グラスゴー (HMS Glasgow) は、イギリス海軍のタウン級の1隻。艦名はスコットランド南西部の都市グラスゴーに因む。この名を持つ艦としては6隻目にあたる。グラスゴーは1909年3月25日にゴーヴァンのフェアフィールド・シップビルディング・アンド・エンジニアリング・カンパニーで起工した。1909年9月30日に進水し、1910年9月に就役した。第一次世界大戦の勃発時、グラスゴーは南アフリカ沿岸で活動していた。1914年8月16日にドイツ商船カタリナ ("SS Catherina") を拿捕する。1914年11月1日、チリ沖で発生したコロネル沖海戦に参加。海戦ではグラスゴーと装甲巡洋艦グッド・ホープ ("HMS Good Hope") 、モンマス ("HMS Monmouth")、仮装巡洋艦オトラントが、マクシミリアン・フォン・シュペー提督率いるドイツの装甲巡洋艦シャルンホルスト ("SMS Scharnhorst") 、グナイゼナウ ("SMS Gneisenau")、巡洋艦ライプツィヒ、ドレスデン、ニュルンベルクと交戦した。グラスゴーはライプツィヒとドレスデンからの砲撃で5発の命中弾を受けた。ただし、その内3発は爆発しなかった。イギリス軍はモンマスとグッド・ホープが撃沈され敗北した。逃走に成功したグラスゴーは11月6日にはマゼラン海峡東端に到達し、まず修理のためリオデジャネイロに入港した。それからアブロルホス礁 (Abrolhos) で巡洋戦艦インヴィンシブル ("HMS Invincible") 、インフレキシブル ("HMS Inflexible") などと合流した。11月28日にイギリス艦隊はアブロルホス礁から出航し、フォークランド諸島へと向かった。艦隊は12月7日にフォークランド諸島に到着。その翌日、シュペー艦隊がフォークランド諸島に現れフォークランド沖海戦が発生した。フォークランド攻撃を試みたドイツ艦隊は戦艦カノーパスからの砲撃を受けると攻撃を断念して逃走を開始した。フォークランドからは最初にグラスゴーが出撃し、続いて2隻の巡洋戦艦と装甲巡洋艦ケント、カーナヴォン、コーンウォールが出撃した。イギリスの巡洋戦艦に追いつかれるとライプツィヒ、ドレスデン、ニュルンベルクの3隻がシャルンホルストとグナイゼナウから離れて逃走を始めた。それをグラスゴーはケントとコーンウォールと共に追跡した。1時間の追跡の後グラスゴーはライプツィヒに追いつき戦闘を開始した。続いてコーンウォールも戦闘に加わり、ライプツィヒは撃沈された。ライプツィヒとの交戦でグラスゴーは2発の命中弾を受け、死者1名負傷者4名を出した。海戦はイギリスの勝利に終わり、ドイツ側はドレスデン以外すべて撃沈された。逃走に成功したドレスデンをイギリス軍は捜索した。1915年3月7日にチリ沖でケントがドレスデンと遭遇。その報せを受けてグラスゴーはファン・フェルナンデス諸島のマス島 (Más a Tierra) へ向かった。1915年3月14日、グラスゴーはケントおよび仮装巡洋艦オラマと共にカンバーランド湾 (Cumberland Bay) に入り、そこに停泊していたグラスゴーを攻撃した。攻撃を受けたドレスデンは白旗を揚げ、グラスゴーへ士官を派遣。そしてグラスゴーでの交渉中にドレスデンは自沈した。ドレスデン沈没後、グラスゴーの乗組員が溺れているブタを発見した。乗組員はブタを「ティルピッツ "Tirpitz"」と名付け艦のマスコットとして1年間飼育した。その後ティルピッツはポーツマスのホエール島砲術学校で飼育された。グラスゴーは1915年に地中海に配属され、1917年にはアドリア海の第8軽巡洋艦戦隊に配属された。戦後グラスゴーは短期間機関員の訓練艦任務に従事し、1922年に退役、1927年4月29日にスクラップとしてモーカムで売却された。カナダのアルバータ州にあるグラスゴー山は本艦に因んで命名された。
出典:wikipedia
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