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高尾山古墳

高尾山古墳(たかおさんこふん)は、静岡県沼津市東熊堂(ひがしくまんどう)にある古墳。形状は前方後方墳。史跡指定はされていない。古墳時代最初期の西暦230年頃(邪馬台国の時期)の築造と推定され、築造当時の東日本では最大級の古墳である。旧称は「辻畑古墳(つじばたけこふん)」。静岡県東部、愛鷹山山麓の丘陵末端部に築造された古墳である。古墳東側には熊野神社と高尾山穂見神社が鎮座するが、近年に発掘調査が始まるまでこれら2社は墳頂にあり、地名の「東熊堂」もその熊野神社(元は熊野堂)に由来する。古くからこれらの神社下の小山は古墳であると伝えられていた。沼津市の都市計画道路の建設にあたって神社境内が建設予定地となり、熊野神社・高尾山穂見神社は小山東側に遷座されたが、その際に小山から古墳の遺構が見つかったため、2008年(平成20年)から発掘調査が実施されて小山が古墳であることが正式に確認された。その後、現在まで数度の調査が実施されている。古墳名の「高尾山」は神社の鎮座した小山(墳丘)に対する古くからの通称になる。沼津市では「辻畑古墳」の名称で1979年(昭和54年)に遺跡登録がなされていたが、2011年(平成23年)に「高尾山古墳」を正式名称に改めている。墳丘は、方形の主丘に方形の突出部が接続した前方後方形で、前方部を南方に向ける。墳丘長は62.18メートルを測り、築造された古墳時代最初期としては東日本で最大級であり、全国でも大規模な部類になる。古墳西側を通る市道の建設の際に墳丘の一部が削平されたため、全体像は不明であるが、主軸を含む大部分が発掘調査により明らかとなっている。墳丘のうち前方部は比較的低く造られており、古墳時代初期の特徴を有する。また墳丘周囲には周濠が巡らされており、その幅は最も広い部分で約9メートルを測る。主体部(埋葬施設)は後方部のほぼ中央に位置し、墳丘主軸と垂直の東西方向に木棺が直葬された。この木棺は調査時には木片を残すのみであったが、元は舟形木棺であったと見られ、長さ約5メートル・最大幅約1.3メートルと推測される。棺内部からは大量の水銀朱や銅鏡(破砕鏡)1面のほか、鉄槍・鉄鏃といった被葬者の武威を表す副葬品が出土している。古墳の年代は、沼津市教育委員会によって、出土土器の編年を基に3世紀前半(古墳時代最初期)の西暦230年頃の築造、西暦250年頃の埋葬と推定されている。愛鷹山麓では弥生時代後期から古墳時代初期にかけての大規模な集落遺跡(足高尾遺跡群)が知られるが、高尾山古墳の被葬者はその首長と見られ、いわゆるスルガ(珠流河/駿河)地域の王とされる。また、『魏志』倭人伝によると卑弥呼が248年頃に死去したとされることから、高尾山古墳の被葬者は卑弥呼と同時期の人物になる。卑弥呼の墓と推定される箸墓古墳(奈良県桜井市)を始めヤマト王権の古墳では墳形に前方後円墳が採用されるが、それとは異なる前方後方墳が採用されたことに当時のスルガ地域の独自性が見られ、『魏志』倭人伝において卑弥呼と戦ったと記される狗奴国(くなこく)王の卑弥弓呼(ひみここ)に比定する説もある。古墳域は、国道246号裾野バイパスを延伸して国道1号沼津バイパスとを結ぶ都市計画道路(沼津一色南線)の建設予定地に位置する。そのため一時は古墳の取り壊しが予定されていたが、現在では古墳を保存する方針に変更され、道路の方を迂回させる予定となっている。古墳の規模は次の通り。主体部(埋葬施設)から出土した副葬品は次の通り。

出典:wikipedia

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