二ヶ領用水(にかりょうようすい)は、多摩川などを水源とし、神奈川県川崎市多摩区(上河原堰・宿河原堰)から川崎市幸区までを流れる、全長約32km(宿河原の支流を含む)の神奈川県下で最も古い人工用水路である。関ヶ原の戦いの3年前に測量が始まり、14年の歳月をかけて完成。二ヶ領用水の名は、江戸時代の川崎領と稲毛領にまたがって流れていたことに由来する。農業用水として多摩川から水を引いて造られ、かつては近隣の農業を支えた二ヶ領用水だが、時が流れて現在の沿川は宅地化が進んでおり、工業用水などに用いられるとともに、近隣住民の憩いの場としても親しまれている。神奈川県川崎市多摩区布田にある上河原堰で多摩川から取水し、すぐに旧三沢川および大丸用水の一部が合流して流下、さらに登戸で山下川を、東生田で五反田川を合わせ、川崎市高津区久地で新平瀬川に合流する。このうち旧三沢川合流から新平瀬川に合流するまでの区間は「二ヶ領本川(新川)」とも呼ばれ、河川法による多摩川水系平瀬川支流の一級河川として管理されている(河川延長5.9km、流域面積4.6km²の区間)。また、川崎市多摩区宿河原にある宿河原堰でも取水し、宿河原町内を流れて久地に至る流路も設けられており、こちらは宿河原用水(しゅくがわらようすい)とも呼ばれている。この区間および上河原堰 - 旧三沢川合流の間は、河川法による準用河川として管理されている。当初は堰が設けられておらず、自然流入による取水だったという。後に、多摩川の水量が少ない時などにも確実な取水をするため、竹で編んだ蛇籠に玉石を入れたものを取水口に並べて堰止める技法が使われるようになり、これが昭和初期まで使われていたが、洪水のたびに流されてしまい修復等の負担が重いことと、多摩川の水位低下等により取水が難しくなったため、現在のような固定堰が設けられるようになった。詳しくは#歴史を参照。上河原堰の分水の一つである五ヶ村堀は、五反田川との合流点からすぐ上流で分流し、一部が五ヶ村堀緑地になっているほか、宿河原用水と立体交差して川崎緑化センター内を通り、多摩川の水門に続いている。高津区久地で合流した 2つの流れは、久地円筒分水に流入するとともに、一部が新平瀬川経由で多摩川に戻される。久地から先は、各々西から根方堀、川崎堀、六ヶ村堀、久地・二子堀と呼ばれる4方向に分岐するため、久地円筒分水により各堀の灌漑面積に応じた一定の比率(7.415 : 38.471 : 2.702 : 1.675)で正確に分水される。現在は川崎堀のうち川崎市高津区・中原区内の流路が専ら「二ヶ領用水」と呼ばれ辿ることができるが、他の流路については1990年代までにほとんど蓋がされるか道路下に埋め込まれており(暗渠化)、流路を辿るのは困難になっている。開口していた時代は子供たちがザリガニを釣る姿が見られた。流路の概要は円筒分水に詳しい地図が掲示されている。川崎市中原区・高津区西部の境を流れる江川(えがわ)と呼ばれる小川があるが、これは自然河川ではなく、かつての二ヶ領用水根方堀の一部である。現在の川崎市高津区・中原区西部も以前は新田地帯であり、二ヶ領用水が田畑を潤していたが、近年沿川の宅地化が進むと田畑は次第に宅地化され、生活排水や雨水を流す側溝として使われるようになっていく。しかし生活排水の流入による河川の汚染が深刻になると下水道整備が進められ、それが一段落した時点で江川は廃川となり、その後は道路用地や雨水を流す側溝として使われるとともに、近年の自然環境見直し機運に呼応して水辺の散策道として整備されることとなった。現在は等々力の下水高度処理施設より高度処理水が送られ、二ヶ領用水の流れに合流して小川を形成している。