LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

みんなの党

みんなの党(みんなのとう、)は、かつて存在した日本の政党。略称はみんな。渡辺喜美・江田憲司両衆議院議員らが2009年2月に立ち上げた「国民運動体 日本の夜明け」を前身として、同年8月8日に自由民主党・民主党を離党した3議員を加えて結成された。なお「日本の夜明け」はその後も2010年頃まで別個の組織として活動していたが、現在は活動を停止し公式サイトも削除されている。党名候補として渡辺は「絆」を提案したが、江田憲司は「みんなの党」を提案した。これは、サザンオールスターズの楽曲「みんなのうたを参考にしたとされる。結局、当時の党所属国会議員5人による3対2の多数決で政党名は「みんなの党」に決定した。江田・浅尾慶一郎・広津素子が「みんなの党」、渡辺・山内康一が「絆」を主張した。結党の精神として脱官僚・地域主権・生活重視を掲げた。また基本政策として小さな政府の構築・地域主権型道州制への移行・日米同盟を基軸とした戦略的外交などを主張している。なお選挙公約や政策課題のことを「アジェンダ」と呼んでおり、他の政党や政治団体とは党の「アジェンダ」が一致する範囲で連携・協力するとしている。自民・民主両党から距離を置く第三極の政党として一定の注目を集め、2013年の第23回参院選直後には衆参両院に合計36名の国会議員を擁する中堅政党にまで成長した。だが次第に第2次安倍内閣への接近姿勢を強める渡辺代表と、野党再編による自民党との対決路線を志向する江田幹事長との間で対立が生じ、江田派の16名が集団離党し結いの党を結成。その後、渡辺は政治資金問題で代表を引責辞任するものの引き継いで代表となった浅尾慶一郎とも対立。それと並行し衆議院が解散。挙党一致体制が作れないまま総選挙に入ることになるため、浅尾代表は、2014年11月19日の両院議員総会で解党を決定し、同月28日正式に解党した。渡辺は記者会見で、「官僚依存の自民党、労組依存の民主党とは違い、真の改革ができるのがみんなの党である」と訴え、政界再編の動きを見越して党を立ち上げたことを明らかにした。同党には、渡辺の他、初当選以来無所属で活動してきた江田憲司、自民党から山内康一、広津素子の4人の前衆院議員、民主党から浅尾慶一郎参院議員が参加した。第45回衆議院議員総選挙に向けて13人の公認および2人の推薦、国家公務員10万人削減などの公務員制度改革を柱としたマニフェスト(政権公約)を発表した。比例ブロックでは東北・北関東・東京・南関東・東海・近畿・九州の7ブロックに擁立した(北海道・北陸信越・中国・四国には擁立しなかった)。選挙の結果小選挙区2人・比例3人が当選し、政党要件を維持した。比例区では7ブロックの得票数だけで全11ブロックに擁立した既存政党である社会民主党に迫る得票数を獲得、南関東・北関東ブロックでは日本共産党を上回る得票数を得た。比例近畿ブロックと比例東海ブロックでは、比例単独候補であれば各ブロック1議席で計2議席獲得のはずだったが、小選挙区との重複立候補者の得票率が供託金没収点に満たず、下位の比例単独候補がいなかったため比例当選資格のある候補が存在しなくなり、2議席分は他党に配分された。現職国会議員1人が落選し、新人1人が当選した。2009年9月16日の第172回国会で行われた首班指名では党として鳩山由紀夫に投票している。9月17日に民主党が賄賂罪で実刑判決を受けて上告中の鈴木宗男を外務委員長に選出する内定人事が出た際、外務委員長選出において議長一任の動議に反対した。2009年12月1日、無所属だった川田龍平が入党した。結党当初から「みんなの党は(政界再編の)触媒政党」「政界再編を究極の目標」とし、党の存続にはこだわらない方針であったが、鳩山内閣発足後、「政治とカネ」の問題で躓き支持率を落としつつあった民主党や野党転落後も支持を回復できない自民党の受け皿として徐々に注目されるようになる。2010年2月の毎日新聞の世論調査では公明党の5%を上回る6%を獲得、支持率だけでは「野党第2党」となった。