日本の学生運動(にほんのがくせいうんどう)では、日本国内で行われた学生運動について扱う。日本の学生運動は、大正デモクラシーの時期に始まり、戦後になって盛んになった。運動の中心となるのは活動家と呼ばれる学生であり、彼らは学生全体からみれば少数であるのが常である。活動家の多くは政治党派の学生組織に属しているか、その共鳴者(シンパ)が多いが、政治党派とは距離を置き運動を担っている学生も存在する(ノンセクトラジカル)。運動内容は時代や個別学校によって様々なものがあるが、代表的なものとして、反戦運動、学費値上げ反対運動、学生会館の自治要求、反差別への取り組みなどがある。日常的に彼ら活動家は、自治会や様々なサークル(社研など)を拠点にして討論や学習をし、自前のビラ(アジビラ)やポスター、立て看板(タテカン)を作製し、授業前のクラスや昼休みの広場などで演説をし、自らの主張をアピールする。時には校内で集会や講演会、学習会などのイベントを開く。運動は日常的には地道なものであり、地味なものである。しかし運動がまれに盛り上がるときもある。普段は大学問題や政治問題に関心のない一般の学生も運動に加わり、全学的に運動が高揚する場合である。そうなればデモや授業ボイコット(ストライキ)、大衆団交、果てはバリケードによる建物占拠などが行われる。このように、学生運動が最も盛り上がりを見せたのは、1960年の安保闘争、1968年 - 1970年の全共闘運動大学紛争の時期であったが、それ以降は下火となっている。原因としては、社会が豊かになったことでの政治離れ、内ゲバなど過激な運動への忌避、などがあげられる。日本では、大学当局による学内組織の追放・排除などにより、一部を除き衰退傾向にある。日本では、明治時代から旧制高校などで校長排斥運動や同盟休校が度々起きていた。第一次世界大戦直後、大正デモクラシーの影響を受け1918年12月東京帝国大学に新人会、同年京都帝国大学に労学会(同じ頃に野坂参三らがつくった東京の労学会とは別)、翌1919年2月21日早稲田大学に民人同盟会がそれぞれ設立された。その後これらの団体は普選運動に参加し、1919年1月学生による運動が起こったが、翌1920年5月10日の第14回衆議院議員総選挙と戦後不況により衰退した。その後学生たちは労働運動・農民運動など学外の社会運動との連携を強め、1922年11月7日には学連を設立、この頃から次第にマルクス主義・社会主義の影響が次第に拡大し、1920年代には軍事教練反対運動(1923年5月10日軍事研究団事件→1924年11月12日全国学生軍事教育反対同盟結成→11月〜1月社研解散命令および様々な軍教反対運動→1925年1月10日軍事教育案可決→10月三高進化会解散→12月1日京都学連事件)、自由擁護運動・学生自治運動(1926年5月29日文相内訓五ヶ条→1926年6月28日全日本学生自由擁護同盟結成→1928年6月学生自治協議会→しかしこの頃の学生運動では福本イズムの流行など理論闘争を重視し日常闘争は軽視されていた→だが1926年 - 1931年にかけて左翼だけでなく広汎な一般学生らによっての学校騒動慢性化時代でもあった)などの運動が取り組まれた。第二次世界大戦中は完全に解体されていた学生運動は戦後すぐに復活した。多くの大学で大学民主化運動が行われ、その高揚を背景に1948年に全日本学生自治会総連合(全学連)が結成された。全学連は当初は日本共産党の影響が強く、その活動方針と軌を一にしていた。しかし、1955年の日本共産党第6回全国協議会(「六全協」)で、共産党が現場の運動家を半ば置き去りにする形で大幅な路線変更を行ったことを契機として徐々に距離を置くようになり、共産党から除名された学生達が中心となった新左翼共産主義者同盟(ブント)が、全学連を握った。国民的な議論となった1960年の日米安全保障条約改定をめぐる反対運動(安保闘争/安保紛争)では、この全学連(安保全学連・ブント全学連)が運動の中心を担った。この闘争の最中、東京大学文学部の学生だった樺美智子(かんばみちこ)が機動隊とのもみ合いの最中に死亡し、象徴的事件となった。安保闘争後、ブントは四分五裂、全学連も分裂し、学生運動も下火となる。1960年代半ばになるとベトナム戦争反対などの運動を通して、再び学生運動が盛んになってきた。早稲田大学や慶應義塾大学などで学園紛争が起り始める(第一次早大闘争)。また新たに結成された三派全学連は、羽田闘争を皮切りに街頭で数々の武装闘争を繰り広げた。その戦いに多くの学生が参加し、ヘルメットにゲバ棒というスタイルが学生運動の定番になっていく。三派全学連は再び統一されたブント(第二次ブント)、そのブントをしのぐ勢力を誇る中核派などがヘゲモニーを握っていた。