武蔵新城駅南口から200m ほど南下した川崎市中原区新城・高津区千年新町の境界付近より両区境を流れて川崎市中原区井田で矢上川に合流する約2.4km が地上に現れており、「江川せせらぎ遊歩道」として整備され、近隣住民の憩いの場およびコイや野鳥などの生活の場になっている。矢上川との合流地点は「井田堤の桜」と呼ばれる名所であったが、宅地化および堤防整備に伴い失われ、現在は往時の面影は見られない。武蔵小杉駅近くで川崎堀から分流し、元住吉駅付近を通って中原区木月地先で矢上川に合流する、全長2.4kmの用水路があり、これは渋川(しぶかわ)と呼ばれ、現在は普通河川として管理されている。また沿川には約250本の桜並木が続き、「住吉桜」と呼ばれ親しまれている。住吉・日吉地区の農業用水として利用されていたが、上河原・宿河原で取水してからここに至るまでにも農業用水として使われるため、季節によっては水量が少なかったようで、堀の浚渫などを小まめに行い、僅かな水を無駄なく使うよう心がけていたという。江戸時代末期になるとこの辺りではいくつかの水車が回るようになり、水量の多い時季には精米や製粉などが行われていたという。現在は沿川の宅地化が進み、農業用水としての利用は激減したが、アスファルト舗装され保水力が失われた周辺地盤に代わって雨水を流す役割を担っている。さらに渋川の地下に建造された川崎市内最大の雨水貯留管(1991年着工、2004年供用開始)は、144,000m³の雨水を一時貯留する能力を有し、下水道整備が完了していない矢上川やその下流の鶴見川の洪水を緩和する役割を担っている。同様の貯留管は江川の下にも造られている(2000年完成、貯水量81,000m³)。過去には、現在の横浜市鶴見区の一部(江ヶ崎、矢向、市場、菅沢、潮田)にも流れていた。川崎市を縦断する二ヶ領用水は多くの鉄道や主要道、商店街と交差するが、それらを併記する。また、川幅が小さく街中を流れているため、近年新たに建設された橋や簡易的な橋もあり、中には橋の名前がついていないものも存在するが、上記の交差がなく名前のない橋は省略する。(JR南武線)(平瀬川へ合流)(久地円筒分水)(東急田園都市線)(八ッ目土)(渋川分流)(中原平和公園、川崎市平和館、神奈川県立住吉高等学校)(東海道新幹線)川崎堀橋梁と平間配水場の間で二手に分かれるとともに地下に吸い込まれ、以降は暗渠化されている。また旧流路跡に小さな遊水路が設けられており、断続的に塚越中学校方面へ続く。なお、旧流路跡と府中街道との交点付近には、かつての橋の欄干が残り、すぐ側の踏切名「川崎堀踏切」にも名を残している。尻手駅 - 新鶴見信号場間の貨物線(通称尻手短絡線)の旧流路跡にも「二ヶ領踏切」がある。近年、高度経済成長に伴い流域では宅地開発が進み、二ヶ領用水は農業用水として使われなくなる一方、生活排水の流入やゴミの不法投棄などが問題化し、鹿島田より下流の横浜市側は埋められることとなった。しかし埋められる以前に使われていた施設の名前が残っている場合があり、踏切名やトンネル、橋などで今も見ることができる。本用水が流れる地域は江戸時代に稲毛領・川崎領と呼ばれており、これら二ヶ領を灌漑する用水であることから「二ヶ領用水」と呼ばれるようになった。さらに小泉次大夫により整備された多摩川左岸の六郷用水を合わせて「四ヶ領用水」「次大夫堀」と呼ばれることもあった。魚類はおもにコイの姿が見られるが、コサギなどが頻繁に訪れていることから、彼等の捕食対象となる小魚類も相応に住んでいると推察される。鳥類では、スズメ、ドバト、ハクセキレイおよびカルガモの姿が一年中観察され、沿川に植えられた木や畑などと相まって、野鳥の生活を支えている。
出典:wikipedia
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