ナルヴィクの戦いとは、第二次世界大戦中、ノルウェーで行われた作戦の一部であり、オフォトフィヨルドでの海戦、ノルウェー北部の町、ナルヴィクを取り囲む山々で行われた陸戦の双方を含んだ戦いのことであり、1940年4月9日から6月8日まで行われた。2ヶ月間、ノルウェー軍、フランス軍、イギリス軍、ポーランド軍らの部隊がドイツ軍、オーストリア軍らの山岳部隊、難破した軍艦の乗員、ドイツ第7航空師団所属第1降下猟兵連隊の第1大隊から派遣された降下猟兵らと戦う間、4月10日から13日までオフォトフィヨルド内でイギリス海軍、ドイツ海軍の間で海戦が2回行われた。ナルヴィクはスウェーデンのキルナ近辺から産出される鉄鉱石を輸送する際、北大西洋の不凍港を提供していた。ドイツ軍、連合軍らはそれぞれ、この鉄鉱石を敵側に渡さないことに関心があり、第二次世界大戦においてポーランド侵攻以来の大規模な戦闘が行われる舞台のお膳立てをしていた 。ドイツ軍の侵入以前にイギリス軍はナルヴィクを冬戦争においてフィンランドを支援、もしくはスウェーデンの鉱山を管理するために上陸できる箇所と考えていた。また、フランスの政治家たちはできるだけフランスから遠い地域に第2の戦線を作成することを望んでいた。1940年3月1日、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーはノルウェー侵攻を命令、ヴェーザー演習作戦 (Unternehmen Weserübung) と命名された。この作戦にはドイツ海軍の大部分が参加し、ノルウェー攻略にあたる艦艇は6つのグループに分けられた。ナルヴィク攻略にあたるグループ1は駆逐艦ゲオルク・ティーレ、ヴォルフガング・ツェンカー、ベルント・フォン・アルニム、エーリッヒ・ギーゼ、エーリッヒ・ケルナー、ディーター・フォン・レーダー、ハンス・リューデマン、ヘルマン・キュンネ、ヴィルヘルム・ハイドカンプ(旗艦)、アントン・シュミットで構成され、フリードリヒ・ボンテ代将が指揮した。各艦にはエデュアルト・ディートルが率いる第139山岳猟兵連隊の陸軍将兵が約200名ずつ、合計1,900名が乗っていた。グループ1は4月6日夜にヴェーザーミュンデから出航し、トロンハイムへ向かうグループ2や巡洋戦艦シャルンホルスト、グナイゼナウとともに北上した。その途中、遭遇したイギリス駆逐艦グロウォームを撃沈した。4月8日夜にロフォーテン諸島沖で2隻の巡洋戦艦と別れてグループ1ヴェストフィヨルドを北上し、4月9日未明にナルヴィクへ通じるオフォトフィヨルドに入っていった。ただ、途中嵐の中を航行する際に特に燃料消費が大きかったエーリッヒ・ギーゼは、燃料節約のため遅れていた。オフォトフィヨルドにはいったグループ1はノルウェーの監視艇Michael SarsとKeltに発見された。ノルウェーの監視艇は、9隻のドイツ駆逐艦がオフォトフィヨルドに入ったと報告した。フィヨルド途中のラムネース水道には要塞があると思われていたためハンス・リューデマンとアントン・シュミットがその攻略に向かったが、実際はそのようなものは存在しなかった。フィヨルドの外へ向かっていたノルウェーの監視艇Senjaがこのドイツ駆逐艦を発見したが、誤ってイギリス駆逐艦と報告した。後でドイツ駆逐艦と修正されたが、その通信は届かなかった。続いてボンテはヴォルフガング・ツェンカー、エーリッヒ・ケルナー、ヘルマン・キュンネの3隻をヘリヤンクスフィヨルドのエルヴェゴール占領に向かわせ、ヴィルヘルム・ハイドカンプとゲオルク・ティーレ、ベルント・フォン・アルニムを率いてナルヴィクへと向かった。もう1隻の駆逐艦ディーター・フォン・レーダーはオフォトフィヨルド入り口で哨戒に当たっていた。ナルヴィクにはノルウェー海軍のノルゲ級海防戦艦アイツヴォルとノルゲが停泊していた。ドイツ駆逐艦のフィヨルド侵入が伝えられていたため、海防戦艦では戦闘準備が整えられていた。