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カマラ (プロレスラー)

カマラ(Kamala)またはキマラ(Kimala)のリングネームで知られるジェームズ・ハリス(James Harris、1950年5月28日 - )は、アフリカ系アメリカ人の元プロレスラー。アメリカ合衆国ミシシッピ州出身(ギミック上の設定ではウガンダ出身)。1980年代から1990年代にかけて、アフリカの部族ギミックの怪奇派レスラーとして、CWA、WCCW、MSWA、NWA、AWA、WWF、USWA、WCWなどアメリカの各団体で活躍した。日本にもジャイアント・キマラ(Giant Kimala)の名義で度々来日しており、全日本プロレスの常連外国人だったベンジャミン・ピーコックのギミックのオリジナル版として知られている。プロレスラーになる以前はフロリダ州で配管工などの仕事に就いていた。1975年にミシガン州に移住し、そこでボボ・ブラジルと出会ったことを機にプロレス入りを決意。ブラジルの友人のプロレスラー、タイニー・ティム・ハンプトンのトレーニングを受け、1978年に地元ミシシッピ州やルイジアナ州、オクラホマ州などミッドサウス一帯をテリトリーとするNWAのトライステート地区でデビューする。当時はシュガー・ベア・ハリス("Sugar Bear Harris")などのリングネームを名乗り、大型の黒人ヒールとして売り出された。1980年4月25日にはアラバマ地区でオレイ・アンダーソンからNWAサウスイースタン・ヘビー級王座を奪取している。同年下期からはビッグ・ジム・ハリス("Big Jim Harris")の名前でドイツやイギリスなど欧州に定着。1980年9月から10月にかけてハノーバーで開催されたトーナメントでは、日本から遠征していたキム・ドクや大仁田厚とも対戦している。当時の日本のプロレス専門誌では「まだ見ぬヨーロッパの強豪」として報じられたこともあった。1982年にアメリカに戻り、テネシー州メンフィスのCWAにおいて、ジェリー・ローラーのアイデアでウガンダの未開部族をモチーフとした新ギミック、カマラ("Kamala")に変身する。顔とボディに呪術的なペインティングを施し、槍と楯を手に巨大な木彫の仮面を被って入場、素足に腰布というスタイルで試合を行い、ジャングルの奥地で彼を「発見」したという謎の覆面探検家を通訳兼任のマネージャーとして帯同するなど、奇抜なキャラクターと演出で一躍センセーショナルな存在となった。同年6月7日にはローラーを破り、CWAのフラッグシップ・タイトルだったAWA南部ヘビー級王座を奪取している。以降、テキサス州ダラス地区のWCCW(フリッツ・フォン・エリック主宰)や古巣でもあるミッドサウス・エリアのMSWA(ビル・ワット主宰)など、各地の主要テリトリーを転戦。WCCWではフォン・エリック兄弟(ケビン、デビッド、ケリー)、ブルーザー・ブロディ、ザ・グレート・カブキ、テリー・ゴディらと激闘を繰り広げた。1983年10月3日にはテキサス州フォートワースにて、ハーリー・レイスのNWA世界ヘビー級王座に挑戦している。1984年7月からはWWFに初登場。フレッド・ブラッシーを覆面探検家キム・チーとのダブル・マネージャーに迎え、アンドレ・ザ・ジャイアントとの抗争アングルが組まれるが、待遇面の不満から短期間で離脱している。その後はビンス・マクマホンの全米侵攻に対するNWA&AWA連合軍()の主力メンバーとなり、1985年7月6日に開催されたグレート・アメリカン・バッシュの第1回大会ではマグナムTAのNWA USヘビー級王座に挑戦。AWAゾーンではサージェント・スローターやジェリー・ブラックウェルと抗争し、リック・マーテルが保持していたAWA世界ヘビー級王座にも挑戦した。また、同年8月にはジャイアント・キマラとしてジャパンプロレスに初来日。当時はカブキやロード・ウォリアーズの出現でペイントレスラーが全盛だったこともあり、日本でも注目を集めた。1986年の後半よりWWFと再契約。ザ・ウィザードことキング・イヤウケアをキム・チーとのダブル・マネージャーに、12月26日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてハルク・ホーガンのWWF世界ヘビー級王座に挑戦。