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セントサイモン

セントサイモンあるいはサンシモン ("St. Simon") は、19世紀末に活躍したイギリスの競走馬である。以後のサラブレッドに絶大な影響を残した馬で、史上もっとも偉大なサラブレッド種牡馬と言われることもある。異名は「煮えたぎる蒸気機関車」 (Blooming steam-engine) 。馬名表記は、由来による「サンシモン」、現在の英語による「セントサイモン」の2通りあるが、この記事ではより一般的な「セントサイモン」で統一する(詳細は下記参照)。デビュー前は見栄えのしない馬体や血統のため期待されておらず、さらに元の馬主が死亡したため当時のルールによりクラシックを戦う事はできなかった。代わりに下級戦やマッチレース、古馬の上級戦に出走を続け、10戦無敗の成績を残した。殆どのレースが圧勝で、アスコットゴールドカップやグッドウッドカップは20馬身差の勝利だった。クラシックへの出走は無かったものの、グッドウッドカップで同世代のクラシックホースを軒並み蹴散らしている。1886年から種牡馬となった。セントサイモンは種牡馬として空前の成功を収め、牡馬と牝馬で1頭ずつの三冠馬を産出し、クラシックを全勝した年(1900年)すらあった。その血統はイギリスに留まらず世界中に拡散し、サラブレッドの血統に多大な影響を残した。27歳の時に心臓麻痺で死亡するが、その後半世紀を待たずにセントサイモンの血を持たないサラブレッドはほぼ姿を消した。現在セントサイモンの血を持たないサラブレッドは存在しない。サラブレッドの血統表中でセントサイモンが占める割合は大きい。ヴァイエが20世紀初頭にイギリスの大レース勝ち馬の12代血統表中の遺伝的影響を数値化したところ、19世紀以降の馬ではセントサイモンが最大であった(次点はガロピン)。また、2008年にサラブレッドタイムズで発表された同様の研究でもノーザンダンサーを上回りセントサイモンが最大であった。なお、後者の研究では、セントサイモンの影響が強いヨーロッパではなく主にアメリカの馬が調査対象となったこと、13代以前の馬は対象外となるため古い馬の数値は見かけ上低下するといった不利な事実にもかかわらず、現代の米国血統表において最も影響のある種牡馬であったと注記されている。馬名はバッチャーニが傾倒していたフランスの社会主義思想家・アンリ・ド・サン=シモンが由来。日本では「セントサイモン」と呼称される場合が多いが、由来に従い「サンシモン」と表記する場合もある。セントサイモンは、1881年にイギリス・東部イングランド・サフォーク州にあるニューマーケットの近くでセントアンジェラの8番目の仔として生まれた。父はエプソムダービー馬ガロピン。生産者はハンガリーの貴族バッチャーニ・グスターヴである。彼は1838年にイギリスに帰化した後、1843年には自分の牧場を開いた。1859年にはジョッキークラブの一員となり、1875年にはガロピン (Galopin) でエプソムダービーを制したが、この頃から心臓を患うようになっていた。バッチャーニのお気に入りだった父ガロピンは、負ける姿を見させたくないという側近の配慮によりその年限りで引退し、翌年からウィリアム・バローズの牧場で種牡馬生活へと入っている。だが、血統の悪さや、気性難で知られていたブラックロック (Blacklock) のインブリードを持っていたことにより全く人気がなく、初年度100ギニーだった種付け料が翌年からは50ギニーへと下げられている。交配相手も年に10数頭と少なく、しかもバッチャーニの所有馬ばかりという有様であった。そんな中、バッチャーニよってセントサイモンの母セントアンジェラ (St. Angela) はガロピンと何度か交配された。1879年には後にエクリプスステークスを連覇するオームの母アンジェリカ (Angelica) が生まれ、セントアンジェラが16歳となる1881年にはセントサイモンが生まれている。セントサイモンが仔馬の頃どのような馬であったかについては殆ど伝えられていない。僅かにドーソンが「厩舎に来たばかりのころはまるで牛のように鈍重で、兎のような動きをする目立たない馬だった」と述べている。