4時15分に吹雪の中からドイツ駆逐艦が現れると、港外に停泊していたアイツヴォルは発光信号で誰何したがドイツ駆逐艦からの返答はなかった。そのため警告射撃を行い停船を命じる信号旗を掲げた。この後ヴィルヘルム・ハイドカンプは停止し、ゲルラッハ(Gerlach)中佐と信号手がアイツヴォルへと向かった。ゲルラッハはアイツヴォルのヴィロック(Willoch)艦長と会い、降伏を要求した。ドイツ軍の侵入者に対しては抵抗するよう命じられているため上官と相談する必要があるとヴィロックは述べた。ヴィロックは上官に連絡を取り明確な攻撃命令を受けた。それを告げられたゲルラッハは、アイツヴォルから離れると赤色の信号弾を発射した。この時、ヴィルヘルム・ハイドカンプはアイツヴォルから700m離れた場所にあり、魚雷発射管はアイツヴォルのほうに向けられていた。ボンテはアイツヴォルからの攻撃があるまで攻撃を待とうとしたが、アイツヴォルが体当たりを試みようとしているように見えたこともあり、ヴィルヘルム・ハイドカンプ艦長Hans Erdmenger中佐が魚雷発射命令を求め、ボンテも許可した。ヴィルヘルム・ハイドカンプは4本の魚雷を発射し、その内2本ないし3本が命中した。アイツヴォルは弾薬の誘爆と思われる爆発を起こし、沈没した。4時37分のことであった。艦長以下177人(または115人)が死亡し、生存者は8人であった。一方、ゲオルク・ティーレとベルント・フォン・アルニムは停船せず、港内に入って兵員を上陸させ始めた。港内に入ってくる2隻のドイツ駆逐艦はノルゲから視認されたが、すぐに雪の中に消えてしまった。続いてアイツヴォルが爆発した音が聞こえたが、やはり何も見えなかった。4時45分に再びドイツ駆逐艦が確認できると、ノルゲのペール・アスキム(Per Askim)艦長は砲撃を命令した。ノルゲは800mの距離で、21cm砲弾5発と7から8発の15cm砲弾を発射したが命中しなかった。ベルント・フォン・アルニムが12.7cm砲で応射したが、こちらも命中しなかった。続いてベルント・フォン・アルニムは7本の魚雷を発射し2本が命中した。ノルゲは転覆し沈没した。アスキムを含め96人が救助されたが、105人が死亡した。ナルヴィクは上陸したドイツ軍により占領された。ラムネース水道で分派された駆逐艦はそこに兵員を上陸させたが、要塞が無いとわかると再び兵員を収容しナルヴィクへと向かった。ナルヴィク占領に成功すると、ドイツの駆逐艦は帰路のための燃料補給を開始した。本来なら事前に2隻のタンカーが到着しているまずであった。しかし、ナルヴィクにはヤン・ヴェレム(Jan Wellem、11,776トン)しか到着していなかった。ヤン・ヴェレムは4月6日にソ連領内にあったドイツの基地Basis Nordを出発し4月8日にナルヴィクに到着していた。もう1隻のタンカーカテガット(Kattegat、6,031トン)は4月3日にヴィルヘルムスハーフェンを出発したが、4月10日朝にノルウェーの哨戒艇ノールカップ (Nordkapp) に発見され自沈していた。ヤン・ヴェレムは元々は捕鯨母船であり、給油能力が低かった。給油は同時に2隻までにしか行えず、しかも十分な量給油するのに8時間も要した。ドイツ軍の侵入後、イギリス海軍はドイツ海軍を撃破するチャンスを得た。第2駆逐艦隊(司令官バーナート・ウォーバートン=リー()にはH級駆逐艦5隻(ハーディ(旗艦)、ホットスパー、ハヴォック、ハンター、ホスタイル、ドイツ駆逐艦より小型であった)は早朝、フィヨルドをさかのぼった。警戒を行っていたドイツ駆逐艦、ディーター・フォン・レーダーはこれを誤認したため、持ち場を離れた。そしてイギリス小艦隊がナルヴィクに接近、ドイツ艦隊を驚愕させ、これと港の入り口で交戦、ドイツ海軍のヴィルヘルム・ハイドカンプ、アントン・シュミットを撃沈、ディーター・フォン・レーダーを大破させ、その他の2隻に小規模な損害を与えた。