ヲシテ文献(ヲシテぶんけん)は、ヲシテで記述された五七調の長歌体の古文書である。ヲシテ文献のことが「ヲシテ」と表現されることもある。現存する文書としては、前編をオオモノヌシ(大物主)のクシミカタマ命が後編を大神神社の初代神主のオオタタネコ命が記したとされる『ホツマツタヱ』、前編をアマノコヤネ命が後編を伊勢神宮の初代の神臣(クニナツ)オオカシマ命が記したとされる『ミカサフミ』、アマテルカミ(記紀にいう天照大神)が編纂して占いに用いたと伝えられている『フトマニ』などが発見されている。これらの成立時期は不詳であるが、少なくとも江戸時代中期にまで遡ることが可能である。歴史学、日本語学等の学界においては、戦前から清原貞雄らにより後世の偽書であるとされ、近年も日本史学の分野では武光誠、日本語学の分野では飯間浩明らにより江戸時代に神道家によって作成された偽書であるとされている。また、ヲシテを神代文字のひとつとみなす研究者からは古史古伝のひとつであるとされている。しかし、漢字が渡来する以前に日本で通用していた文字と文献であって、後世の偽造とされる神代文字・古史古伝とは全く異なるとの主張もある。文献全体の包括的な史料批判を試行する動きはあるが、まだなされていない。ヲシテ文献はいずれも、江戸時代中期にはすでに存在していた。例えば、江戸時代に奈良の西大寺の末寺の僧侶溥泉(ふせん)によって書かれた『朝日神紀』『春日山紀』、京都の天道宮の神主小笠原通当による『神代巻秀真政伝』などに、ヲシテで記された『ホツマツタヱ』『ミカサフミ』が引用されている。また、『和字考』『神字日文伝』などにヲシテの文字が記録されている。しかしながら、それ以前に継続して利用されてきた事を直接示す証拠は発見されていない。12世紀初頭に成立した『類聚名義抄』などにヲシテに関する記述が認められると理解して、ヲシテ文献は少なくとも平安時代以前に遡るとし、真書であると考える熱心な信奉者も少なからずいる。江戸時代には、和仁估安聡、小笠原通当等が真書であると主張した。近代的な文献学の手法に基づいた研究が始まったのは、ホツマツタヱが再発見された1966年以降である。諸写本の校合、『古事記』『日本書紀』と『ホツマツタヱ』の3書比較、『ホツマツタヱ』『ミカサフミ』『フトマニ』の総合的検証が進められつつある(参考図書を参照のこと)。ヲシテ文献を真書であるとする研究者は、記紀よりも古い日本最古の叙事詩、歴史書であると主張している。ヲシテ文献が扱っている歴史は、記紀の神代と人皇12代景行天皇(ヲシロワケ)までである。ヲシテ文献は次の文書からなる古文書群である。成立当初に存在したと考えられる文書。文書内の記述によると、複数回に分けて編集され、最終的に完成したのは、人皇12代ヲシロワケ(景行天皇)の57年である。ヤマトタケ(記紀にいう日本武尊)が崩じたのに伴い、国政の混乱が予想された。ヤマトタケの遺言に基づき、ヲシロワケの勅令により次の3つの文書が編纂されたとされる。同一の世界観をもち、同一の文字ヲシテによって記述されている。成立当初は、布に染め付けられていたと記述されているが、原本は失われている。現存するのは、和装の和紙に墨書されたその写本とされるものだけである。原書の一部が引用されている文書。ヲシテの字形のみ引用されている文書。江戸時代に国学が隆盛し、漢字伝来以前の日本が独自の文字を有していたとの説が広がった。その為、「神代文字(しんだいもじ・かみよもじ)とよばれる多くの文字が創作された。ヲシテ文献を記述している文字「ヲシテ」は、その神代文字のひとつであるとするのが学会における定説である。古筆研究者の小松茂美によると、捏造された文字であるとする根拠は次の4つである。神代文字のひとつによって記述されている文書ということ等から、ヲシテ文献も偽書であるとされている。文書内の記述によると、「原書」としたものにも先行文献(「ミソギノフミ」など)があったことが記されている。