2歳になるとバッチャーニが傾倒していたフランスの社会主義思想家「アンリ・ド・サン=シモン」から名前をもらい「セントサイモン」と名付けられた。だがその年の5月、生産者そして当時の馬主であるバッチャーニが、自身の持ち馬ガリアードが優勝した2000ギニーの僅か30分前に心臓麻痺で急死する。そのためセントサイモンを含むバッチャーニの持ち馬は7月のジュライセールに上場された。このセールには4年前にポートランド公爵とその財産・牧場を相続したウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクと、その持ち馬を管理していた調教師マシュー・ドーソンがフルメンという名の馬を手に入れるために訪れており、その馬が高くて買えなかったため何か気になるところのあった隣の馬房のセントサイモンを1600ギニーの手ごろな価格で競り落とした。1600ギニーと手ごろな値段になった理由として、成長後で体高(肩までの高さ)16.1ハンド(約164cm)の雄大な馬格を誇っていたものの、胴が詰まりのろのろと歩くその様は見栄えのいいものではなかったこと、血統の悪さ、さらに既にクラシック登録(正確にはバッチャーニの方針により元々2000ギニーにしか登録がなかった)、及びフュチュリティ等の主要2歳戦の登録が締め切られ、その登録が馬主死亡のため無効(1928年にこの規則は廃止)になり出走権が失われたこと等が災いした。また、バッチャーニの元でセントサイモンを管理していたジョン・ドーソン(マシュー・ドーソンの兄)がこの馬を手放したくなかったためわざと太らせた上で汚くして見栄えを悪くしていたという話もある。このセールでは父ガロピンが8000ギニーでヘンリー・チャップリンに売却され、母セントアンジェラが320ギニーでレオポルド・ド・ロスチャイルドに売却されフランスに渡っている。父ガロピンについては前述(#出生)、詳細についてはガロピンを参照。父系はエクリプス系の中でも傍流のキングファーガス (King Fergus) →ハンブルトニアン (Hambletonian) の流れをくんでいる。この系統はセントサイモンの登場と同時期にガリアード (Galliard) やサンドリッジ (Sundridge) なども種牡馬として成功し隆盛を極めた。母セントアンジェラはバッチャーニの生産馬、現役時代は8戦して1勝を上げていた。産駒はセントサイモンを含め5頭が勝ち上がっている。血統背景は父が英リーディングサイアーであるキングトム (King Tom) が目立つくらいで、母アデライン (Adeline) も1勝馬、その産駒で勝ち上がった者は4頭と平凡であった。これらが属す牝系は後に11号族のc分枝に分類された。その他血統構成は、父でインブリードされていたブラックロック(強烈な気性難で知られる)がさらに重ねられ、その息子ヴォルテール (Voltaire) と合わせ、父方に向かって近交が行われている。その他サルタン (Sultan) 、サーピーターティーズル (Sir Peter Teazle) 等ヘロド系の影響も強いが、当時流行していたストックウェル (Stockwell) 、ニューミンスター (Newminster) 、ハーミット等の血を殆ど含んでいない。当時としても全く見るべき所のない血統であるが、逆に一旦成功してしまえば殆どの繁殖牝馬とインブリードを気にせず配合できるといった血統上の利点も持っていた。"血統表及びその見方については競走馬の血統#血統表を参照"7月中にはドーソンのヒースハウス(ニューマーケット)へと移り調教を受け始めた。最初の頃はさえない動きしか見せなかったが、徐々に能力の片鱗を見せ始め、7月31日にグッドウッド競馬場のハイネイカーステークスでデビューすると、フランスの実績馬リシェリュー (Richelieu) を6馬身差で下し初戦を楽に逃げ切った。登録後に勝利したため翌日の未勝利戦では60.3kgのハンデをペナルティとして課せられるが、危なげなく勝った。続くデヴォンシャーナーサリーステークス、プリンスオブウェールズナーサリーステークスも楽勝し、この時翌年2000ギニーで2着になるセントメダル (St. Medard) を下している。