みんなの政治塾・みんなのセミナーを開講。第1期卒業生の中から議員を誕生させる。第22回参議院議員通常選挙に向けて選挙区21人・比例区23人の44人を公認、みんなの党アジェンダ2010成長戦略を発表した。選挙の結果選挙区3人・比例区7人が当選した。選挙での獲得議席数、比例での得票数は公明党を上回り、改選第3党となった。さらには院内交渉団体として、参議院本会議の代表質問権、予算を伴わない法案の参議院への提出、参議院における議院運営委員会理事や予算委員会理事の輩出ができるようになった。2011年1月29日、結党以来初の党大会、みんなの党大会アジェンダ2011を東京都のホテルニューオータニで開催し、参加者を国会議員、地方議員、候補予定者等にしぼり約500名が参加した。オープニングは日章旗に君が代斉唱で始まる。2011年2月9日、2010年参院選後に初めて行われた党首討論において、院内交渉団体の資格を得たことを理由に討論への参加を希望したが、党首の渡辺が国会議員として国家基本政策委員会に所属していないことを理由に参加を拒否された。2012年4月、自民党と所属委員会を交換することで党首の渡辺が国会議員として国家基本政策委員会に所属することに全会派で合意したためで党首討論に参加できるようになった。2011年に行われた統一地方選挙では道府県に103名・政令指定都市に64名を擁立し、道府県は41名・政令指定都市は40名が当選している。神奈川県知事選挙では露木順一を神奈川ネットワーク運動・ネットワーク横浜とともに推薦したが落選。三重県知事選挙では自民党とともに推薦した鈴木英敬が当選した。市区町村では187名を擁立し、市議は85名、区議は51名、町議は6名を当選させている。また、推薦候補の当選者は24名である。その中には大阪維新の会の推薦も含んでいる。第177回国会では、法案を積極的に提出し、29本提出している。予算編成組み換え、東日本大震災の復興、原子力発電に対する国民投票等のエネルギー改革、公務員改革、政治主導改革、日銀改革等を訴えた。衆議院議員選挙制度改革案、一人一票比例代表制(ブロック単位)・定数180減の300・自署式投票方式からチェックシート投票方式への変更等、投票様式の見直し・ネット選挙の解禁(ネット上での選挙活動の解禁、配布物への証紙制度の廃止)選挙費用の適正化(選挙管理委員会によるポスター貼付後の掲示板設置等)・ネット投票(インターネットで投票が可能となるシステムの構築)の実現に向けての検討を発表した。2011年10月29日以降、一人一票実現国民会議の意見広告に、一人一票比例代表制(ブロック単位)が取り上げられた。大阪府知事選挙・大阪市長選挙に、勝手連として組織を挙げて大阪維新の会を応援し、渡辺代表も5回に渡り応援に駆けつけ松井一郎が大阪府知事選挙に、橋下徹が大阪市長選挙に、それぞれ当選をした。その後、大阪維新の会の教育基本条例案に関連した質問主意書を代表の渡辺が提出し、大阪都構想に関連した地方自治法の改正案を、大阪維新の会と共同で作成するなど連携を深めている。また、茨木市議会では統一会派(維新の会・みんなの茨木)を組んでいる。茨木市長選挙に向けて、維新の会とみんなの党の統一候補擁立を目指している。アジェンダ2012・2012年運動方針を発表。衆議院議員総選挙に100名以上の候補の擁立や参議院議員通常選挙・東京都議会議員選挙の準備の加速させている。また、2012年4月8日の茨木市長選挙では大阪維新の会いばらき支部、みんなの党府第9区支部推薦の木本保平が他3人の新人候補を破って当選した。2012年9月11日、大阪維新の会を母体として結成される日本維新の会に合流する国会議員が現れ、上野宏史・桜内文城参議院議員が離党届を、小熊慎司が除籍届をそれぞれ提出した。3人の参議院議員が比例選出国会議員であることからみんなの党は「新比例選出議員が任期半ばを迎える前に離党し、その議席を新たに結成される政党の議席とする行為は、わが党支持者は言うまでもなく、社会一般の倫理観からも容認できない」と批判して議員辞職を勧告した。9月25日、上野・桜内参議院議員の離党届が受理された。