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前橋飛行場

前橋飛行場 (まえばしひこうじょう) は、群馬県高崎市にかつて存在していた大日本帝国陸軍の軍用飛行場である。正式な名称は前橋飛行場であるが、周辺住民には地名から堤ヶ岡飛行場と呼ばれていた。敷地面積は約160町歩に及び、堤ヶ岡村を中心に国府村、中川村(いずれも現在は高崎市)にまたがって存在していた。2000年から2003年にかけて西毛広域幹線道路建設に伴い発掘調査が行われ、縄文時代から、飛行場施設を含む近代までの遺跡が発見されている。太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦により、既存の飛行場に加えて、航空要員の急速な養成を目的とした教育用飛行場の建設が陸軍航空本部で計画された。前橋飛行場は、そうした教育用の「面飛行場」のひとつとして計画され、1943年5月19日に陸軍の担当者が国府村を訪れ、その翌日には地主への説明会、さらに翌日には強制買収への承諾が行なわれるという急ピッチで用地買収が行なわれた。翌5月22日には村民も動員して測量を開始。9月には工事が始まった。建設には一般の建設会社に加え、地元住民や国民学校生徒、群馬県内の青年団、在郷軍人会による勤労奉仕、前橋刑務所の囚人や朝鮮人も加わった。1944年2月15日には、金網を敷いた仮設滑走路に初めての飛行機が着陸。1944年8月1日に飛行場が完成し、宇都宮陸軍飛行学校前橋教育隊が創設される。古河飛行場から約80名の少年飛行兵が転属し、特別操縦見習い士官が約150名が入隊。練習機とグライダーによる飛行訓練が始まった。しかし、同年10月9日には前橋教育隊は閉鎖され、熊谷陸軍飛行学校前橋分教場となり、九三式中間練習機による飛行訓練が行なわれるようになった。だが、翌1945年2月9日には熊谷分教場も閉鎖され、特別攻撃隊の訓練が行われるようになった。また、同月15日に前橋飛行場の敷地に中島飛行機の分工場が移転され、疾風の製造を行うようになった。その後戦局の悪化に伴って、1945年3月までに約30箇所の土盛り式の掩体壕や対空機関銃座の設置など3度の拡張が行われている。米軍の本土空襲が本格化すると、訓練より現有戦力の確保が優先されるようになる。偽装した掩体に機体を分散秘匿したが、滑走路までの運搬時間に最低4時間もかかり、夜明け前の出撃以外が不可能になった結果、大戦末期には飛行場としての機能はほぼ失われていた。米軍艦載機の空襲を受けた1945年7月10日時点で、常陸教導飛行師団第2教導飛行隊の戦闘機29機(九七式戦闘機15機・一式戦闘機9機・二式複座戦闘機3機)、操縦士67名と、航空輸送部第9飛行隊前橋派遣隊が配置されていた。しかし、米軍艦載機の空襲時には戦闘機による迎撃は無く、対空射撃もほとんど無い状態であり、艦載機による爆弾・ロケット弾による攻撃で航空機や掩体壕は破壊され、飛行場周辺を中心に民間人にも死傷者が出た。終戦後、8月17日には軍属の帰郷、建物の破壊が始まり、27日は資材の搬出も始まった。前橋飛行場は米軍に接収されたが、使用されることはなく、プロペラが外された四式戦闘機が並んだままの荒地と化していた。米軍撤退後に、復員者の救済策として飛行場の農地転用が行われ、1951年11月までに全耕地が売却された。現在は一部施設のコンクリート基礎や仮設滑走路用の金網が住宅地に残されているだけである。面飛行場は、一辺1,300 ~ 1,500 mの正方形の芝生地帯を設定し、その全域を離着陸に用いるとしていたが、前橋飛行場は周辺の集落を避けるように造られたため、 東西1,500 m、北西から東南に1,800 mの、不定形の敷地となっていた。設備は飛行場の西側に建設され、本部1棟、兵舎2棟、大格納庫3棟、小格納庫4棟、さらに講堂や修理工場、食堂、炊事場などが建設されたが、戦況の悪化で兵舎は解体されて半地下式に、飛行機や燃料、弾薬は掩体壕に分散格納され、グライダー棟は未完成のまま解体された。1945年3月5日に第8飛行師団の第36・37・38飛行隊に所属する九八式直接協同偵察機36機が到着。第37飛行隊隊長と第36飛行隊隊員の日誌が残されており、前橋飛行場での訓練の詳細が判明している。訓練は飛行練習や照準練習が中心であったが、燃料節約のためか進捗しなかったことが日記からも判明している。これら3隊は、同月26日まで前橋飛行場で特攻訓練を行った後、太刀洗飛行場に出発。4月6日に新田原飛行場から沖縄へ出撃した。隊員36名中、出撃前の事故で3名、同年4月の3度の攻撃で26名、合計29名が戦死している。事故で死亡した隊員の遺骨も、戦友の胸に抱かれて沖縄へと出撃した。1988年に飛行場跡地のすぐ北側で西三社免遺跡の調査が行われ、1996年から2000年にかけて跡地の南側で菅谷石塚遺跡の発掘調査が行われた。西三社免遺跡の調査では本調査の実施に先立って、飛行場跡地内での試掘が行われたが、文化財が出土しなかったことから、飛行場跡地での調査は行われなかった。2000年4月1日から2003年9月30日までの期間、西毛広域幹線道路建設に伴う棟高辻久保遺跡の発掘調査が実施され、縄文時代から近代にかけての遺跡が発見されている。調査地35,116平方メートルは飛行場跡地の中央部北端に位置し、敷地の約2.2パーセントにあたる。地域の近代史において飛行場は重要な存在であることから、古代・中世以前の遺構だけでなく、飛行場開設前後の近代遺構も調査が行われた。飛行場の造成土の下からは強制買収される前に存在した田畑や暗渠が検出され、造成時のトロッコの枕木で畑の畝が潰された列が続いている場所や轍もあった。また、戦後に農耕地になる中で埋設された土管も出土した。戦争当時の状況を知ることができる戦争遺跡として貴重なものであるが、飛行場の敷地面積が広大で、多くが私有地であることにより、史跡指定および記念公園などの整備は困難とされている。

出典:wikipedia

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