10月には出走できるレースがないのでセントサイモンと同期で既にリッチモンドステークス等に勝ち頭角を現していたデュークオブリッチモンド (Duke of Richmond) との500ギニーを賭けたマッチレースが行われた。この時にデュークオブリッチモンドを管理していた調教師ジョン・ポーターは、セントサイモンの様な血統も悪く実績も無い馬と対等に扱われたことが気に入らなかったらしく、「スタートしたらすぐに飛び出して、あの乞食野郎の喉を掻き切ってしまえ!」と言い、さらにドーソンも「奴らにその台詞をそのままお返ししてやれ」と怒鳴った。レースはセントサイモンの一方的な展開になり、スタート後瞬く間に差を広げると2ハロン(約400 m)通過時点で20馬身(約50 m)もの差をつけた。主戦騎手を務めるフレッド・アーチャーはその時点で手綱を引き、対戦相手に実力差を見せつける様にデュークオブリッチモンドが追いつくのを待ってから正確に3/4馬身差を保ちつつゴールした。レース後にドーソンは「セントサイモンは私が調教した最強の2歳馬だ、おそらく史上最高の競走馬になるはずだ」とコメントしている。翌3歳になると、クラシックには出走できなかったためセントサイモンは古馬に挑んでいる。まず、当時イギリスで大レースを勝ちまくり、最強とされていたトリスタン (Tristan) とのマッチレース(無賞金の非公式戦、ペースメーカーが各1頭)が組まれ、これを易々と下した。次に出走したアスコットゴールドカップ(Ascot Gold Cup、芝20ハロン)はこの時代イギリスで権威の高い競走であったが、セントサイモンは破天荒なレースぶりで圧勝している。この時は体重調整がうまくいかなかったためアーチャーは乗れず、代わりにアーチャーには及ばないものの、この年のエプソムダービーでハーヴェスターを勝利に導いた名手チャールズ・ウッドが騎乗していた。スタート直後は後方を進んでいたものの、残り6ハロンで手綱を緩めるとよほどストレスがたまっていたのか制御が不可能になり、全馬一気に抜き去るとそのまま前年の勝ち馬トリスタンに20馬身の差をつけて勝利した。さらに、セントサイモンはゴール後も騎手の制止命令を振り切り暴走を初め、1マイルも疾走し続けた。結果的に最後のレースとなったグッドウッドカップ(Goodwood Cup、芝20ハロン)では、前年のセントレジャーステークス馬オシアン (Ossian)、前前年のグッドウッドCの勝ち馬フライデイ(Friday)、セントサイモンと同世代のクラシックホース3頭(2000ギニー馬Scot Free、ダービー馬Harvester、後のセントレジャー馬The Lambkin) らを相手に20馬身もの差をつけ勝利している。このレースを最後に引退、奇しくもデビュー戦と同じ7月31日であり、僅か1年の現役生活に終止符を打った。この他、3歳春のトライアルレースではビジイボディ(Busybody、二冠牝馬)、ハーヴェスター(Harvester、ダービー馬)と対戦している。まるで相手としなかったばかりか、拍車を掛けられたセントサイモンはこの2頭を置き去りにしてしまった(#その他のエピソード)。グッドウッドカップでも2000ギニー、ダービー、セントレジャー馬を一網打尽にしており、ダービーでハーヴェスターと同着だったセントガティアン以外のクラシック馬を全て破っていることになる。引退後は1886年から種牡馬生活を開始した。急に環境を変えないよう配慮されたため、まずはニューマーケットにあるドーソンのヒースファームで供用され、翌年からはポートランド公のウェルベックアベースタッドに移った。種牡馬としては1907年まで供用され、その後も元気に過ごしていたが、1908年4月2日彼の朝の運動のすぐ後に心臓発作で倒れ死亡した。27歳であった。骨格はロンドン自然史博物館、蹄はジョッキークラブとヨーク競馬博物館にひと組ずつ展示されている。墓標はウェルベックアベースタッドにある。その他、イギリスのニューベリー競馬場では、秋にセントサイモンを記念するセントサイモンステークス(芝12f5y)が行われている。種牡馬となったセントサイモンは初め50ギニーの種付け料で供用され、翌年100ギニーに引き上げられた。