これら新左翼三派や革マル派など5流13派と呼ばれる新左翼党派が、様々な色のヘルメットをかぶって自派を特徴づけ、学生運動での勢力を競い合った。新左翼系の学生達と日共系の学生達、そして新左翼同士でも暴力的な対立があったものの、街頭で各学園で学生運動は高揚していく。それはこの時期、世界的な現象として現れたスチューデント・パワーに呼応していた。1968年(昭和43年)頃から東大闘争、全学共闘会議(全共闘)と呼ばれる運動形態が現れた。全共闘は、それまでの全学連のような特定の政治党派の影響が強い既存の学生自治会に拠る運動とは異なり、党派や学部を越えたものとして組織作られ、ノンセクト・ラジカルと呼ばれる党派に属さない学生が数多く運動に参加した。彼らは武装を辞さず、大学をバリケード封鎖することによって主張の貫徹を試みた。東京大学で始まった全共闘運動は1969年(昭和44年)には燎原(りょうげん)の火のごとく全国に広がり、国公立大学や私立大学の大半が、何らかの闘争状態・紛争状態となった。街頭闘争でも1968年、1969年の国際反戦デーでは全国で投石や火炎ビンなどによる闘争が繰り広げられ、さながら市街戦状態になった。また三里塚や沖縄デー(サンフランシスコ平和条約が発効し、法規的に沖縄が日本の施政権から外された4月28日を指す)などでも、学生達は激しく機動隊とぶつかり合った。日大闘争中の出来事として1968年10月、日本大学経済学部本館のバリケード封鎖解除に出動した機動隊員が校舎の4階から落とされた重さ約16kgのコンクリートの塊が頭に直撃しその日の内に死亡する事件が発生した。この時代、大学進学率は10%台であり、大学生はエリートであったため、警察も彼らの未来を潰さないよう、出来る限り穏便に事件を解決しようとしていた。しかし、警察は死亡者が出た事で方針を転換、少人数の集会でも数倍の人数で一気に征圧するなど、強硬手段を執るようになる(ちなみに、関与した容疑者は何人かいたが、全員が「その場にいた証拠がない」として無罪となり、現在も真相は明らかになっていない)。さらにそのわずか半年後の1969年4月12日にも岡山大学で機動隊員の巡査が学生による投石を頭部に受け同日夜に死亡する事件が起こった。これは岡山大学の学生による学生課長及び教養部教官に対する集団暴行傷害事件について大学長が学生十数名を告発したことに伴う岡山県警の強制捜査の際に起きた事件で、学生約150人は警察官に激しい投石を行い執行を妨害。死亡した巡査以外にも警察官多数が負傷した。こうした学生運動は、一部の浪人生や高校生などにも波及し、ピーク時には35都道府県176校に及び、とくに大阪府立市岡高等学校、大阪府立追手前高等学校、東京都立九段高等学校、東京都立青山高等学校、神奈川県立川崎高等学校、神奈川県立希望ヶ丘高等学校、東京都立立川高等学校、静岡県立掛川西高等学校、北海道立札幌南高等学校、東京都立日比谷高等学校といった旧制中学以来の伝統を有する各地の進学校、国立大学教育学部附属高校で多発した。また私立も灘高等学校や麻布高等学校でも発生し、学園紛争が起きる高校は進学校の証しとさえいわれるようになった。大阪では大阪府高連を中心に高校生によるキャンパスのバリケード封鎖が行われている。運動は、生徒会などを取り巻く環境の改革運動、服装自由化運動や制服廃止運動、教育課程や教育方法の改善運動を派生させたこともあった。浪人生においても、東京や大阪のような大都市では活発な運動が展開され、全国浪人共闘会議(浪共闘)が結成された。セクトとしては中核派系の反戦高協が最大であった。なお、1969年にこれらの学生運動に対抗する形で、民族派系の全国学協、日本学生同盟、日本学生会議や、創価学会系の新学生同盟などの、左翼系でない(≒右翼)学生団体もこの頃出現した。1970年頃までは、このような学生運動に共感を持つ人々も存在していた。この背景には「学生は世の中をよくするために身を挺して立ち上がっている」という意識や、学生運動を「若者のエネルギーの発露」としてそれを許容する空気が広く存在したことが挙げられる。権力側も一部には学生運動をする学生たちを「左翼の国士」と見るような風潮もあった。しかし、内ゲバや武装のエスカレートなどで市民の支持は徐々に失われていく。1960年代の新左翼党派の再編過程、路線対立の過程で暴力的衝突は日常と化していた。一方、学生側には分派が生まれ、党派闘争が発生し、1970年以降は殺し合いに発展していく。1971年、法政大学での中核派による海老原事件と、それに対する革マル派の報復から、両派は凄惨な内ゲバを繰り広げ、ここに革労協と革マル派の間での内ゲバも加わり、1970年代は全国の大学で暴力の恐怖が蔓延した。これら内ゲバや、赤軍派に代表される爆弾や銃による武装のエスカレート、連合赤軍での12名のリンチ殺人事件(山岳ベース事件)などが発覚したことで学生運動は急速にその支持を失っていく。