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佐々木多門

佐々木 多門(ささき たもん、慶応2年(1866年)5月17日 - 昭和12年(1937年)12月3日は、日本の銀行家・経済学者。高橋是清と床次竹二郎の私設顧問を務める一方で、The Times東京通信員(1921年 - 1937年)として数多くの論説を執筆した。第二高等学校(現・東北大学)で教鞭をとっていた際、高橋是清にその経済に関する専門性と英語力を認められ、日本銀行に招き入れられる。高橋是清が第1次山本内閣で蔵相に就任してからは、その後およそ23年間にわたって私設顧問を務める。また、日本人として初めて海外主要紙の通信員(The Times東京通信員)となり、日本の政治、経済に関する論説記事を世界へ発信した。特に満州事変以降、国際世論が日本に対して厳しい論調を強めていく中、紙面において切実な日本の立場を主張した。また、日増しに勢いを強めていく軍国主義勢力に対しては痛烈に批判を浴びせ、国内の良識人の意見を代弁した。当時、日本人の書いた記事が海外主要紙に掲載されることは極めて稀なことであったが、多門はThe Timesに自分のコラムを構え、実に10年以上の長きにわたって日本の実情を世界に伝えた。その英文は、英国人文学者をして「秀逸」と言わしめた。1881年(明治14年)、大学予備門への進学を目指して上京した多門は、薩摩人のいじめと津軽弁コンプレックスに遭い、当時通っていた予備校・共立学校(校長・高橋是清)を辞めて、いったん帰郷した。英気を養い再び上京した多門は、外国人居留地のあった築地に通いつめて独学で英語を習得。その際にカナダ・メソジスト教会の宣教師たちと親交をもち、1884年(明治17年)、彼らの運営する東洋英和学校(現・麻布高校)に一期生として入学した。そこで抜群の成績を修めた多門は、1888年(明治21年)、東京帝国大学法科大学政治学科に進学し、金井延に師事して経済学を修めた。帝大時代には東洋英和学校の教壇に立ち、そこで内村鑑三の面識を得て意見交換する仲となった。また、高田畊安と大西祝が創設した“帝大基督教青年会”の草創期のメンバーに名を連ね、キリスト教の活動に奔走した。帝大卒業後は、同志社(1892年)、奈良県尋常中学校(1894年)で教壇に立ち、1897年(明治30年)には文部省の肝いりで第二高等学校(現・東北大学)移った。第二高等学校の教え子には、吉野作造、金田一京助、結城豊太郎等がいる。特に大正デモクラシーの立役者・吉野は、進路選択の際に多門の影響を強く受けている。1904年(明治37年)、新進気鋭の経済学者として知られるようになった多門は、高橋是清に経済に関する知識と英語力を買われて日本銀行に特別入行した。日銀では調査統計機関の最高権威、調査局に所属し、そこで「英語の総大将」として活躍。欧米の日本経済に対する偏見を払しょくするために日銀が請け負ったプロジェクト『The Recent Economic Development of Japan』の編纂にあたっては、プロジェクト・リーダーとして英文を執筆した。同書は日本経済の全てを網羅した大作として世界中で好評を博し、英国紙The Timesは、「日本経済に関する最も有益且つ百科事典のような書物」(1916年2月18日付)と賛辞をおくった。多門は高橋是清と床次竹二郎の私設顧問にも就任し、「陰の是清」、「床次の懐刀」とも呼ばれた。両者から絶大な信頼を寄せられた多門だが、不仲の大物政治家の間に挟まれて、その関係を調整するのに苦労した。1920年代初頭からは、日本人として初めて海外主要紙の通信員となり、The Timesに日本の政治、経済に関する論説記事を執筆した。当時、タイムスに執筆を依頼されるということは、世界でも指折りの文筆家である証だった。一番の語り草は満州事変後に書いた論説「THE JAPANESE VIEW/VITAL CLAIMS IN MANCHURIA/A PLEA FOR PATIENCE」(1932年12月1日付)。切実な日本の立場を主張したその記事は、連盟の調査団長リットンが連盟主催の晩餐会で話題にするなど、各国議会でも取り上げられた。また、他の論説では国内の国家主義、軍国主義勢力に対しては痛烈に批判を浴びせ、その結果、軍関係者が家に貼り付くようになった。

出典:wikipedia

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