だが、離党議員の参議院会派からの離脱を認めると参議院本会議の代表質問権、参議院における議院運営委員会理事や予算委員会理事の輩出などの院内交渉団体資格が無くなるため、離党議員の参議院会派からの離脱は認めておらず離党議員即時辞職による落選候補繰り上げ当選を要求しており、みんなの党と日本維新の会の関係が感情的な対立も入って悪化している。また、予算を伴わない法案の参議院への単独提出は離党議員3人が賛成拒否をすれば不可能となった。2012年9月28日、任期満了に伴う代表選挙を初めて両院議員総会で施行した。他に候補者が出馬せず、全会一致で渡辺喜美が再選した。同年10月16日、杉本和巳が入党した。2012年11月14日の野田佳彦首相の衆議院解散表明以降、第三極の結集をする動きが加速した。みんなの党は日本維新の会とは政調会長同士で政策協定を結び、競合していない選挙区では相互に選挙協力をし、石原慎太郎前都知事が率いる太陽の党(旧たちあがれ日本)とは都知事選挙と都議補選について選挙協力について仮提携をした。後に、日本維新の会が太陽の党と合併し、みんなの党とも合流を呼びかけたが、みんなの党は合流後の日本維新の会がたちあがれ日本色が強くなったことに難色を示した。さらに、当初はみんなの党は「選挙区について関東はみんなの党、関西は日本維新の会で棲み分けをする」ことを想定していたが、日本維新の会がみんなの党がすでに擁立を表明している選挙区でも次々と候補者を擁立したことから態度を硬化させた。最終的に日本維新の会との合流を断念し、競合していない選挙区では相互に選挙協力をするが、競合している28の選挙区では対立することになった。そのため、東京2区・東京5区・東京6区・長野3区ではみんなの党公認候補と日本維新の会公認の候補の得票数の合計では当選した他党公認候補の得票数を上回るにもかかわらず共倒れする結果となった。また、小沢一郎らの国民の生活が第一を中心として結党された日本未来の党については「アジェンダが一致すれば協力する」としていたが、競合している選挙区ではやはり対立することになった。2012年11月16日の衆議院解散(近いうち解散)以降、民主党を除籍された富岡芳忠と、民主党を離党し減税日本の会派に加わっていた無所属の平智之が入党を表明した。党を離れた参議院議員3名(上野宏史・桜内文城・小熊慎司)の衆院選出馬により、真山勇一・藤巻幸夫・山田太郎が、繰り上げ当選した。これで参議院は11名に戻り、予算を伴わない法案の参議院への単独提出を含む院内交渉団体資格を回復した。第46回衆議院議員総選挙に向けて69人の公認および1人の推薦、アジェンダ(政権公約)2012を発表した。日本維新の会とは一部の候補について相互推薦を行った。比例ブロックでは、初めて全ブロックに候補を擁立した。2012年12月16日に投開票され、小選挙区4人・比例14人の合計18人が当選し、選挙前の8議席から倍増した。特に比例代表の得票が伸び、東北・北陸信越・東海・近畿・九州の比例ブロックで初めて議席を獲得し(北海道・中国・四国では議席を獲得出来ず)、北関東・南関東・東京ブロックで議席を増やした。南関東・東京ブロックでは公明党を上回る得票数を得た。前職国会議員2人が落選し、新人12人が当選した。2013年1月23日、民主党を離党した米長晴信が会派に入会し、2月26日に入党した。また、同年3月13日にみどりの風から行田邦子が入党した。2013年5月21日、日本維新の会との協力関係を解消することを発表。ただし、日本維新の会がみんなの党を支援することについては拒否しない考えを示した。関係修復の条件について政調会長の浅尾は最低限でも「太平洋戦争は日本の侵略であることを党として認めること」としているが、維新の会は「歴史の見解に関しては歴史家に任せる」として応じない姿勢を見せている。2013年7月の第23回参議院議員通常選挙では8議席(選挙区4議席、比例区4議席)を獲得し、改選議席数を上回ったものの、比例区の得票数は協力関係を解消した日本維新の会の得票約635万票(得票率11.94%)には及ばず475万票(8.93%)に留まり、また第22回参議院議員通常選挙で獲得した10議席(選挙区3議席、比例区7議席)、比例区の得票数794万票(13.59%)を下回った。