さらに1972年の沖縄返還などにより日本人の反米感情が薄れ、日本社会が豊かになるにつれ、学生たちは潮をひくように学生運動から遠のいていった。1980年代以降は学生運動が存在するのは、ごく一部の大学のみとなり、それもごく一部の新左翼党派に属する学生に限られた運動となっている場合がほとんどで、大部分の学生とは無縁の存在になっている。戦後日本の大学では、1945年(昭和20年)8月の日本敗戦とその後の米軍による7年間にわたる占領政策の影響、そして世界的な共産主義思想の流行によって、左翼運動の独壇場ともいえる情況が現出した。しかし、これら左翼学生運動の勃興に対する危機感から、「民族派」と呼ばれる右派学生組織も次々と結成された。これら民族派学生組織の多くは、左翼による大学のバリケード封鎖に反対する「学園正常化」を掲げ、また、日本敗戦後の米軍による「日本弱体化」政策(ポツダム支配)と、米ソによる世界分割支配「ヤルタ体制」を厳しく批判して運動している(2つをまとめて「YP体制」と蔑称する)。主な民族派学生組織には、全国学協、日学同、生学連、日本学生会議、民社学同、反憲学連、全日本学生文化会議等がある。1980年代以降、日本社会が豊かになると、左翼学生運動同様「民族派」学生運動も次第に衰退していった。近年は、2008年に起きたリーマンショック、派遣切り、内定切りに対するデモや就職活動抗議デモなど一部で若年層が組織的に参加する動きが見られるが、これまでの学生運動は下火になりつつある。2006年から2009年には法政大学学生運動の一斉検挙により学生110人以上が逮捕された。産経新聞の「さらば革命的世代」では、かつて学生運動に参加していた団塊の世代が、なぜ急速に運動に対する熱が冷めたのか、また学生運動の功罪など、かつての学生が口をつぐんでいるがために総括されていないと指摘している。現在でも学生運動は最盛期と比べると衰退している。一方で2011年以降の脱原発デモ、2013年の特定秘密保護法反対デモ、2014年以降の集団的自衛権行使容認並びに安保関連法案反対デモなど無党派層を巻き込んだ新形態の学生運動が盛んに行われている。2013年には特定秘密保護法に反対する学生有志の会(SASPL)、2015年にはその後継団体として自由と民主主義のための学生緊急行動(SEALDs)が結成された。また、2012年に中核派は京都大学同学会を「再建」したと称し、2015年には京大構内の建物の一部を占拠するバリケード・ストライキを決行するなど、旧来型の学生運動の中にも一部ではあるものの活動を活発化させているものが存在する。かつては、民族派学生組織として活動していた生長の家学生会全国総連合は、今はエコロジー保守に近い立場の宗教的なサークル集団となっており、SEALDsに参加するメンバーも存在するなど、右派色は軽減されている。一方で、民族派でも全日本学生文化会議のようにいまだに活動している組織もある。1968年、医学部の学生がインターン制度に代わる登録医制度に反対し、無期限ストに突入したのを皮切りに東大紛争、東大安田講堂事件へとつながる。1949年に各学部自治会やサークルを統括する全学自治組織として「学友会」が設立された。1958年にブントが結成されると、同志社大学友会は関西におけるブントの拠点として機能した。1977年5月19日、これに反発する学内の大成寮と学術(社会科学)系サークルを中心としたグループが学友会執行部を握り、以後はノンセクト・アンチセクト化、この学術(社会科学)系を中心に各サークルから学友会執行部に活動家学生を供給することで、役員を確保する体制が続いた。しかし、学術(社会科学)系サークルが80年代から相次いで消滅したことで、学友会活動の中心的な担い手も減少した。また、90年代前半に50%を超えていた学部自治会の代表選挙の投票率も、2003年には9%にまで落ち込み、学生の関心の低さを示した。2003年12月、中央委員会は現状では役員立候補者を確保することが困難であり、将来的には学友会が自然崩壊する恐れがあるとして解散を決定。2004年4月30日をもって各学部自治会(神学部自治会は翌年解散)とともに学友会は解散した。活動休止を選択しなかった理由について、当時の委員長は後年の産経新聞によるインタビューに対し、カルト宗教や政治セクトによる学友会組織の乗っ取りや僭称を防ぐために解散したと答えている。また学友会解散にあたり、『「同志社の栞」資料集 学友会の《主張》1957〜2004』同志社大学学友会残務整理委員会、元学友会事務職員・水野裕之らによって出版されている。
出典:wikipedia
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