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観光史学

観光史学(かんこうしがく)とは、主に第二次世界大戦後の日本の観光都市化政策において、先行する行政サイドの観光化の意図のもとに、地域の歴史を観光資源として動員しようとする考え方および歴史観。田中悟は、戦前の皇国史観・中央集権的歴史観による順逆の論拠は敗戦によって失われ、地方史(郷土史)はそれから解放され、より高次な視点を要求される中で観光史学へと開眼したと指摘している。その反面、取り扱われる歴史の在り方において、例えば戊辰戦争や日本の第二次大戦(大東亜戦争)等における、戦争犠牲者・戦死者への「忘却と召還」という問題の指摘もなされている。用語としての「観光史学」は福島県会津若松市の郷土史家・宮崎十三八(とみはち)が提唱をしている。戦後に会津若松市の商工観光部長であった宮崎十三八が担当した観光都市化政策のなかで、会津地方の歴史、とりわけ戊辰戦争史を観光資源化する考え方が現れた。宮崎は自身で「私の立場は観光史学であること」と自らのその立場を語っている。これに対し、「長州」・「萩」への和解を阻害する「史料的根拠が薄弱な怨念」や「靄のような怨念」への批判的分析をおこなった畑敬之助、戦後会津において、なお「旧態依然たる怨念史観」の延長線上で戊辰戦争史を観光資源化することへの反発を持つ牧野登のような宮崎「観光史学」への批判的捉え方がある。これらをふまえ、神戸大学大学院助教の田中悟はその研究論文で、これらの議論を含め〈戦後会津における「観光史学」〉として定義付けている。この田中論文では近代社会の「アイデンティティの危機」、とりわけ敗者のこの問題を、戦後会津の「怨念史観」・「観光史学」を題材にまとめながら近代の戦争で非業の死を遂げた死者に対する忘却を問題として提起し、しかもそれは会津という一地方の問題には留まらず現代日本の到達した境地そのものであるとする。明治維新以降、会津を賊軍ではないとする雪冤運動から始まり、旧会津藩士からなる『七年史』『京都守護職始末』等の出版による会津からの意見陳述がなされた。昭和期にジャーナリストの徳富蘇峰やその秘書で会津出身である早川喜代治等による「会津藩は朝敵にあらず」といった戦意昂揚的なプロパガンダなどにも絡んできた。その中で、大正年間より白虎隊終焉の土地である飯盛山を観光施設として喧伝しようとした動きが、「観光客を目的とした歴史の利用」の先鞭を告げる。当時より飯盛山の観光化に対しては批判があり、東京朝日新聞の杉村楚人冠は墓地整備の観光化に関して「この旧形破壊は何事だ。ムソリニがそれほどえらいのか」と厳しく批判している。これに対して、元白虎隊士でもあった山川健次郎は「一はもつて英霊を慰め一はもつて教育資料とするに便ならすむるためには、変更は止むを得ざる」と反論している。1908年(明治41年)以来、会津若松にも陸軍連隊が置かれ、軍都としての顔を持つようになった。そして戦前の国威発揚の一環として、会津武士道が注目されるようになり、実際に白虎隊精神がファシズムや軍国主義に利用された。1928年(昭和3年)にベニート・ムッソリーニが白虎隊の精神に感心して元老院とローマ市民の名で寄贈したという古代ローマ時代のポンペイから発掘された宮殿の石柱による記念碑や、1935年(昭和10年)に駐日ドイツ大使館員のハッソー・フォン・エッツドルフ()が飯盛山を訪れた時に、白虎隊の少年たちの心に深い感銘を受けて個人的に寄贈した記念碑がある。また、戦時中には保科正之がブームになった時期もあったが、会津関連著作の多い中村彰彦は「明治以降殆ど闇に埋もれてしまった」と述べている。直接的な第二次大戦の戦争被害を受けなかった会津若松市では、戦後に「軍国主義的である」という理由で上記のような運動が顧みられなくなり、会津若松から出征したはずのこの近代戦における戦死者さえも遺族を除けば大方は忘却されるに至った。これが、以降の戦後会津の観光都市化政策において、近代戦の戦死者ではなく戊辰戦争の戦死者の、いわば現代への召還という状況を後々に生み出すことになる。すなわち、地方史の視点で明治維新を再検証する姿勢が出てくるようになり、これに戦後復興からくる観光ブームから、白虎隊が観光資源として扱われるようになった。これより、会津は観光資源が「会津の自然」より「会津の歴史」にシフトされるようになる。また、1957年には戊辰戦役90年祭として会津まつりが行われるようになり、白虎隊のパレードを見られるようになった。