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土佐林禅棟

土佐林 禅棟(とさばやし ぜんとう)は、戦国時代の武将。大宝寺氏の家臣。禅東は法号であり、諱は不明である。土佐林氏は羽黒山の別当職を務めていた家柄で、大宝寺氏と同等の勢力を誇っていたが、大宝寺氏との抗争に敗れて臣従し、その筆頭格の重臣となっていた。大宝寺晴時の死後に剃髪し、杖林斎禅棟と号した。晴時の死後は大宝寺義増の擁立に尽力した。永禄5年(1562年)頃、幕府政所執事伊勢貞孝に書状を送り、息子が死去した際に将軍足利義輝の弔問を受けたことに御礼を述べている。ところが、同年伊勢貞孝は松永久秀に討たれてしまい伊勢氏は没落する。伊勢氏の代官であった蜷川氏は後ろ盾を失って禅棟へ出羽への下向を打診し、禅棟も了承している。永禄8年(1565年)に義輝が松永久秀に弑殺されると、ついに親世は所領を捨て出羽へ逐電したが庄内へは至らず、村山郡寒河江荘高松氏(寒河江氏庶流)に寄寓し、そこで死去した。これらの事からも幕府中枢との外交を担い、六十里越街道を挟んだ村山郡の寒河江氏らと同盟関係にあったことが示唆されている。永禄11年(1568年)に本庄繁長が上杉輝虎に対して反乱を起こしたとき、大宝寺氏は本庄氏に与したため、反乱鎮圧後に上杉氏との和睦締結に尽力する。義増の後継者・大宝寺義氏の時代も当主の補佐役を務めたが、義氏と上杉や豪族関係との対策などをめぐって対立し、元亀2年(1571年)に義氏の攻撃を受けて戦死した。

出典:wikipedia

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