選挙区では維新との選挙協力の解消に伴って双方が候補を擁立し、結果茨城県選挙区・千葉県選挙区・東京都選挙区・福岡県選挙区など共倒れとなる選挙区が相次いだ、その一方で神奈川県選挙区・愛知県選挙区では公認候補が維新候補を下して当選し、維新が候補を擁立しなかった宮城県選挙区・埼玉県選挙区では民主党の現職候補者を下すなど善戦。特に宮城県選挙区についてはみんなの党初となる二人区での議席獲得であった。みんな・維新両党の獲得議席及び比例区の得票数の合計は野党第1党の民主党を超えた。2013年8月、福岡県選挙区から出馬したみんなの党の元候補が、立候補届出前の6月、福岡市博多区で選挙運動員の男性3名に対し報酬の支払いを約束したとして、公職選挙法違反(買収約束など)の容疑で福岡県警察本部に逮捕された。逮捕された元候補は2012年12月の衆院選において福岡7区からみんなの党公認で立候補し落選。2013年7月の参院選では当初選挙区からの立候補予定はなく、みんなの党比例代表候補に内定していたが、日本維新の会との協力関係解消により、維新が候補者を擁立した福岡県選挙区から立候補した。第23回参議院議員選挙の結果を受け、衆参合わせて計36名の国会議員を擁する勢力となったが、党代表である渡辺と幹事長である江田との間では、党運営、野党再編などを巡っての路線対立が鮮明化し、特に参院選投開票日当日に江田が、日本維新の会・国会議員団幹事長である松野頼久らと独断で会談を行った事で渡辺との関係が急速に悪化。8月7日に行われた両院議員総会において、渡辺が江田の幹事長解任を提議。反対意見もある中で江田は幹事長を更迭され、代わって浅尾慶一郎が幹事長に、浅尾に代わる政調会長に水野賢一が就任した。その後、同月23日には柿沢未途が、渡辺から事実上の離党勧告を受け離党届を提出、受理された。柿沢は以前は政調会長代理であったが、江田の幹事長更迭と同様に解任されていた。また東京都議会でも会派内人事を巡って渡辺派と江田派の対立が激化し、渡辺派の都議4人が会派を離脱して新会派を結成した。2013年6月に行われた2013年東京都議会議員選挙でみんなの党は1議席から7議席へと大幅に議席を増やし、同年7月23日、都議会事務局に「都議会みんなの党」(7議席、野上幸絵代表)として会派結成届を提出したものの、その後都議会会派幹事長人事を巡り所属議員が対立、同年7月25日、都議任期開始3日目にして会派分裂となった。「都議会みんなの党」は野上幸絵代表ら江田・柿沢に近い都議が主導権を握り、両角穣都議ら渡辺派4議員の会派離脱を発表、一方4議員は「会派離脱を了承した事実はない。離脱させられた」と反発、分裂に至る経緯についても両者の主張が食い違った。同日夜、4議員は「みんなの党」(4議席、両角穣代表)として会派結成届を提出。同年8月以降、東京都議会にはみんなの党の会派が2つ存在する状態となった。また野上代表は都議会日本維新の会(2議席)から統一会派結成の申し出を受けたが、みんなの党側の会派分裂もあり、「現状は白紙」と述べるに留まった。2013年11月に入ると、特定秘密保護法案の賛否を巡って、代表の渡辺が最終的に与党側との修正協議に応じ、賛成の方針に回ったことから一部議員が反発、井出庸生、林宙紀らが反対、江田も採決を前に退席するなど党内が混乱。12月8日、江田は講演において、特定秘密保護法の修正協議で、渡辺が与党寄りに傾いたことに対し「党内議論は2時間弱で強引に取りまとめた。みんなの党は結党の原点を失った」と主張して離党を表明。江田のほか林、井出、青柳陽一郎、椎名毅、小池政就、井坂信彦、畠中光成、小野次郎、川田龍平、寺田典城、藤巻幸夫、真山勇一、柴田巧の衆参議員14名が、同月9日に離党届を提出し、みんなの党は名実ともに分裂することになった。党として、江田については離党届を受理せず除名(除籍)処分とし、比例代表で当選した衆参議員13名の会派離脱を認めず、議員辞職を求める構えを見せている。江田ら離党組は、先に離党した柿沢を加えた衆参議員15名で同月18日に新党・結いの党を結党した。