イギリス艦隊は陸上のドイツ侵攻部隊とも交戦したが、上陸部隊が搭乗していなかったため、立ち去るために転回した。イギリス海軍による港への攻撃の間、鉄鉱石を満載した貨物船6隻も沈没した。戦いが始まったとき、合計で25隻がナルヴィク湾に碇を下ろしており、そのうち、10隻がドイツ船籍であった 。イギリス艦隊はその後、ヘリヤンクスフィヨルドから出てきたエーリッヒ・バイ率いるドイツ駆逐艦3隻(ヴォルフガング・ツェンカー、エーリッヒ・ケルナー、エーリッヒ・ギーゼ )と交戦、その後、フリッツ・ベルガー率いるゲオルク・ティーレ、ベルント・フォン・アルニムの2隻がバランゲン()より到着した。引き続いて戦闘が発生、魚雷攻撃を受けたイギリス駆逐艦、艦隊旗艦ハーディ(火を噴いた後、浜へ乗り上げた)ハンターの2隻が撃沈された。また、ホットスパーも魚雷で大損害を負った。ホットスパーと残りの駆逐艦は戦場から退避したが、ドイツ駆逐艦ゲオルク・ティーレも損害を負っていた。ドイツ駆逐艦は燃料と弾薬の不足のため、これを追撃し続けることができず、イギリス艦隊はフィヨルドの出口で遭遇したドイツ弾薬輸送船ラウェンフェルス(Rauenfels、8460トン)を撃沈した。すぐにドイツ艦隊は巡洋艦ペネロピ (軽巡洋艦・2代)を含むイギリスの増援艦隊によって行く手をふさがれ、4月11日、エーリッヒ・ケルナーは暗礁に乗り上げ、座礁した。イギリス駆逐艦がベストフィヨルド()から出てナルヴィクを去ったため、ドイツ潜水艦2隻(U-25、U-51)はイギリス艦隊に対して魚雷攻撃を行ったが、当時のドイツの魚雷は磁気信管に重大な問題を抱えており、-おそらく、高い緯度のために-全ての魚雷攻撃は失敗に終わった。ヴィルヘルム・ハイドカンプに座乗していたドイツ艦隊司令官フリードリッヒ・ボンデ、ハーディに座乗していたイギリス艦隊司令官バーナート・ウォーバートン=リーらは共に戦死、ウォーバートン=リーはヴィクトリア十字勲章、ボンデは騎士十字章をそれぞれ授与されたイギリス海軍はナルヴィクにおいてドイツ軍を撃破することが士気と戦略的目的のために避けられないと判断、ウィリアム・ホイットワース中将は戦艦ウォースパイトと駆逐艦9隻(4隻がトライバル級駆逐艦:、コサック、パンジャビ、。5隻は、、イカルス、フォレスター()、フォックスハウンド()、空母フューリアスの航空機らとともに派遣された。イギリス艦隊がオフォトフィヨルドに到着するとエーリッヒ・バイに率いられたドイツ駆逐艦8隻(燃料と弾薬不足のために実質的に足止めされていた)と遭遇した。戦いの初期段階で近辺のフィヨルドにおいて、ウォースパイトから飛び立ったフェアリー ソードフィッシュは停泊していたドイツ潜水艦U-64を爆撃、これを撃沈した。大部分の乗組員は生き残り、ドイツ山岳部隊によって救い出されたが、これは第二次世界大戦初の航空機に撃沈されたUボートとなった。引き続いて発生した戦闘において、ドイツ駆逐艦の内、3隻がウォースパイトとその護衛艦により撃沈、残りの5隻も燃料と弾薬が尽きたため、自沈した。エーリッヒ・ケルナーは最初、連合軍の艦隊を待ち伏せしようとしたが、ウォースパイトのソードフィッシュがこれを発見、その後、魚雷攻撃を受け、イギリス海軍の戦艦、駆逐艦の砲撃を受けた。その後、ドイツ駆逐艦ヴォルフガング・ツェンカー、ベルント・フォン・アルニム、ヘルマン・キュンネらもイギリス海軍と交戦したが、イギリス駆逐艦ベドウィンに軽い損害を与えただけであった。イギリス空母フューリアスから飛び立ったイギリス軍機はドイツ駆逐艦を攻撃しようとしたが、不成功に終わり、2機を失った。ヴォルフガング・ツェンカーはウォースパイトを魚雷攻撃しようとしたが失敗に終わった。最終的にドイツ駆逐艦は弾薬不足のため、命令が届かなかったヘルマン・キュンネ以外は撤退した。イギリス駆逐艦エスキモーはヘルマン・キュンネを追撃して砲撃を行ったが、これは命中しなかった。