1991年オーストラリアグランプリ(1991 Australian Grand Prix)は、1991年F1世界選手権の最終戦として、1991年11月3日にアデレード市街地コースで決勝レースが開催された。フェラーリはこのレースでアラン・プロストの代わりにジャンニ・モルビデリをエントリーした。フェラーリのマネージングディレクターのクラウディオ・ロンバルディは「プロストはチームの外に向けて、致命的なコメントを出しすぎた」と語った。モルビデリがフェラーリから出走したことで空いたミナルディのシートにはロベルト・モレノが収まった。また、前戦日本GPで足を骨折したエリック・ベルナールに代わり、ベルギーGP前の傷害事件をきっかけにジョーダンのシートを失ったベルトラン・ガショーがラルースからエントリーした。決勝日はスタート進行直前に雨が降り出した。雨脚は激しさを増す一方だったが、スタート進行は着々と進んだ。スタート直前、このレースがドライバーとして最後のレースとなる中嶋悟は、1989年のレース(自身のファステストラップ記録と4位入賞)を思い出し、「あの時と同じ風が吹いている」とうそぶいた。そのまま豪雨の中でスタートしたが、コース上は全く視界が無い状態だった。3周目、ティエリー・ブーツェンに中嶋が接触。中嶋のティレル・020は左フロントウィングを失ってしまう。中嶋は4周目ピットインし、ノーズコーンを交換するが、翌5周目、1コーナーにてハイドロプレーニングにより単独スピン。リアウィングを破損しそのままキルスイッチを扱いリタイアした。その後も天候は悪化し続け、中嶋と接触したブーツェン、ジャン・アレジ、ニコラ・ラリーニ、ミハエル・シューマッハ等が続々スピン・クラッシュ、リタイアしていった。マウリシオ・グージェルミンに至っては、ピットインの最中にピットレーンのヘアピンカーブでスピン、ウォールに激突するという前代未聞のクラッシュを起こし、ナイジェル・マンセルは激しくウォールにヒット、脚を痛めマシンから自力で降りられなくなった。この光景に、トップを走っていたアイルトン・セナは、身を乗り出し片手を大きく振りレース中断を訴え、スチュワードは17周目に赤旗を掲示、レースを中断した。天候の回復を待ち、再スタートのディレイが続けられたが、天候回復の見込みが立たず、最終的にレースはそのまま中止。競技としては14周終了時点の順位でレース成立となった。規定により、与えられるポイントは半分になった。ゲルハルト・ベルガーがホームストレート上で派手にスピンをした際、フジテレビ実況の三宅正治はその様子を「スケートリンク」と形容した。2014年シーズン終了現在、史上最短のF1世界選手権レースである。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。