なお、毎月一日の会派所属議員数に応じて支払われる立法事務費の離党者分は、引き続きみんなの党が受領している(除名した江田を除く13名分、月額845万円)。なお2014年1月23日に結いの党に移籍した議員のうち、衆議院議員7人の離党届を受理した。しかしその後結いの党へと移った藤巻幸夫が死亡したため、第22回参議院議員通常選挙の比例名簿から田中茂が繰り上げ当選となり、1議席を回復した。また既に会派分裂に至っていた東京都議会では、2013年12月、「都議会みんなの党」の3名が結いの党結成に参加。2014年1月、会派名称を「都議会結いの党」(野上代表)に変更することを届け出た。また同月、江田が結いの党と日本維新の会の合流を視野に入れた両党間の政策協議を開始したい意向を表明したことを受け、「白紙」としていた都議会日本維新の会からの統一会派結成の申し出を受諾。同年2月、統一会派「都議会結いと維新」(5議席、野上代表)を結成した。一方渡辺派の「みんなの党」(両角代表)は都議会唯一のみんなの党の会派となったため、同年3月、会派名を「みんなの党Tokyo」と改称した。結いの党の離脱後はさらに第2次安倍内閣への接近姿勢が強まり、政権運営への協力を期待する安倍内閣の側からもみんなの党に対して秋波を送るようになっていった。2014年2月23日に開催された党大会で渡辺代表はみんなの党を保守政党と位置付けた上で、憲法解釈変更による集団的自衛権の行使容認など安倍政権の経済・安全保障政策に協力する姿勢を示した。これに対して安倍晋三首相は党大会に「責任政党として共に政治を引っ張ってまいりましょう」との祝電を寄せ連携への期待感を示したほか、翌月の参議院予算委員会では「(みんなの党は)責任野党として建設的な提言をしている」と評するなど、同党に対する好意的な姿勢を明らかにした。また党大会に先立って執行された東京都知事選挙では、野党各党や野党議員らが宇都宮健児・細川護熙・田母神俊雄の3候補のいずれかを推したのに対し、みんなの党は自主投票を決定。渡辺代表は投票先に関する個人的な見解として、自民・公明両党が推薦する舛添要一の名前を第一候補として挙げた。さらに従軍慰安婦問題を巡る籾井勝人会長の発言などを理由に民主党・日本維新の会・日本共産党など野党各党がNHKの2014年度予算案に反対票を投じる中、みんなの党は主要野党の中で唯一賛成票を投じた。2014年3月、渡辺喜美代表が化粧品会社DHC会長の吉田嘉明から第22回参院選直前に3億円、第46回総選挙直前に5億円を借り入れていたことが発覚。この借り入れは政治資金収支報告書に記載されておらず、公職選挙法や政治資金規正法に違反しているのではないかとの疑惑が浮上した。渡辺代表は当初「私的な借り入れであり問題はない」との見解を示していたが、党内からは代表辞任を求める声が相次ぎ、佐藤正夫・和田政宗両議員が代表辞任を求める記者会見を開くなど混乱が続いた。そのため4月7日に渡辺代表が改めて記者会見を開き、借り入れは自身ではなく党の選挙費用に充てたものであるから法的に問題はないと釈明した上で、騒動の責任を取るとして代表を辞任することを表明した。当面は浅尾慶一郎幹事長が代表職を代行し、同月11日に党所属議員による代表選挙を実施する運びとなったが、浅尾以外に立候補者が現れなかったため無投票で浅尾が新代表に選任された。また幹事長に水野賢一政調会長、政調会長に中西健治政調会長代理がそれぞれ昇格した。安倍内閣ではみんなの党との連携を重視してきたこともあり、菅義偉内閣官房長官は渡辺に対する強い批判は避けた上で、今後も同党との協力関係を維持していく意向を強調した。浅尾新代表も野党再編からは距離を置き、安倍内閣への協力姿勢を見せてきた渡辺前代表の路線を継承することを表明した。初代代表である渡辺の借入金問題はみんなの党の支持率低下の大きな一因となった。その後結いの党・日本維新の会の合併構想やこれに伴う維新の分裂が引き金となり、みんなの党内部でも新勢力との合流を図ろうとする動きが広まった。6月20日には江口克彦最高顧問が離党届を提出し、7月2日に承認された。