれもなくなり1948年に休止(1951年に廃止)された。大川線は戦時中からバス転換を検討していた程の輸送量であり、1950年には年間2000万円の赤字を出していた。建設省が進めていた筑後川の河川改修工事において障害になるため1951年に撤去されることになったが、地元の猛反対に遭い、廃止ではなく将来の復活を前提とした休止扱いとした。しかし実際には復活することなく1966年に正式に廃止された。(すべて当該区間の休止直前のもの)(名称は休止直前のもの)営業開始当初から蒸気機関車、客車(木造2軸)、貨車を保有したほか、昭和初期には気動車(ガソリンカー)も保有していた。しかし気動車は燃料統制の影響により廃車または転出し、休止の時点では蒸気機関車が木造2軸客車を牽引する運行形態に戻っていた。エアブレーキはなく手動ブレーキのみであった。久留米市内の三潴小学校前にある大川線廃線跡を利用した遊歩道上に4号蒸気機関車が保存されている。番号は「5」になっている。旧三潴町内の早津崎駅跡付近にある早津崎交差点から旧城島町中心部の城島新町駅跡付近までの間の区間は遊歩道として整備されており、敷石が線路のような模様に敷かれている。その先はほとんど道路の一部となっているが、福岡県道47号久留米城島大川線の新橋水門(大川市向島)付近に当時の橋脚が4本残っている。
出典:wikipedia
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