倭・倭人関連の中国文献(わ・わじんかんれんのちゅうごくぶんけん)は、倭・倭人や倭国のことが書かれている中国の文献について解説する。倭についてはじめて書かれた正史は、後漢の初頭時代に班固が書いた『漢書』地理志であり、王充が著した『論衡』(ろんこう)である。『漢書』では、倭は朝鮮半島の南の海のかなたにあると書いており、『論衡』では、倭は中国の南の呉越地方(揚子江の下流域の南付近)と関連あるとしている。『晋書』、『梁書』などが、倭人の出自に関しては一致して「太伯之後」という文言を記している。呉の祖である太伯の子孫という意味であろう。太伯もまた、日本についての言い伝えを残している。この当時、中国から倭へ至る海路については主に北(朝鮮ルート)と南(呉のルート)の二通りがあった事を示していると思われる。倭人について、「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八)成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」(儒増篇第二六) 周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。 とみえる。中国の歴史時代は、商の後期に始まり、周、春秋・戦国、秦、前漢、新、後漢、三国(魏・呉・蜀)……と続いていく。周代は、ほぼ日本の縄文時代晩期から弥生時代前期にあたり、この当時から中国では日本列島などの住人を倭人と認識していたと考えられる。白雉や暢草(ちょうそう)は服用されたようで、暢草は酒に浸す薬草と思われていた。。。王充(おうじゅう 27年 - 97年)の書。王充は、会稽(かいけい)郡上虞(じょうぐ)県で生まれる。もとからの江南人ではない。華北からの移住者であった。王充は次項『漢書』の著者・班固より5歳年長の先輩で、知人であった。彼は、自由な合理的・実証的な精神によって時弊を痛論し、ことに、当時盛行していた讖緯(しんい)思想・陰陽五行思想に対して強く批判し、迷信や不合理を斥け、一方、儒家、道家、法家などの言説も批判して、宿命論的・唯物的傾向が強いが、根本的には儒家思想の持ち主であった。「食白雉服鬯草 不能除凶」というのも、 迷信や不合理を批判した一例であろう。いずれにせよ、王充の時代には倭人は古く周代から大陸との関わりを持ち、倭国から海を渡って周に朝貢していたと考えられていた事が分かる。「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」(山海經 第十二 海内北經)蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。山海経の編纂された時代には、倭は燕に朝貢していたと考えられていた事がわかる。しかし、同書は伝説集または神話集の体裁をとっていて「架空の国」や「架空の産物」が多く、史実を忠実に反映したものとみなすことについては疑問視されている。『山海経』第九 海外東經では、東方の海中に「黒歯国」があり、その北に「扶桑」が生える太陽が昇る国があるとされていた。『三国志』魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)「去女王四千餘里又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可」女王(卑弥呼)の国から4000余里に裸国と黒歯国がある。東南に船で一年で着く。(よって『山海経』の影響を受けていると言えるが、邪馬台国と黒歯国は異なる国という認識である)『梁書』卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳 東夷条 倭「其南有侏儒國 人長三四尺 又南黑齒國 裸國 去倭四千餘里 船行可一年至 」南に身長三四尺の民の国があって、その南に黒歯国がある。倭から4000余里。船で1年で着く。(よって『山海経』の影響を受けていると言えるが、倭国と黒歯国は異なる国という認識である)(『山海経』の記述の影響によって、古代中国では「倭」(九州)が「太陽が昇り扶桑の生える」「九夷」として憧れの地になっていた蓋然性もあることを示す関係古文書)『漢書』(前漢書ともいう)の地理志に、「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」然して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。以(ゆゑ)有るかな。楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。楽浪郡は、前漢(紀元前202年-8年)の武帝が紀元前108年に衛氏朝鮮の故地に設置した漢四郡の一つである。