初年度の産駒が2歳になった1889年に種牡馬ランキング3位につけると、翌年はメモワール、セモリナの2頭がクラシック競走を制し、2世代のみでリーディングサイアーの座に着いた。1892年にはラフレッシュが牝馬三冠を制覇し、その後もパーシモン、セントフラスキン等の活躍により7年連続リーディングを維持した。1897-1899年の3年間は2位(1位ケンダル)、5位(1位ガロピン)、3位(1位オーム)と低迷するも、1900年と1901年には再びリーディングを奪取した。この間種付け料も徐々に上がり、1899年に500ギニー、1901年には600ギニーすら付けた。ポートランド公がセントサイモンから得た収入は24万ポンドを超えたとされている。1901年の種付け料600ギニーは前年の活躍による。この年は勝利数こそ27勝と低調に終わったが、史上唯一の五大クラシック全勝、その他の主要3歳戦であるプリンスオブウェールズステークス、ニューマーケットステークス、コロネーションステークスをも勝利し、ダービーの2着もセントサイモン産駒だった。加えて古馬の高賞金レースエクリプスステークスまでも獲得し、この年の産駒獲得賞金総額はステークス賞金だけで58,625ポンドに達した。産駒には、能力の高さ(ステークス優勝馬:25%)に加え、気性難も伝えた。ダイヤモンドジュビリーは三冠を制した名馬だったが、世話をする者の手をかみちぎる等手に負えず、騎乗できる者は限られていた。また、セントサイモンは鹿毛遺伝子をホモ(EE, AA)で持っていたようで(ホモ鹿毛)、産駒は1頭の芦毛馬(ポステュマス Posthumus)を除いて全て鹿毛か黒鹿毛であった。なおセントサイモンの父ガロピンもホモ鹿毛で、気性難、多汗癖を持っていた事で知られている。以下はセントサイモンが残した主な記録である。セントサイモンの種牡馬成績は20歳に達した1901年頃を境に下降線を辿り始める、1902年には息子パーシモンがセプター等の活躍によりリーディングサイアーになるとセントサイモンは2位に落ち、二度とリーディングを取ることはなかった。しかしセントサイモンに代わって産駒が種牡馬として活躍する様になり、パーシモンの他にもセントフラスキン、デスモンド等数多の後継種牡馬が登場した。イギリスでは1888年 - 1913年の26年間にガロピン系だけで19回種牡馬リーディング1位を取っている。1901年にはガロピンとセントサイモンの直系子孫で4勝、1902年にも直孫で独占し、1912年の種牡馬リーディングでは首位パーシモンを筆頭としてデスモンド、セントフラスキン、チョーサー、ウィリアムザサードの5頭が7位までにひしめいた。この頃イギリス国内で行われる重賞勝ち馬の半分までをセントサイモン系が占めるまでになったという。「セントサイモン系でなければサラブレッドではない」という言葉も使われるようになった。しかし、この繁栄は長くは続かず1910年代半ばには衰退を始めた。1908年から1914年にかけ有力な種牡馬が相次いで死亡、その上残った種牡馬も輸出されたり失敗したりで活躍馬を出せなくなり、牡馬のクラシックホースは1914年のエプソムダービー優勝馬ダーバー(Durbar、フランス産)を最後に、イギリスチャンピオンサイアーは1913年のデスモンドを最後に獲得することができなくなってしまった。やがてイギリス国内でセントサイモン系とそのあおりを受けた父ガロピンの父系自体が姿を消した。さらにはオーストラリア、南アメリカに広がっていたセントサイモン系も同様に滅亡した。隆盛を極めたセントサイモンの父系があまりに短期間のうちに消滅してしまったために、日本では「セントサイモンの悲劇」と呼ばれている。この現象はサラブレッド血統史上しばしば見られることで、ハイフライヤー (Highflyer) やテディ (Teddy) などにおける父系発展の阻害も同様の現象とされる。正確な原理は議論があるが、ある種牡馬の血が交配可能な牝馬の大半に行き渡ると、その種牡馬の系統に属する種牡馬は近親交配を避けるために満足な交配機会を得られず、その結果急に勢力を減じるというのが一般的な説である。セントサイモン系はイギリス内では完全に途絶えてしまったため、その後は輸出された馬の子孫によって主にフランス、イタリア、ロシアで展開した。