損害はなかったが、弾薬が尽きたため、ヘルマン・キュンネはヘリヤンクスフィヨルドのトロユドヴィク()で自沈した。自沈した後、船内に爆薬を仕掛け、ヘルマン・キュンネを浅瀬の中に沈めようとした。エスキモーはまだ攻撃態勢のまま、ヘルマン・キュンネを緊急追跡し、魚雷攻撃を行った。ヘルマン・キュンネを爆発させたのは設置した爆薬か、それともエスキモーからの雷撃かは今や関係なく、また、誰も知らない。エスキモーはドイツ駆逐艦ゲオルク・ティーレ、ハンス・リューデマンらに順番に待ち伏せを受け、船首を失ったが、生き残った。機関に問題を抱えていたディーター・フォン・レーダー、エーリッヒ・ギーゼ はドックに入渠していたが、イギリス艦隊へ砲撃、イギリス駆逐艦パンジャブ、コサックは損害を受けたが、再度、攻撃するまえに沈没した。これがドイツ海軍の最後の反撃となり、残りのドイツ駆逐艦はまもなく撃沈された。港の中で生き残った唯一のドイツ艦船はU-51のみであった。海岸の火砲、施設はウォースパイトの砲撃で大きな損害を受けた。連合軍側ではイギリス駆逐艦エスキモーが損害を受けており、1940年5月31日までノルウェーに滞在した。ドイツ潜水艦は魚雷の不具合で苦しんでおり、4月14日、U-46、U-48は出港したウォースパイトへ攻撃を行った。ドイツ軍は1,000名と駆逐艦ヘルマン・キュンネ、ヴォルフガング・ツェンカー、エーリッヒ・ケルナー、ゲオルク・ティーレ、ベルント・フォン・アルニム、エーリッヒ・ギーゼ、ハンス・リューデマン、ディーター・フォン・レーダーらを失った。難破したドイツ人の多くがイギリス艦隊の火砲と機関銃で攻撃され、約2,6000名の生存者は即興の海軍歩兵部隊(Gebirgsmarine)を編成、第139山岳猟兵連隊と共に戦った。ナルヴィク周辺の山岳地形での戦いに適していないが、艦艇を失った乗組員らは海戦の間沈んだ船より、2門の10.5 cm FlaK 38、11丁の軽機関銃をサルベージ、防衛戦を行った。海軍兵たちはナルヴィク周辺でノルウェー軍が動員のためにElvegårdsmoenの軍事基地にストックしていたクラッグ・ヨルゲンセン・ライフル8,000丁と機関銃315丁を手にいれ、武装したナルヴィクの海戦後、連合軍はナルヴィクを手中に収めることが不可能であったため、結局、港とその周辺はドイツ軍の占領下のままであった。ナルヴィクは連合軍の主要目標ではなかったため、連合軍の艦隊による活動は、この時点で岸への砲撃に限られていた。その中にはポーランド駆逐艦グロム、ブルザ、ブリスカヴィカが参加しており、そのうち、グロムは1940年5月4日、ドイツ軍の航空機の攻撃を受け、沈没した。北欧侵攻の間、ナルヴィクとその周辺ではまず最初に4月9日からドイツ軍とノルウェー軍との間で重要な戦いが開始、、連合軍の遠征部隊らと共にノルウェー第6師団によって6月9日まで行われた。ノルウェー南部での作戦と違い、ナルヴィクの連合軍はノルウェー軍より数が多かった。5カ国が参加しており、5月5日から10日まで、ナルヴィク周辺での行われた戦いはその当時、第二次世界大戦の地上戦で唯一活発な活動であった。初期の段階で、ドイツ軍指揮官エデュアルト・ディートルの地位は低く、配下の将兵は2,000名より多いぐらいであった。ドイツ駆逐艦が沈没した後、約2,600名の乗組員は陸上戦に参加した。さらにドイツの専門家290名が医療関係者の振りをしてスウェーデン経由で到着、この3,4週間の間にドイツ軍は1,000名をBjørnefjell上で降下させ、このようにしてドイツ軍は総勢5,000名まで増加した。彼らの位置、展望は数回、良い状況からひどい状況へと変化していた。伝えられる話ではドイツ総統アドルフ・ヒトラーの気分は激しく揺れており、何度か繰り返し撤退を考えていた。時折、全体の作戦はベルリンの国防軍最高司令部により直接、命令された。