その役所は、今日の北朝鮮の平壌付近にあった。漢四郡とは、真番郡・玄菟郡・楽浪郡・臨屯郡をいう。中国の史書で倭人の国のことをはじめて書いたのがこの『漢書』地理志である。楽浪の海を越えた所に百余国に分かれた倭人の国があった。中国人の目には、「国」として映っていた。弥生中期の後半(紀元前1世紀頃)に当たっている。班固が後漢の初め頃に編纂した。『後漢書』「東夷傳」「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」安帝、永初元年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う倭奴国の王は、出先機関の楽浪郡にではなく、後漢の都の洛陽にまで使者をはるばる派遣し、朝貢していた。授けられた金印(倭奴国王印)は、江戸時代に博多湾・志賀島で掘り出されたものとされ、現存する。「漢委奴國王」と刻印されている。三宅米吉はこれを漢(かん)の委(わ)の奴(な)の国王と読んでいる。また、委奴を「いと・ゐど」(伊都国)と読み、漢の委奴(いと・ゐど)の国王と読む説もある。しかしながら、そのような日本の読み方の如何に関係なく、かの漢字文化の本家では、どのように解釈していたか、と言えば。と、「倭奴国」という国名の固有名詞として、後の「倭国」の呼称の意、としていた。中国の史書に倭国が現れたのは、『後漢書』の安帝紀の永初元年(107年)の記事が初めてである。「冬十月,倭國遣使奉獻。辛酉,新城山泉水大出」『後漢書』卷九十 烏桓鮮卑列傳第八十の檀石槐伝に以下の記述がある。『三国志』より古い時代を書いているが、成立は三国志より遅い。五世紀に書かれた。范曄は『漢書』は当然、『三国志』『魏略』なども読むことができたと思われる。また「倭の五王」の「上表文」も知っていた。范曄(はんよう 398-445)の撰。後述の魏志より遥か2世紀近くも後に編纂されたことに注意。「」(『三国志』魏書巻三〇「烏丸鮮卑東夷伝 倭人の条」)この記事は、倭人伝の導入部である。その意味は、倭人は帯方郡の東南の大海の中におり、山の多い島のうえに国や邑(むら)をつくっている。もとは百あまりの国があり、その中には漢の時代に朝見に来たものもあった。いまは使者や通訳が往来するのは三十国である。東夷伝には、夫余・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・馬韓・辰韓・弁辰・倭人の九条が含まれている。東夷伝の九条とも大体三部から構成されている。倭人伝も、第一部はその周辺との関係位置や内部の行政区画の記事、第二部はその経済生活や日常習俗の記事、第三部はその政治外交上の大事件の記事、と分けることができる。また、倭国の政治体制に関する記事を一部と考えると四部構成にできる。東夷伝の韓伝冒頭には、「韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」(『魏志』韓伝)韓は帯方の南に在り。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接する。方4千里ばかり。とある。これも倭人伝を考えるに際しての貴重な情報であろう。倭人伝にえがかれた時代は、後漢の終わり頃から三国鼎立の時代であった。同時代の王沈の書『魏書』に東夷伝がなく、また『三国志』は中国の皇帝の歴史を書くべき史書であったが、陳寿の『魏志』倭人伝だけが約二千字という膨大な文字を使ってこと細かく邪馬台国のことを書いている。そこには、特別な政治的事情があった。また「倭人は鉄の鏃を使う」との記述がある。『三国志』は『魏書』三十巻、『呉書』二十巻、『蜀書』十五巻からなる。通称は『魏志』『呉志』『蜀志』である。魏の文帝の黄初元年から晋の武帝の太康元年にいたる間(220年 - 280年)の魏・蜀・呉の三国鼎立時代、60年間の歴史を書いたもので、正史二十四史の第四番目に位置する。晋が天下を統一したころ、太康年間(280-289)に全六十五巻を陳寿が撰述した。名著の誉れ高く、陳寿の死後、『史記』『漢書』『後漢書』の「前三史」に加えて、「前四史」と称されるようになった。華北に魏、華中・華南に呉、長江(揚子江)の上流四川を中心にして蜀がある。南北に対立した魏の範囲と呉の範囲は、のちの南北朝時代にもそれぞれ北朝と南朝として地域的対立する。中国では中央に居住する華夏族(漢民族)に対して、その周辺に居住するものを、東は夷、南は蛮、西は戎(じゅう)、北は狄(てき)と称した。陳寿の撰。字は承祚(しょうそ)。巴西(はせい)郡安漢県(四川省南充)で健興(蜀の年号)十一(233)年に生まれ、65歳で没する。ほぼ卑弥呼(248頃死す)と同時代の人。