これらの一部は後に勢力を増し、1938年にはついにボワルセル(Bois Roussel、フランス生まれ)がセントサイモン系として25年ぶりにエプソムダービーに優勝した。これ以降イタリアからリボー (Ribot) 、フランスからは他にマシーン (Massine) 、ワイルドリスク (Wild Risk) 、プリンスローズ(Prince Rose、ベルギー調教馬)等が出て1960,70年代には第二の隆盛期を迎えたが、2007年現在ノーザンダンサー系やミスタープロスペクター系拡大の影響もあり一時期程の勢いはなくなっている。セントサイモンが後世のサラブレッドへ与えた影響は極めて大きい。現生するサラブレッドのほぼ全てはセントサイモンの血量を9-13%程度持つが、これは19世紀以降の種牡馬としては最大級であり、三大始祖にも匹敵する程である。サラブレッドの遺伝子プールの内10%程度はセントサイモン経由の遺伝子が占めているのではないかとも考えられている。これは20世紀初頭にセントサイモンの血が浸透した結果、セントサイモンをもつ馬同士の配合ばかりになったためである。なお、セントサイモンの血を一切持たない主要国のダービー馬は、1933年のフランスダービー馬トールが最後であった。その他馬術競技用の馬においてもセントサイモンの名は見つけられる。1990年代馬術競技でトップクラスの活躍をしたセルフランセ100頭の内、26頭の父系祖先はセントフラスキンの後裔オレンジピール(Orange Peel、1919年生、自身はサラブレッド)である。産駒獲得賞金上位馬は以下のとおり。国名を明記していないレース、記録については全てイギリスでのもの体高は16.1ハンド(約164 cm)、又は16ハンド(約163 cm)とされ、どちらにしても大型馬の部類に入るが、実際よりも小さく見えたとも言われている。凹型の背形を持ち、肩の高さよりも尻の高さの方が高く、また、体長が体高よりも7cm程短い胴が詰まった体格をしていた。これらの特徴は父ガロピンから受け継いだもので、後の子孫にも強く受け継がれた。セントサイモンは極めて気性が悪く扱いづらい馬であった。特に何かを強制させようとするとそれが顕著に現れ極めて攻撃的になった。アスコットゴールドカップでの暴走もこれが原因とされている。厩務員であったチャールズ・フォーダムは常に攻撃され続け命の危険を感じたため、ゴドルフィンアラビアン (Godolphin Arabian) やキンチェム (Kincsem) 、曾祖父のヴォルティジュール (Voltigeur) が猫等と仲良くなることで気性が落ち着いたという話を聞きつけるや気性の改善を図る為に猫を馬房に放してみた。しかし、即座に猫は口にくわえられ叩き殺されてしまった。短気からか常に発汗していた事も知られている。他にも数々の努力が試みられたが、この気性の悪さは生涯直らなかった。なぜか蝙蝠傘だけは恐がり、そのため暴れて対処しようがなくなった時は、杖に帽子を被せて蝙蝠傘に模しセントサイモンを大人しくさせた。一度も全力でレースをした事が無いとされるセントサイモンだが、アーチャーによれば一度だけ全力疾走をしたことがあるという。3歳時のトライアルレースの際、アーチャーが調子が悪いと感じ拍車をかけると、突然暴走を始めた。ポートランド公の手記には以下のように書かれている。「我々は見た、セントサイモンが厩舎の馬の前を全力で駆けていくのを、そして別の調教師の馬の前を、まるで狐の前の鳩のように視界から消えていった。」その後町はずれまで走ったところで、ようやくアーチャーはセントサイモンを止めることができた。その際「私は生きている限り2度と拍車は使わない。これは馬ではなく煮えたぎる蒸気機関車のようだ」と語った。セントサイモンの疾走はドッグレースに使われる犬「グレイハウンド」の走り方にそっくりだったという話も残っている。また、ドーソン調教師はセントサイモンに常に電気的なものを感じていたという。なお、この馬に因んだ蒸気機関車がある(の1両)。

出典:wikipedia

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