水谷 実雄(みずたに じつお、1947年11月19日 - )は、宮崎県串間市出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)・コーチ、解説者・評論家。宮崎商1年時の、控え投手として夏の甲子園県予選に出場する。準決勝では先発し本庄高に完封勝利。決勝に進出し清俊彦投手を擁する高鍋高と対戦する。9回にリリーフで登板し4-3で辛勝、夏の甲子園への出場を決める。しかし大会では2回戦で甲府商に敗れ、自身の登板はなかった。2年上のチームメートに高橋博捕手、小川亨中堅手、1年上には山本真一三塁手がいた。翌にはエース、四番打者として夏の甲子園に連続出場。 1回戦で旭川南、2回戦で芝池博明投手を擁する滝川高を降し準々決勝に進出。ここでも熊谷商工に逆転勝ちし準決勝に進む。しかし優勝した高知高の光内数喜(芝工大-鐘淵化学)投手と投げ合い0-1で惜敗。翌夏は県予選で敗れ、甲子園出場を逸する。同年のドラフト4位で広島カープに投手として入団。しかしいきなり腎臓病を患い入院し、1年目の日南キャンプは不参加。以来、「ジンちゃん」の愛称で親しまれる。2年目のに野手転向。当初は三塁手で起用されたが、守備がうまくなかったため外野手に再転向。しばらくは二軍暮らしが続き戦力外リストに入ったこともあったが、上田利治、関根潤三、各コーチらの指導によりに一軍定着。翌には、レギュラー左翼手として規定打席(3位、打率.283)にも達する。これ以後は主力打者として活躍し、の広島初優勝に貢献。優勝を決めた巨人戦ではウイニングボールを掴んだ。またには広島球団としては初となる三年連続の打率3割をマークすると共に、首位打者のタイトルを獲得(打率.348は球団記録)し、山本浩二や衣笠祥雄らとともに赤ヘル黄金時代を築いた。バットのヘッドをピッチャーに向けて威嚇するように構え、ピッチャーの球種を読んで、球を思いっきり振り抜く勝負強い打撃が特徴だった。その後も不動の5番打者として活躍するも、チームが4位に終わったオフ、当時の監督古葉竹識の若返り策で加藤英司との大型トレードにより阪急ブレーブスに移籍。移籍後のは新外国人のブーマー・ウェルズを差し置いて4番・指名打者を任され、130試合フル出場。114打点で打点王を獲得、また36本塁打で自身初のシーズン30本塁打をマークする。しかしのロッテオリオンズとの開幕戦で土屋正勝から頭部に死球を受けて三半規管骨折の重症を負い長期欠場。同年夏に復帰するも、無類の勝負強さを誇った打撃が甦る事はなく、翌1985年のシーズン終了後に現役を引退した。結局最後の2シーズンは不本意なままに終わった。引退後は1986年に関西テレビ解説者・サンケイスポーツ評論家を務めた後、阪急( - 二軍打撃コーチ)、広島( - 一軍打撃コーチ, - 一軍チーフ打撃コーチ)、近鉄(一軍打撃コーチ, 一軍ヘッド兼打撃コーチ)、ダイエー( - 一軍打撃コーチ)、中日(一軍打撃コーチ, - 一軍打撃チーフコーチ)、阪神( - 二軍打撃コーチ)でコーチを歴任。近鉄時代の1995年シーズン途中には、鈴木啓示の監督辞任を受け、同年8月9日からシーズン終了まで監督代行を務めた。阪神退団後は西宮市甲東園にて飲食店を経営している(店名は「鶏処 だれやみ」)。その傍ら、からデイリースポーツ神戸本社の専属野球評論家として活動。2013年より阪神の一軍チーフ打撃コーチに就任。7年ぶりの現場復帰となった。10月14日、球団に辞任を申し入れて退団した。
出典:wikipedia
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