ランツベルク・アム・レヒ(標準ドイツ語・バイエルン語:Landsberg am Lech)は、ドイツ連邦共和国バイエルン州オーバーバイエルン行政管区のランツベルク・アム・レヒ郡に属す大規模郡都市で、同郡の郡庁所在地である。この中級中心都市は、ミュンヘンの西約55km、アウクスブルクの南約38kmのロマンティック街道沿いに位置し、ドイツ気象庁によればドイツで最も日照時間の長い都市である。ランツベルクは、古バイエルンとシュヴァーベンとの国境領域であったレヒライン地方最大の都市であり、中心都市である。この都市は、レヒ川の堤の上に位置するその立地と保存状態のよい見所の多い旧市街を有することから「バイエルンのローテンブルク」というニックネームを持つ。広い領域の企業があり、近代的な専門領域の複合体であるこの都市は、ミュンヘン計画地域の中で成功した経済都市の一面も持っている。本市は、公式には10の地区 (Ort) からなる。このうち小集落や孤立農場などを除く集落を以下に列記する。ランツベルクの中心部である歴史的旧市街はレヒ川とその東岸の高い堤の間に位置する。レヒ川西岸の地域(カタリーネンフォアシュタット、ノイアープフティング、ヴェストシュタット、シュヴァイクホーフジートルングといった現在の市街区の大部分)と東の堤の上の地区(バイアーフォアシュタット)は19世紀前半以降に建設された街区である。1135年頃にフェティーネ (Phetine) という、後にランツベルク・アム・レヒの市域に含まれることになる入植地が初めて文献に記載されている。この時にはまだ都市権を有してはいない。ハインリヒ獅子公は1158年に重要な塩の交易路を南よりのルートに移した。このためにフェティーネ付近でレヒ川に橋が架けられた。それまで塩街道はカウフェリング付近の徒渉地でレヒ川を渡っていたのである。この橋を護るために確保したフェティーネ城の下に「Castrum Landespurch」(ランデシュプルフ城)と呼ばれる新しく大規模な城が建設された。この城はやがてヴェッソブルンの修道院の代官が駐在する城となり、アウクスブルク司教に対する国境の防衛を担った。この城の庇護下で入植は急速に増加し、13世紀にはすでに都市権を有し、Landesperch(ランデシュプレヒ)と呼ばれるようになった。これが発展し、現在のランツベルク・アム・レヒとなったのである。1315年にこの街はルートヴィヒ・フォン・バイエルンとフリードリヒ美王との戦いで焼失した。この都市は戦略上重要な位置にあるためすぐに再建された。バイエルン公もこの再建を支援した。1320年、この都市に塩に対する税金を徴収する権利が与えられた。ザルツプフェニヒ(塩の小銭)とよばれるこの税金により街はかなりの富を蓄えた。1353年に最初の塩蔵が建設された。この蔵に塩が蓄えられ、売買された。17世紀までにこの蔵は3棟になっていた。20世紀になるとランツベルクの塩蔵は消防署の本部として利用され、さらに1990年代にランツベルク市立図書館「レヒシュターデル」(直訳すると「レヒの蔵」)に改装された。塩以外の交易、特に穀物や木材もレヒ川を使って輸送された。この街の人口は絶えず増加を続け、1415年と1435年には市壁の拡張が必要となった。これによりランツベルクの北部と東部は大きく拡大した。1419年にバイエルン公エルンストは川の通行税徴収を許可し、その収入はランツベルクの防衛施設建設に充てられた。1425年には市街への東の入り口としてバイエルン門が造営された。この門を通って塩街道は市内へ通じていた。エルンスト公は1429年に現在も使われている市の紋章を授けた。また、彼は1437年にユングフェルンゲルト(若い娘基金)制度を設けた。ランツベルク市民は税収入の中から毎年40プフェニヒを2人の若い娘に婚資として渡すことが義務づけられた。1762年に初めて、番地制度が文書によって確認される。現在も有効なこの番地制度は1790年に固定された。現在の通りの名前とは無関係に、ハウプト広場の 1 からホーフグラーベンの 496 a まで番号が付けられた。副え番の a、b、c、あるいは1/2、1/3、1/4は分割されたり後から建てられたものであることを示す。ランツベルクは、この地で一時期城塞禁錮刑に服していたアドルフ・ヒトラーを介して国家社会主義の上で重要な役割を演じたのかもしれない。ヒトラーは禁錮刑服役中の1924年に『我が闘争』を執筆したからである。その刑務所のあるランツベルク・アム・レヒは1937年から1945年まで、ミュンヘン、ニュルンベルクに次ぐ国家社会主義第3の中心都市であった。「ランツベルク — ユーゲントの街」のスローガンの下、ヒトラーユーゲントの中心地として知られていた。