江口は松沢成文・和田政宗らと共に次世代の党のメンバーが立ち上げた「自主憲法研究会」に参加しており、8月26日付で正式に次世代の党に入党した。他方で大熊利昭ら数人は結いの党・維新の会の合併後新党への合流を模索、執行部は「このままでは草刈り場になる」と危機感を募らせた。また第2次安倍内閣への対応を巡り、与党寄りの姿勢を鮮明にする渡辺前代表と一定の距離を保とうとする浅尾代表の路線対立が激化し、9月には渡辺の方針に異議を唱えた浅尾に対して渡辺が代表辞任を要求。同月16日の直接会談でも互いの離党を促し合うなど溝は埋まらず、17日の役員会で渡辺が推す与党寄り路線の是非が採決にかけられ、反対多数で否決された。しかし渡辺は両院議員総会での採決を要求し、同月27日の総会では浅尾側が譲歩する形で「与党入りも選択肢として排除しない」ことを決定。党の再分裂は回避したものの、与党の譲歩は望み薄と見る浅尾側と野党再編を非現実的と主張する渡辺側の対立はそのまま残された。なお同月11日には結いの党・維新の会の合併後新党(維新の党)への参加を理由に大熊が離党届を提出し、10月14日に承認された。2014年11月に入って解散政局となり、第47回衆議院議員総選挙(投票日は2014年12月14日)が間近に迫るようになった。今度は浅尾代表や山内議員らが、党内の意見集約を経ずに民主党への擦り寄り、合流を画策。それを強引に進めようとして党内の猛反発を受け、党内が収拾がつかぬほどに紛糾。やむなく参議院議員数名が解党を求めた(松田公太ブログ)。2014年11月17日浅尾代表はこれを一旦拒否した(渡辺前代表も解党に反対)が、翌18日、党内の路線対立を受けて「党の体制がまとまって政界再編に動けないのであれば、解党はやむを得ない」と考えてみんなの党を解党する意向を固め、11月19日午後に両院議員総会を開催して解党の是非を問う採決を渡辺元代表の「みんなの党抹殺事件だ」などとの怒号が飛び交うなか行い、出席者20人中13人が解党に賛成したことによりみんなの党は11月28日をもって解党することを決した。両院議員総会終了後、浅尾は「所属の国会議員や地方議員、党職員など、多くの支援者たちの期待に応えられず申し訳ない。『与党補完勢力』との間で埋めがたい溝があった」と、党内対立が解党に至った要因であることを説明し、同日解散した。残余政党交付金は分けることなく、国庫に返納することもこの時決められた。2015年9月に党職員の退職金などを支払った上で残額となった約8億2600万円を国庫に返すことが判明した。なお、解党時に同党に所属していた参議院議員10人のうち、4人が参議院会派「無所属クラブ」、6人が参議院会派「日本を元気にする会」を結成した。2015年11月13日、同党に所属していた参議院議員の行田邦子が埼玉県選挙管理委員会に政治団体「みんなの党」の設立を届け出た。行田が代表を務め、国政政党としての復帰を目指し当面は一人で活動する。なお、この届け出に関して行田は渡辺喜美元代表から了承を得たと発表した。しかしわずか1か月後の12月10日に行田がみんなの党復活を断念したことを発表した。「小さな政府」路線を政策の基本とし、上記の通り規制緩和による競争促進や公営事業の民営化、地方分権、経済の対外開放などの政策を掲げており、代表の渡辺喜美は小泉改革の柱の一つだった公務員制度改革を「中途半端だったから、改革を徹底してやる」と構造改革の目玉としている。雇用対策に関しては、といった政策の実現を目指している。また、など、所得再分配政策を打ち出している。加えて日銀法改正で貨幣への介入を唱えている同党の経済政策については、財政政策では上記のアジェンダのように減税と歳出拡大を同時に提唱する一方、金融政策では日銀法改正により、といった、インフレ目標を定めた中央政府による景気管理政策(総需要管理政策)と日銀の独立性縮小の路線を提唱している。