1987年5月のサタデー・ナイト・メイン・イベントではジェイク・ロバーツとも対戦し、1988年からはワイルド・サモアン・シカとの野獣コンビで活動した。WWF離脱後の1989年2月には全日本プロレスに来日。1991年の再来日ではキマラ2号ことベンジャミン・ピーコックとタッグを組み、アブドーラ・ザ・ブッチャーを交えたアフリカ軍団としても猛威をふるった。1991年下期からはメンフィスのUSWAにて、因縁のジェリー・ローラーを相手に統一世界王座を巡る抗争を展開。翌1992年4月には、当時USWAと接点を持っていたW★INGプロモーションに来日、ジプシー・ジョーとも対戦した。同年下期よりWWFに復帰し、ジ・アンダーテイカーとの怪奇派同士の抗争をスタート。11月25日開催のサバイバー・シリーズでは棺桶マッチによる決着戦が行われた。1993年、マネージャーのキム・チーとの仲間割れを機にベビーフェイスに転向。聖職者としてWWFに復帰したスリックを新しいマネージャーに迎え、ショーン・マイケルズ、パパ・シャンゴ、ヨコズナ、バンバン・ビガロらヒール勢を相手に異色のベビーフェイスとして活躍した。その後、WWFを離れトラック・ドライバーをしていたが、同時期にWCWに移籍していたハルク・ホーガンの招きで1995年よりWCWと契約。再びヒールに戻り、ケビン・サリバン率いるダンジョン・オブ・ドゥームに加入。ザ・シャークやゾディアックらと共闘し、MSWAからWWFを通しての宿敵ジム・ドゥガンとの抗争を再開。同年9月17日のPPV "Fall Brawl" ではダンジョン・オブ・ドゥームのメンバーとしてメインイベントの時間差金網デスマッチ「ウォー・ゲーム」に出場、ハルカマニアックス(ホーガン、ランディ・サベージ、スティング、レックス・ルガー)と対戦するが、この試合を最後にWCWを離脱した。以降はセミリタイアしてトラック・ドライバーを本業とする傍ら、各地のインディー団体にスポット参戦した。2001年4月1日にはレッスルマニアX-Sevenのギミック・バトルロイヤルに出場。1992年の参戦時と同様、キム・チーとハービー・ウィップルマンをマネージャーに従えて久々のWWE登場を果たした。この大会では、当時WWEのコミッショナー役だったウィリアム・リーガルの執務室に闖入して部屋をメチャクチャにするなどバックステージのスキットでも活躍している。2004年7月26日にはRAWのディーヴァ・サーチにも出演した。2005年にWWEとレジェンド契約を結び、8月11日のスマックダウンでランディ・オートンと対戦。11月1日のタブー・チューズデイのユージン&ジミー・スヌーカ対ロブ・コンウェイ&タイソン・トムコ戦にも登場し、試合後にトムコをウガンダン・スプラッシュで圧殺している。2006年6月26日のRAWでは、前日のヴェンジェンスで邂逅した同タイプの後継者ともいえるウマガとの試合が組まれた。その後もインディー団体にレジェンドとして時折参戦する一方、オールドタイマーによるリユニオン・イベントにも出場し、かつてのライバルたちとエキシビション・マッチを行った。2008年6月8日にはTNAのPPV " に登場。リング上で行われたジェイ・リーサルとソウ・カル・バルのウェディング・セレモニー(ランディ・サベージとエリザベスのパロディ)に、ジェイク・ロバーツ、ココ・B・ウェア、ジョージ・スティールと共に出席して式をぶち壊しにした。2011年11月12日、糖尿病の合併症で左足を切断することとなり、現役を引退。2012年4月には右足の切断手術が行われた。日本ではキワモノ的なイメージばかりが喧伝されレスラーとして正当に評価されることはなかったが、巨体に似合わぬ敏捷性の持ち主であり、トップロープからのダイビング・ボディ・プレスをはじめ、(決して見栄えは良くないものの)リープ・フロッグなどもこなした。また、技ではないが自らの巨大な腹を太鼓に見立てて両手でポンポンと叩く仕草も彼のトレードマークで、後にザ・ロックがホーガンの前で真似をしたことがある。特記以外はカマラ(キマラ)名義での戴冠。

出典:wikipedia

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