カール・グスタフ・フライシャー()配下のノルウェー軍は2,3週間後、結局、8,000から10,000名に達していた。作戦中、連合軍の総数はナルヴィク内外で24,500名に達していた。侵入の初期段階はドイツの驚くべき進撃が特徴であった。ノルウェー北部のノルウェー軍は1939年から1940年にかけての冬、3ヶ月間、中立を宣言しており、彼らは共に訓練を受けていた。4月9日から25日の間、ノルウェー軍は3つの大惨事に見舞われていた。第1に、ナルヴィクを防衛している部隊は侵入者と戦うことを拒否する指揮官、(後、ノルウェーの親ナチス組織指揮官となる)が戦うことを拒否、ドイツ軍への抵抗が行えなかったこと。第2に、捕虜となった人のほとんどがBjørnefjellで休む間、捕虜となることを逃れてスウェーデンへ向かう鉄道を封鎖していたナルヴィク守備隊の将兵約200名らが奇襲によって捕虜となったこと。第3にGratangsbotnへ派遣されたいわゆる「Trønder battalion」は宿営中に奇襲を受け、士気をくじかれ、多大な犠牲を負った。そして、その後の作戦に加わることはできなかったことであった。北上するノルウェー軍の圧力と困難な輸送状況のために、グラタンゲンの戦い()において、ドイツ軍はGratangsbotnを放棄してLapphaugentoとGratangsdalenの谷から撤退した。5月初旬、ノルウェー北部のノルウェー軍は南のナルヴィク方面へ前進を開始した。5月半ばにナルヴィクへ連合軍がナルヴィクへ主要な侵略を行うということが一旦、確実になったため、ノルウェー軍は移動先をBjørnefjellへ変更した。イギリス軍は4月14日、初めて到着、ハーシュタに本部を置いた。翌日、3個大隊が主に、(海軍基地が設立された)、ボーゲン()へ配置された。後に彼らはオフォトフィヨルドの南、バランゲン、に展開した。5月、大部分のイギリス軍はナルヴィクから撤退、ドイツ軍の進撃を遅らせるためにヌールラン方面の南へ移動した。最初のイギリス派遣部隊はフランス遠征軍(指揮官)が4月28日、補強した。アルペン部隊の3個大隊と第13外人准旅団の2個大隊はオフォトフィヨルドの南北に配備され、後に北方はフランス軍の主要作戦地域となった。5月9日、ポーランド大隊が到着、オフォトフィヨルド北部に最初は展開していたが、後にフィヨルド南部へと移動、6月初旬、ポーランド大隊はズィグムント・ボフシュ=シシュコの元でポーランド独立山岳旅団を編成した。加えて、連合国はナルヴィクと鉄鉱石を運ぶ鉄道を取り戻す方法を決定することに困難が付きまとい、連合軍の統一した指揮系統がナルヴィクには存在しなかった。連合軍とノルウェー軍はそれぞれ別の指揮官を保持しており、また、お互いの協力関係も必ずしも潤滑なわけではなかった。また、イギリス軍内部においても、陸軍指揮官(ピアーズ・J・マッケーシー( Pierse J. Mackesy )と海軍指揮官(ウィリアム・ボイル()らはそれぞれ、マッケーシーがオフォトフィヨルド両側からの慎重な接近を主張、ボイルは海からの素早い直接攻撃を主張、そのため協力が困難であった。結局、イギリス海軍司令官ボイルが連合軍の全ての指揮権を与えられた。5月の2週目、ドイツ軍の東、Gratangseidetへのノルウェー軍の進撃はナルヴィク戦線における最も重要な活動であった。その上、ノルウェー軍の右側面ではフランスのアルペン猟兵部隊がノルウェースキー中隊の支援を受けて、ラバージュの谷へ進んでいた。オフォトフィヨルド南部では連合軍はあまり成功を収めておらず、また、オフォトフィヨルド北部では作戦行動を行っていなかった。ノルウェー軍は山岳での作戦に成功し続け、5月半ば、連合軍は主導権を奪い、重要な勝利を成し遂げた。パリとロンドンの両政府はナルヴィク戦線における進歩が遅いことによりいらいらしており、そのため、フランス軍の指揮官はより多くの行動を取るよう迫っていた。