太康10年(289年)の条には、「東夷絶遠三十餘國 西南二十餘國來獻」とあり、絶遠の国が日本であるといわれる。「自昔祖禰 躬擐甲冑 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人五十國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國」(『宋書』倭国伝) 昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。「詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王」詔を以て武を使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に叙爵した。と日本が宋へ朝貢をし、宋が倭王(武)へ朝鮮半島の支配を認めたとしており、当時の外交状況が見て取れる。宋の文帝の命によって、439年(元嘉16)から編纂が始まり、何承天・山謙之・琲裴之(はいしょうし)・徐爰(じょかん)らの当代有数の文人たちによって継続されていた。487年(永明5)に南斉の武帝の命を受けた沈約(しんやく)が翌年(元嘉17)に本紀10巻・列伝60巻を完成させ、志30巻は502年(天監元)にできあがった。『宋書』は全体として事実を簡にな記述しており、宋王朝の官府に集積されていた史料を実録的に記述している。倭の五王の中の珍に関係する記述が列伝の倭国条だけでなく本紀の文帝紀にもある。沈約は、斉の著作郎(歴史編纂の長官)であった。日本関係は東南夷伝に書かれている。冒頭は前正史の記述を大きく妙略して引いたもので、また中国から見た倭国の位置や女王の存在などを記す。479年の倭国の遣使を記し、倭王武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍から、称号などが書かれている。唐の著作郎であった姚思廉(ようしれん)が太宗の命を受けて編纂した。636年(貞観10)に完成した。史料的価値は『宋書』より低いと見られる。梁書巻五四の諸夷伝に倭に関する記述がある。先行する倭に関係する記述を適宜に採録したものである。倭の五王名や続柄が『宋書』と異なっている。姚思廉(ようしれん)、唐の著作郎。「」に、男女多く臂(うで・ひじ)に黥(げい)す。黥面文身して、水に没して魚を捕るとある。これは608年の隋使(裴世清)の一行の見聞や観察を基礎にしたもので、7世紀初頭の倭人社会についての貴重な資料である。また、新羅・百濟は、みな俀を以て大国にして珍物多しとなし。並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来すとあり、百済、新羅が、日本(倭)を尊敬して仰いでいたとし、使いを通わせていた記述が存在する。また、倭人が鉄を使用していたという記述がある。「」大業三年(607年)其の王多利思北孤,使いを遣わして朝貢す。使者曰く『海西の菩薩天子重ねて仏法を興すと聞く。故に遣わして朝拝せしめ,兼ねて沙門数十人来りて仏法を学ぶ。』と。俀の王からの使者が来て、隋を訪問した目的を述べたことが記述されている。ここでは「海西の天子は、重ねて(熱心に)仏法を起こしていると聞いた。そのため沙門(僧侶)を送って仏法を学ぶために来たのだ」と述べている。海西の菩薩天子とは、海の西の方の天子、すなわち、開皇11年(591年)菩薩戒により総持菩薩となった煬帝を指している。そして、この一節の直後に有名な「」の記述が続いている。魏徴(ぎちょう)の7世紀後半撰。二十四史の一つ。日本について『倭国』と『日本国』の条がある。「日本」の名称に関して次の記述がある。日本国は倭国の別種なり。 その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。 或いはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。 或いはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたり、と。倭国は「自らその名の雅(みやび)ならざるを悪(にく)み」名を改めたと読める。また、北宋時代に再編纂された『新唐書』においても同様の記述があるが、新唐書においては「日本という小国を倭があわし(合併し)その号(日本の名)を冒す(名のる)」とする記述がある。読みは「くとうじょ」。五代十国時代(10世紀)に劉昫(りゅうく)らによって編纂された歴史書。二十四史の一つ。以下は、倭国・倭人についての記事に関係ある文献である。
出典:wikipedia
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