ユーゲントのパレードのための巨大なスタジアムが計画されたが、建設には至らなかった。1944年、第二次世界大戦末期にランツベルクおよびカウフェリング周辺に、11の施設からなる外部強制収容所群(大規模な強制収容所の他にドイツ占領地域の各地に小規模な施設からなる外部強制収容所があった)が建設された。これらは「カウフェリング」と総称されたが、司令部はランツベルクに置かれていた。1944年6月18日にアウシュヴィッツからまず約1,000人の収容者がカウフェリングに移送された。軍備プロジェクト「リンゲルタウバー」作戦に基づき、新型のジェット戦闘機メッサーシュミット Me262を製造するため、巨大な地下掩蔽壕を建造するためであった。飢餓、冷気、チフスをはじめとする疫病が蔓延する劣悪な宿泊施設での強制労働が終戦により強制収容所が解体されるまで続き、収容者らはこの強制収容所を「冷たい火葬場」と呼んだ。1944年10月末までは、働けなくなった収容者はアウシュヴィッツに送還されガス室で殺害された。1944年10月以降は(ガス室が解体されたため)収容所内で亡くなった。遺体は周辺の共同墓に埋められた。15,000人の収容者がユダヤ人撲滅の最終フェーズをこの収容所内で生き延び、1945年4月27日にアメリカ軍によって開放された。レヒ川の河原にあるペッシンガー・アウのヴィルトパークに、かつてドイツに100基あったシュラーゲター・シュタインの一つがある。この石はレジスタンス運動の闘士アルベルト・レオ・シュラーゲターの栄誉を記念して建てられたものである。1945年、ランツベルク・アム・レヒ周辺の強制収容所に収容されていたユダヤ人収容者らは住む場所がなく難民化した。彼らの多くは親類縁者も亡くしており、帰る場所がなかったのである。この他に何千人ものDP(Displaced Person: 旧ドイツ領の東プロイセンやシレジア、チェコ領であったズデーテン地方などから追放された人々)がランツベルクで連合軍によって保護された。1945年5月9日にアメリカ軍はザールブルク兵舎内にDPキャンプを設けた。1945年末、ここには約7,000人のDPが住んでいた。しかし、ユダヤ人DPは約23,000人いたのである。ランツベルク市民とDPの関係は多くの心に傷として刻まれており、問題がないわけがなかった。人々は門前の収容所生存者に恐怖を抱いていた。1947年から1948年までランツベルク・アム・レヒDPキャンプで、ホロコースト生存者の運命を描いたイディッシュ語のドイツ映画 "Lang ist der Weg"(路は遠い)が撮影された。主演はイスラエル・ベーカーで、この街には彼にちなんで名付けられた通りがある。イスラエル建国後、ランツベルクDPキャンプは次第に通過収容所となっていった。かつての強制収容所収容者はここで社会復帰に努め、イスラエル、USA、その他の国への移住の準備がなされた。DPキャンプには学校や作業場が整備され、9つのキブツが形成され、さらにキャンプ内の新聞 iddische Landsberger Cajtung が刊行されていた。1950年4月までにDPキャンプの収容者数は1,500人に減少した。DP収容所は、最終的に1950年11月1日に廃止された。1945年から1958年までの間、ランツベルク刑務所は占領国によって、ドイツ人戦争犯罪者を収容するために用いられた。1946年にこの刑務所はアメリカの第1戦争犯罪者刑務所に指定された。1951年までにランツベルクでは有罪判決を受けた戦争犯罪者の刑が執行された。その精確な数は、279人から300人以上の間で議論の対象となっている。ランツベルク・アム・レヒの市議会は、30議席からなる。歴代の(上級)市長は以下の通りかつて国家社会主義の中心的な重要都市であり、軍事施設が近隣(たとえば1935年以降のペンツィヒ空軍基地)あるいは市内(たとえばザールブルク兵舎)にあったにもかかわらず、ランツベルク・アム・レヒはドイツの郡庁所在地の中で連合軍による空爆被害が最も少なかった都市の一つである。新聞の記述によれば1944年4月にミュンヘンへ空爆に向かう1機の戦闘爆撃機が、現在のゲオルク・ヘルマイアー広場に面した中世風の家屋に小さな爆弾を投下した。169番地のこの建物は現在カフェとして営業しているが、1980年代の初めに保護文化財として再建されたものである。これらの文献は、翻訳元であるドイツ語版の参考文献として挙げられていたものであり、日本語版の作成に際して直接参照してはおりません。
出典:wikipedia
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