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大内輝弘の乱

大内輝弘の乱(おおうちてるひろのらん)は、戦国時代後期の1569年(永禄12年)に周防・長門国で起きた騒乱。1555年(弘治元年)から始まった、毛利元就の防長経略によって大内氏は滅亡し、周防・長門国は毛利領となった。大内家臣の多くは新たな領主となった毛利氏に従ったが、これに不満を持つ大内遺臣もいた。毛利氏の支配が始まった直後から、毛利氏の支配が確立して間もない1557年(弘治3年)11月には、旧大内氏の重臣格であった杉氏・内藤氏・問田氏らが大内義隆の遺児とされる問田亀鶴丸を奉じて挙兵、山口近郊の障子岳に籠もった。この騒乱は、毛利氏の支配を覆すべく挙兵する大規模な反乱であったが、これを毛利家臣となっていた内藤隆春・杉重良らが鎮定する。その後、大規模な反乱は終息を迎えたものの、小規模の反乱や騒乱は山口周辺で発生していた。山口支配責任者として高嶺城に入っていた市川経好は、これらの乱をよく鎮定して毛利氏の支配を強化していた。豊後国の戦国大名・大友氏の客将の中に大内氏の一族である大内輝弘がいた。輝弘の父大内高弘は大内義興の弟だったが、大友親治(大友宗麟の曽祖父)の誘いに乗り、重臣の杉武明と謀って義興に謀反を起こして失敗し、豊後国に亡命していた。その高弘の死後、輝弘は、父の宿願であった大内氏の家督簒奪を虎視眈々と狙っていた。1566年(永禄9年)に出雲国の戦国大名・尼子氏を滅ぼした毛利元就は、1568年(永禄11年)には伊予国へと出兵して、河野氏を支援し、後方の憂いを断った(毛利氏の伊予出兵)。そして、1569年(永禄12年)に大内氏の後継を自認して博多の権益を狙い、大友領であった豊前国・筑前国へと侵攻を開始した。同年5月、筑前国に侵入して、博多を守る要衝であった立花山城を攻略、大友宗麟と全面対決へと至った。九州へ侵攻した毛利氏は、筑前国の国人らを味方に引き入れた。そのため毛利軍は意気軒昂で、怒涛の攻撃を開始し、大友氏は危機に陥った。立花山城付近で毛利軍と大友軍の対立(多々良浜の戦い)が続く中、大友宗麟の軍師と言われる吉岡長増は、毛利氏を九州から撤退させるべく策を巡らせ、毛利氏の後方撹乱を狙った。そして、同年6月に出雲国へと侵入した尼子勝久・山中幸盛を支援すると同時に、まだ大内遺臣がくすぶっている山口へ大内輝弘を送り込むことを画策した。毛利氏は大内一族を山口に乱入させる策を大友氏が企んでいることを数年前から知っていたが、戦線を拡大していた毛利軍は手薄であり、対応が遅れることになった。大内輝弘は大内氏の復活を狙って、豊後国から若林鎮興率いる大友水軍に護衛され、周防国へと向かった。この記録は当時豊後国に居た、宣教師の書状にも見える。10月10日、先だって6月と8月に強行偵察を行っていた吉敷郡の南側、秋穂浦・白松の海岸への上陸に成功した。大内一族の復帰を知った大内遺臣は、こぞって大内輝弘の軍に加わり、その勢力は一気に増した。10月12日、大内輝弘は陶峠を経て山口へ侵攻。一方の毛利方は、平野口を井上就貞が、小郡口を信常元実が守るが、数に勝る輝弘勢は平野口の井上隊を激戦の末に打ち破って、山口支配の拠点・高嶺城の攻略を開始した。高嶺城の城主であった市川経好は九州へ出陣中であったが、その留守を守る経好の妻が女丈夫であった。鎧を身にまとい、わずかな城兵を指揮して鼓舞し、高嶺城に輝弘軍を寄せ付けなかった。高嶺城の攻略を中断した輝弘は、龍福寺と築山館に入り、次策を練った。翌日も高嶺城への攻撃を開始したが、高嶺城の出城を落とすこともできず戦線は膠着した。この山口侵攻によって大内縁故の寺院の多くが焼け、宝物が失われた。大内氏の後継を自認する輝弘であったが、実は大友宗麟の影響を受け、キリシタンであったといわれる。そのため大内縁故の寺院を焼いたとされ、これは後の大友宗麟の「耳川の戦い」でも見られたことである。長門国赤間関に陣を敷いて九州攻略の指揮を執っていた毛利元就は、13日に急報を受け取ると九州からの撤退を指示。吉川元春、福原貞俊らに10,000の兵を授け、10月15日に山口に急行させた。また、石見国津和野の吉見正頼も山口に兵を向かわせ、宮野口で城井小次郎率いる1,000の輝弘軍と激戦を繰り広げた。輝弘軍への包囲が始まりつつある状況を知った大内遺臣は、次第に輝弘軍から離散した。10月21日、毛利軍主力10,000が赤間関から長府へと至り、大内輝弘が山口を支えることは不可能となった。毛利軍は途中、大内輝弘に組した輩を徹底的に討伐し、着実に輝弘軍に迫った。翌23日に毛利軍は長府を出発して山口に迫った。10月25日、輝弘は残った手勢800を率いて上陸地である秋穂浦へと撤退したが、既に軍船は無く(毛利軍による焼き討ち、もしくは大友軍が輝弘軍を見殺しにして逃亡)、輝弘軍は東へと向かった。しかし途中で南方就正率いる右田ヶ岳城の城兵に攻撃され、敗走。目的地であった三田尻に入るも船はなく、やむを得ず浮野峠を越えて富海に入った。しかし、この先の椿峠には杉元相が手勢を率いて迎撃準備を進めており、輝弘はこの方面への撤退を諦め浮野峠の茶臼山に引き返した。ところが後方には吉川元春率いる毛利軍主力が迫っていた。輝弘は最期の一戦を試みたが、衆寡敵せず壊滅。輝弘は自刃して、大内輝弘の乱は終結した。輝弘らの首級は長府まで送られ、元就の本陣で首実検が行われた後に埋められたと言われている(豊後塚)。

出典:wikipedia

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