慎重に上陸を行うことは断念され、5月12日真夜中、陸海空共同による攻撃が開始された。この攻撃はBjerkvikへ向けられ、ヘリヤンクスフィヨルドでイギリス海軍による砲撃の後に行われた。フランス外人連隊は軽戦車5両の支援を受けた上で岸に上陸した。フランス軍はBjerkvik、Elvegårdsmoen駐留地を占領、ドイツ軍が撤退した北西方面へ進撃、そしてHerjangsfjordの東側に沿って南へ移動した。計画ではポーランド部隊はフィヨルド西側へ上陸した後、Bjerkvikの方へ進撃することになっていたが、複雑な地形は彼らの進撃を遅らせることとなり、Bjerkvikが占領される前に到着することができなかった。それはフランス軍とノルウェー軍がドイツ軍を包囲するために北から進む計画の一部であったが、ノルウェー軍とフランス軍の指揮官らの協力関係問題はドイツ軍が撤退できる隙間を残すこととなった。これらの問題にも関わらず、連合軍はナルヴィク北方の見通しが利く場所を占領した上で、ロンバックスフィヨルド(Rombaksfjord)上で攻撃する予定であった。また、連合軍はバルドゥフォス()からの航空支援が完全に確立されるのを待ったため、攻撃開始が遅れていた。5月28日23時40分、海軍による砲撃が北から開始された。フランス軍2個大隊とノルウェー軍1個大隊はロンバックスフィヨルド対岸へ輸送され、北からナルヴィクに向かって進撃した。南側ではポーランド大隊がアンケネス()とベイスフィヨルド()方面へ進撃していた。上陸用舟艇の最大定員は290名であったが、これらの部隊は45分間、補強することができなかった。残りのフランス軍、ノルウェー軍の部隊が上陸する頃までに、これら最初に上陸した部隊はオルネス(Ornes)で足場を確保していた。フランス軍は都市の方へ西進、そして鉄道に沿って東進した。ノルウェー軍はTaraldsvik山の方へ進撃、その後、転進して都市のほうへ山を下った。ドイツ軍指揮官は午前7時前に撤退を決定、ベイスフィヨルドに沿って退却、連合軍は陸上で初の大きな勝利を得ることとなった。その時、ドイツ軍の降伏は時間の問題と思われていた。ドイツ軍は北からノルウェー軍、西からフランス軍、南西からポーランド軍の攻撃をそれぞれ受けていた。Bjørnefjellがドイツ軍最後の地となりそうであったが、ヨーロッパの他の地域で発生した出来事が彼らを救い出すこととなった。ロンドンでは軍を撤退させることを5月24日、決定したが、翌日には発覚した。5月24日から25日にかけての夜、コーク卿は撤退命令を受けたが、隠れたドイツ軍が撤退を防ごうとした。連合軍の指揮官はナルヴィクへの攻撃を行うことにより、撤退を偽り、鉄鉱石の積み出し港を破壊することに同意した。ノルウェー政府と軍司令官は6月初旬にそのことを始めて伝えられ、ニュースは疑惑と苦痛で迎えられた。ノルウェー軍は単独でもドイツ軍と戦うことを望んでおり、つい6月5日ごろ、2個ノルウェー旅団のうちの片方に攻撃を命令した。ノルウェー政府も中立政策を行うべきか、自由北ノルウェーを設立するか可能性を探っていた。しかし、この計画は無駄に終わり、6月7日、ノルウェー国王、ノルウェー政府はイギリスへと亡命した。1940年6月4日から8日の間に全ての連合軍部隊はナルヴィクから撤退した。ポーランド客船3隻(ソビエスキー、、フラブルィー)が避難活動に参加した。フラブルィーは5月14、15日のドイツ軍の爆撃で沈没した。6月7日、ノルウェー政府はノルウェー国内での戦闘を放棄、イギリスへの亡命を決定、夕刻にはノルウェー国王、皇太子、政府閣僚はイギリスへ向けて出発、6月8日、ディートルはナルヴィクを奪還、6月9日、ノルウェーに残留することを選んだノルウェー国防軍最高司令官ルーゲはドイツ軍最高司令部に休戦の申し込みを行った。