越中の戦国時代(えっちゅうのせんごくじだい)は、戦国時代における越中国(富山県)内の戦乱である。越中は室町時代、河内系畠山氏が守護職を務めていた。しかし戦国時代に入ると、河内系畠山氏は越中に在国せず、河内において足利将軍家や細川氏、三好氏との畿内における権力抗争や内紛に明け暮れて衰退した。このため、越中は必然的に隣国の能登守護であった能登系畠山氏の領国となったが、その能登系畠山氏においても重臣間の権力抗争が絶えず発生して、越中の統治に介入することができずにいた。このため、越中は守護代の神保氏(富山城・増山城)、椎名氏(松倉城・金山谷城)が実際の統治を担当していたが、この両者の支配力もさほど強力なものではなく、隣国の加賀国の影響もあって一向一揆の力が強まることになる。そしてこの一向一揆と手を結んだ神保氏が次第に越中での権勢を強めたため、畠山氏は越後守護代の長尾氏に神保氏追討の出兵を要請した。つまり、戦国時代の越中には戦国大名による強い支配政権が成立せず、国内における権力闘争や隣国の侵攻などを受けてそのたびに争乱が起きる事態になったのである。永正の乱も参照。永正3年(1506年)9月、長尾能景が畠山氏の要請を受けて越中に出兵するが、般若野の戦いで一向一揆・神保慶宗連合軍と戦って敗死した。このため、能景の子・長尾為景は慶宗と永正17年(1520年)12月まで長期にわたる抗争を繰り返すようになる。慶宗の死と同時期に椎名慶胤も為景に殺害され、その後しばらくは越中では一向一揆と長尾氏の勢力が衝突するようになる。天文年間に入ると、神保慶宗の遺児・神保長職と椎名慶胤の遺児・椎名康胤が復活を遂げ、前者は富山城に、後者は松倉城に拠って越中の覇権をめぐって争うようになる。永禄年間に入ると、椎名康胤は越後の上杉謙信の従弟・長尾景直を養子に迎えて後ろ盾にしたため、神保長職は対抗するために謙信の宿敵であった甲斐国の武田信玄と同盟を結んで対抗した。また、信玄は石山本願寺の顕如と縁戚関係にあったことから一向一揆も神保氏に味方する。このため、越中の内乱は信玄派の神保氏と謙信派の椎名氏による、いわゆる武田・上杉の代理戦争という形となったのである。永禄3年(1560年)3月、神保・一向一揆連合軍が松倉城に侵攻する。信濃国平定を目指す信玄が為景の子・長尾景虎(上杉謙信)の矛先をかわすため、両者に要請して起こった合戦であった。越中の権益を守るために謙信は越中に出兵して一向一揆を破り、神保長職が立て籠もった富山城や増山城を落として短期間で越中の大半を制圧した。しかし、直後に北条氏康に圧迫されていた関東諸侯の要請を受けて関東に侵攻することになったため、長職を完全に追討することができず、長職は謙信が関東に出兵していた間に信玄の後援を受けて増山城を奪還して復活した。このため永禄9年(1566年)6月には謙信の第2次越中出兵が行われ、増山城並びにその支城である滝山城を落とされた長職は、再び逃亡した(なお、このときに長職が戦死したという説があり、滝山城付近の蓮花寺に神保腹切りの石がある)。2度にわたって謙信に大敗した神保氏の勢力は大きく翳り、以後は謙信派の椎名氏の勢力が拡大した。ところが永禄11年(1568年)3月、椎名康胤が武田信玄と一向一揆の後援を受けて謙信に反逆するに至る。これは信玄が駿河侵攻のために謙信を牽制する必要があったからである。謙信は大軍を率いて越中に侵攻し、魚津城や金山谷城、松倉城などを次々と落とし、康胤が立て籠もっていた守山城を攻撃したが、越後国内において上杉家の重臣で本庄城主であった本庄繁長が信玄の調略を受けて謀反を起こしたため、椎名氏を追討することができずに帰還することになる。