会津若松市の商工観光部長であった宮崎十三八が、会津若松のスポークスマンとなってから観光と歴史のセッティングが始まる。宮崎は日本の敗戦により皇国史観の鎖が断ち切られた事で「それまで自分たちが(痛み)に耐えつつ無実を訴えつづけてきた壁が、一夜にして取り払われた」と主張し、次々に会津より作品を発表し始める。宮崎自身は「幕末だけでなく、上杉、加藤、保科と、鶴ヶ城をめぐる各時代の“時代劇散歩”をおいかけてゆきたい」と語り、歴史のロマンを語る、即ち「歴史」としてのロマンと地域の観光も含む「観光歴史」を語るようになる。宮崎十三八の「観光史学」には、美しい郷土の自然と歴史ロマンを訪ねる、この「歴史散歩」的世界観が特徴となっていたが、それは当時の観光都市政策と合致したものであった。その一方では、戊辰戦争や近代戦争における戦死者の非業の死やその不条理とも離れた「死者不在」の、そして敗戦前には強く求められていた国家との関わりのない、つまり「ネイション不在」の側面を合わせ持っていた。しかし、順調に見えた宮崎の「観光史学」の展開は、戊辰後100年祭を迎える1967年(昭和42年)を契機に、歴史的和解のために萩市の青年会議所からの和解・友好関係の勧誘を受けながらこれを会津若松市の青年会議所が拒絶するような事態に直面する。その約20年後の「会津戊辰戦争120年祭」にあたる1987年(昭和62年)に再度の萩市側からの和解の申入れが行われた際には、会津若松市長の応諾の意図を覆すほどの市民の反対意見が噴出した。これは、場を取り持つことに腐心した宮崎自身も当惑する事態であった。これらの長州・萩市への和解への拒絶反応の背景には、宮崎が置き去りにしていた戊辰戦争における会津の長州に対する怨念があった。すなわちその怨念とは、戊辰戦争後に長州藩を含む明治新政府軍が鶴ヶ城下に残った2000人以上に上る会津藩士、商人、農民の死体の埋葬を禁じ、放置された藩士や女性、子供の死体は腐敗して、烏の餌になったとされる逸話や、戊辰戦争後も山縣有朋ら長州閥によって会津の人達が様々な部分で冷遇されたことがその原因とされている。会津若松市民の中には、賊軍という理由だけで埋葬を禁じた蛮行についての謝罪が一切ないことに対して、未だ許せないと考える人もいる。しかし、会津藩戦死者に対する埋葬禁止の話の根拠とされる「明治戊辰戦役殉難之霊奉祀の由来」に記されている官命では、彼我の戦死者、つまり会津側と新政府側、双方の戦死者に対する一切の処置を禁止する内容となっており、会津藩の死者の埋葬のみを禁じたものではなく、死体からの金品剥ぎ取りを防ぐための一時的処置と考えられる。また戊辰戦争後に会津の民政を任され、遺体埋葬も担当した会津民政局に長州藩関係者は全くいない。このように長州に対する怨念には根拠が薄弱ではないのかという意見は、当の会津関係者の中からも提起されている。そして、その原因として、戦後一時的に忘却されていた戊辰戦争当時の怨念を呼び覚ます源泉となったという一連の歴史小説作品の影響が指摘されている。とりわけ、戦後の《会津の語り》を規定したとされる司馬遼太郎作品が、旧長州藩(萩市)との和解をしづらくしたという意見があり、当初「宮崎の歴史散歩的世界観」に特徴付けられていた怨念の源流の忘却をむしろ前提として、司馬遼太郎・早乙女貢・綱淵謙錠・中村彰彦らの《会津もの》小説が新たな怨念の源泉を提供したとされる。マスメディアはこれらの小説を事実のように紹介したために、会津側住民に一方的な遺恨をもたらすこととなった。また、宮崎十三八自身もこの「怨念史観」を肯定的に受け止めざるを得なかった。こうして、宮崎の提唱した「観光史学」は「歴史散歩」と「怨念史観」という矛盾した2側面を持つようになり、それが彼自身の苦悶の末に「観光史学」の否定的脱却による、郷土会津の「古寺巡行」へと変容させたという。しかし、現在の会津若松市の観光都市化政策が、和解への問題とされる「怨念史観」から離れ、当初宮崎の求めた「歴史散歩」の観光史学に回帰していると指摘される一方で、死者への忘却ではなく真摯な向き合いを求めたこの宮崎の晩年の方向性は、宮崎が辿り着いた二人称たる戦死者への向き合いを通じて自らの共同意識を持つ — 一人称複数の共同体構築への想いが受け継がれずに放棄されていると指摘されている。

出典:wikipedia

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