その日の夕刻、ノルウェー国王及び政府は声明として、国は離れるがノルウェーの独立を取り戻すための戦いは放棄せず、国外での闘争を選んだことを発表した。そして6月10日、ノルウェー最後のノルウェー軍は降伏した。連合国軍がノルウェー北部から撤退している頃、ドイツ軍もノルウェーである作戦を開始していた。それはノルウェー北部のドイツ軍支援を目的としたものでユーノー作戦といい、ドイツ海軍の巡洋戦艦シャルンホルストとグナイゼナウなどが出撃した。6月8日、ノルウェーから撤収させる戦闘機を輸送中のイギリス空母グローリアスがシャルンホルスト、グナイゼナウと遭遇し、護衛の駆逐艦2隻とも撃沈された。ただ、ドイツ側もシャルンホルストが被雷したため、撤退中の船団は攻撃を免れた。連合軍の攻撃はゆっくり始まった。ドイツ軍とことなり、連合軍にはノルウェーでの作戦目的が存在しておらず、そのため、同程度の判断がなされたため、作戦も進まなかった。ドイツ軍4月8日に採掘作戦を実行したとき、ノルウェー侵攻を行い、ドイツ軍の部隊、必要物資が舟に詰まれる前にイギリス軍はナルヴィクへの上陸作戦を立案した。北へ向かうドイツ船が発見された時、これらは急いで船から降ろされた。イギリス軍はドイツの船がドイツの港で罠にかけられることを避けるために大西洋へ侵入しようとしていると考えていた。合理的解釈の後、イギリス軍は利用できる全てのイギリス船がドイツ艦隊を迎撃することを望んでいた。これに伴う混乱が数週間、軍に付きまとい、部隊と軍需品は上陸地点が定まらない状態でノルウェーへ輸送され、途中、命令が変更されることも存在した。連合軍は多数の大小入り混じったフィヨルド、湾に戸惑い、作戦活動を開始するのに最適な場所について決定することができなかった。その上、イギリス、フランス、ポーランドの部隊は互いに素早く撤退した。寒さと雪はナルヴィクに滞在した全ての部隊の共通の敵であり、さらに連合軍の大部分は十分な装備を保持していなかった。ノルウェー軍はスキーを完全装備しており、それらを利用できる唯一の部隊であった。イギリス軍もスキーを利用しようとしたが、訓練が足りず、またその装備の供給も不足していた。ドイツ軍の水兵らもこれらの問題に取り組み、ドイツ軍、フランス軍の山岳部隊でさえ、ほんの少しの部隊のみがスキーを備えていた。大部分の部隊は戦闘経験が無くかったが、それに対し、ドイツ山岳部隊はポーランド侵攻に参加しており、Bjørnefjellで降下した降下部隊の幾人かはオランダの戦いに参加していた。フランス外人部隊の幾つかは北アフリカ戦線から直接派遣され、一部のポーランド将校はドイツのポーランド侵攻で戦っていた。連合軍は作戦の最終段階まで制海権、制空権を手中にしていたが、それをフル活用することはなかった。ドイツ軍は海戦で負けはしたが、作戦の主要目的を果たした-侵攻の成功とノルウェーの占領を。ナルヴィク周辺でのドイツ海軍の損失は多く、駆逐艦10隻(ドイツ軍の全駆逐艦の半分)と潜水艦1隻、そしていくつかの支援船を失った。その引き換えに、連合軍の駆逐艦2隻を撃沈、他の数隻に損害を与えた。この敗北の理由は、ドイツ駆逐艦がたとえ、十分な補給物資を持っていたとしても、迅速な撤退ができないようになっていたドイツ軍の計画にあった。これはドイツ駆逐艦の設計思想により、さらに増幅されており、比較てき大柄なサイズと強化された武装にも関わらず、積むことのできる燃料、弾薬は不十分であった。一方、地方戦線での海戦で議論の余地がないくらいの勝利を得たイギリス軍ではあったが、陸上での作戦をフォローする準備が未だ、できていなかった。これはドイツ軍がノルウェーにおける足場の強化を許すこととなり、以降の連合軍の反撃侵攻をより困難にした。「Nord-Norsk Fredssentse」は1940年の戦いを背景して1990年に設立された。
出典:wikipedia
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