永禄12年(1569年)、本庄繁長の反乱を鎮圧し、北条氏康と同盟(越相同盟)を結んで後顧の憂いを無くした謙信は、8月に第4次越中出兵を行い、椎名康胤の立て籠もった松倉城を攻撃したが、信玄の要請を受けて康胤を支援していた一向一揆の抵抗に悩まされた上、信玄が上野国方面に出兵したため、越後に帰還することを余儀なくされた。このため、逆に椎名・一向一揆連合軍が勢いづいて、上杉主力軍が撤退した後に富山城を奪われる結果となる。元亀2年(1571年)2月、謙信は第5次越中出兵を行い、松倉城や新庄城、富山城を落として椎名康胤を守山城に追いつめたが、武田信玄が再び上野や関東・東海地方に出兵したため、越後に帰還することになり、椎名康胤はまたも息を吹き返すことになった。なお、この頃になると神保氏では長職の次男・神保長城が後継者となり、長城は信玄を後ろ盾とした椎名氏と対抗するために謙信に従属していた。しかし元亀2年(1571年)に一向一揆と和睦して信玄と通じ、謙信と敵対するようになった。信玄の死後、武田氏は越中に介入しなくなったため、謙信の越中出兵、並びに一向一揆や神保氏、椎名氏らによる策動も無くなり、越中は平穏な地域となる。天正3年(1575年)8月、織田信長は越前国に侵攻して一向門徒を大量虐殺するに至った(越前一向一揆)。この信長の脅威に対抗するため、顕如は天正4年(1576年)2月に謙信と和睦する。こうして一向一揆の脅威を無くした謙信は、9月に第8次越中出兵を行った。神保氏と椎名氏は、あくまで一向一揆と武田氏の支援があって謙信に対抗できる小大名に過ぎなかった。このため、神保氏の富山城・守山城は落とされ、椎名氏は蓮沼城を落とされて康胤は殺害された。こうして越中は完全に上杉氏の支配下に入り、同時に戦国時代から始まった国内の内乱も終焉を迎えたのである。越中平定後、謙信は能登に侵攻して七尾城を攻め落とし(七尾城の戦い)、能登を平定する。さらに北上してきた柴田勝家率いる織田軍を手取川の戦いで撃破し、これにより手取川以北は完全に上杉領となった。天正6年(1578年)3月13日、謙信が急死し、養子の上杉景勝と上杉景虎による内争(御館の乱)が起こると、織田信長は柴田勝家に命じて加賀北部から上杉領に侵攻させる。上杉家の内争は長期化した上、能登や越中の諸将も景勝派と景虎派に分裂していたため、加賀北部と能登は天正8年(1580年)までに織田軍に奪われた。越中においては上杉氏の重臣・河田長親が抗戦して織田軍の侵攻を退けていたが、河田が天正9年(1581年)5月に急死したため一変して織田軍の攻勢が強まり、天正10年(1582年)3月には越中の要衝である富山城が陥落。これにより、越中の上杉領は北東部の魚津城、山間部の松倉城のみにまで圧迫される事態となった。上杉景勝は織田軍の越後侵攻を退けるため、魚津城に重臣の吉江宗信を置いて守らせたが(魚津城の戦い)、柴田勝家率いる織田軍の猛攻は激しく、6月3日に魚津城は陥落し、吉江ら上杉軍はことごとく玉砕した。ところが6月2日に本能寺の変が起きて信長が明智光秀のために自害しており、魚津城陥落後に本能寺の変を知った柴田勝家ら織田軍諸将はそれぞれの領国に引き返し、越中は佐々成政が富山城主として統治に当たることとなる。佐々成政は信長没後の織田氏の内争で、一貫して反秀吉派として行動したため、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が自害し、小牧・長久手の戦いで徳川家康・織田信雄らが秀吉と和睦すると、孤立してしまい、天正13年(1585年)8月に越中の役にあって秀吉への降伏を余儀なくされる。その後、越中の大半は前田利家・利長父子に与えられ(一部は土方雄久が江戸時代初期まで領有)、江戸時代には加賀藩が新川郡の大部分と射水郡(氷見郡)・礪波郡を、支藩である富山藩が新川郡の一部と婦負郡を加賀藩の監督の下で統治した。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。