農政上記を実施し尊農開国を元に海外への輸出の強化エネルギー政策上記を実施し電力の安定化・脱原発依存財政上記を実施し増税を回避する選挙・政治上記を実施し無駄の削減・汚職の撲滅する経済・金融上記を実施しデフレ脱却、名目4%以上の経済成長を実現する教育上記を実施し世界に通用する人材を育成行政改革(公務員・地方公務員)上記を実施し無駄を無くし、働き甲斐のある環境にする医療・福祉上記を実施し命が最優先される社会の実現する年金上記を実施し安全で安心の社会を作る少子化対策上記を実地し多様な子育てが出来る社会を作る地方分権上記を実施し自立した地域を作る外交・安全保障上記を実施し我が国の国民と国土を守り地球規模の課題にも積極的な役割を果たすその他代表の選出は、所属国会議員による選挙によって行う。任期は就任から3年後の9月末日までであり、重ねて就任することができる(党規約7条)。第2代の代表であった浅尾慶一郎は、途中で辞任した渡辺喜美初代代表の任期を引き継いだため、本来の任期は2015年9月までであった。役員会は、代表、幹事長、政策調査会長、国会対策委員長、参議院役員から構成される(党規約6条)。党規約12条に基づく党務執行機関として、次のものが置かれている。党規約19条および20条に基づく特別機関として、次のものが置かれている。党の政策に賛同する18歳以上の日本国民は、所定額の党費を納入すれば入党することができる。「一般党員」と「ネット党員」の二種類の党員制度が設けられているが、どちらも同等の党員資格を有する。党員数は一般には公表されていない。政治資金収支報告書に掲載された党費納入者数の推移は以下の通りである。毎月5日頃に「みんなのかわら版」と題した党の広報紙を公式サイト上に公開している。2009年さいたま市長選挙で国民運動体 日本の夜明け(後のみんなの党)推薦、民主党埼玉県連の支持を受けた清水勇人(後の埼玉改援隊代表)が当選した。2009年11月8日の葛飾区議会議員選挙で1議席を獲得し、2010年2月の町田市議会議員選挙でも推薦1名を含む2議席を獲得し6月には民主党からの離党を表明していた神奈川県議3名(民主党神奈川県議団元団長の田中肇と岩本一夫,塩坂源一郎)が入党した。また、同年5月30日投票の愛知県大治町長選で、単独推薦した元プロ野球選手・岩本好広が、現職と新人に勝利し初当選。単独の推薦候補が市町村長選で当選したのは初めてだった。同年9月7日、無所属だった枚方市議3名が入党し、西日本の地方議会で初めての単独交渉会派を結成。2010年12月の茨城県議会議員選挙では、みんなの党は2人が全国初の県議当選を果たした。2012年栃木県那須塩原市長選挙では阿久津憲二がみんなの党系市長として県内で初めて当選した。その後も、奈良県香芝市長選挙にみんなの党推薦候補が当選するなど積極的に擁立している。2011年の統一地方選挙では、都道府県議会議員は41人、政令指定都市議会議員は40人が当選し、栃木県議会では第2会派、神奈川県議会では第3会派、横浜市会では第4会派になった。その後も、福島県議会議員選挙では公認1人、推薦1人が、宮城県議会議員選挙では公認2人が当選し、仙台市議会議員選挙では公認4人が当選している。また地方議会で会派を組む際、会派名に「みんなの党」または「みんな」の文言を入れる規定がある。みんなの党はかねてから各地の地方議会で、公認した候補者が当選後や会期中に会派を離脱したり分裂する例が相次いでいたほか、結いの党結党に際しては多数の地方議会議員がこれに応じて参加した(#党運営・野党再編を巡る党内対立の激化も参照)。解党に際して、地方組織に関する事項は党本部から全く何も通達や指示がなかったとされる。党解散時点で残存していた各地のみんなの党会派や地方組織はそれぞれ解消・あるいは会派名称を変更して活動している。とくに渡辺喜美前代表に近い地方議員らは会派名に「闘う改革の会」を入れて活動している。また、無所属となっても会派名にみんなの党を残したまま活動している例もある。以下に数例を挙げる。※なお、結党時は役職名を「パートナー」としていた。※2014年9月14日現在の状況 衆議院議員8名、参議院議員12名2013年12月31日時点(総務省調べ)各年の政治資金収支報告書の記載に基づく。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。