これらを基に「原書」は編纂された。アマテルカミ(記紀にいう天照大神)の崩御、アマノコヤネの逝去、そして、神代12代のウガヤフキアワセズの崩御がほぼ同時期に起こり、ヤマトウチ(記紀にいう神武東遷)が予定されたため、後世の根本資料とするために編纂され、宮中に奉納された。これが「原書」の前半部である。その後、文書内の暦で約800年後、ヤマトタケ(記紀にいう日本武尊)が崩じたのに伴い、国政の混乱が予想され、ヤマトタケの遺言に基づき、人皇12代ヲシロワケ(景行天皇)の勅令により、ヲシロワケの57年に「原書」の後半部が編纂され、宮中に奉納された。その際、前半部の校正も行われたとされる。その後、文書がどのように伝承されたのかは分っていない。ある時期までは、宮中にて「正史」として把握され管理されたと想像される。しかし、漢字や漢文の流入により、いつしか忘れ去られ、物部氏の滅亡に代表される古い豪族の衰亡、藤原氏の仏教への傾倒などによって、管理もおろそかになっていったものと思われる。生洲問答によれば、道鏡の時代にはまだヲシテ文献の原書が全巻そろっていたという。吉備真備は、天香山本記(カグノフミ)・神載山書記(ミカサフミ)・秀真政伝紀(ホツマツタヱ)を所蔵していた。しかし、道鏡により文書の改ざんが指示され、文書を守る為に大加茂臣赤坂彦が自刃し、子孫は和仁估氏を名乗り文書を隠し持って近江へ蟄居し、その後秘伝の書としたという。また、桓武天皇が最澄に秀真政伝紀(ホツマツタヱ)を託し、比叡山の石室に納めたともいう。しかしながら、これらを裏付ける資料は見つかっていない。江戸時代中期から、検証可能な形で文書の伝承が確認されている。ひとつは、奈良の律宗の寺院で西大寺の末寺である寂照寺の住職であった僧溥泉の下である。溥泉は、先師よりホツマツタヱとミカサフミの写本を見せられ、朝日神紀・春日山紀・神明帰仏編を記し、その中でそれらを引用した。この内、春日山紀は安永8年(1779年)に出版された。溥泉の蔵書は、現在龍谷大学の図書館に所蔵されている。しかしながら、ヲシテ文献の写本はミカサフミの1アヤ分のみしか発見されていない。もうひとつは、和仁估氏の末裔であると称する近江の和仁估安聡のところである。和仁估は祖父より写本を相伝し、ヲシテ文献について研究を重ねた。そして、写本の校正と漢訳を試みた。その際、比叡山の石室に納められた写本をも参照したという。また、写本を伏見宮家にも奉納したという。和仁估によるホツマツタヱとミカサフミの写本(いずれも漢訳付)は発見ずみである。ただし、伏見宮家にあるという写本、あるいは比叡山の写本は発見されていない。確認されている和仁估によるホツマツタヱの写本2種の内、漢訳のない写本は天保年間に京都の天道宮の神主を務めていた小笠原通当に貸し出された。小笠原は溥泉の春日山紀を読んで読解の方法を知り、神代巻秀真政伝をまとめて天保14年(1843年)に刊行した。その後、この写本は、子孫の小笠原長弘に継承され、長弘によって返還されたがその後原本は失われた。長弘によって写された写本および、その甥の小笠原長武によって写された写本が現存している。長弘は明治7年(1874年)正木昇之助と共にホツマツタヱの一部を抜粋し、宮中に奉呈しようと試みた。この写本は、現在「奉呈本」とよばれている。その後、長武によって完写本が内閣文庫に収められた。長武は、ホツマツタヱと古事記・日本書紀の同一内容の箇所を比較して研究することを試みている。これらの動きはあったが、ヲシテ文献は世間に知られることもなく埋もれていた。写本の再発見は、「現代用語の基礎知識」の初代編集長をしていた松本善之助が「本当の日本とは何なのだろうか?」との疑問に取り付かれたことから始まった。昭和41年(1966年)8月に東京・神田の古本屋でみつけたのが、後に「奉呈本」(現在、池田満所蔵)とよばれる写本だった。「奉呈本」には3アヤしか収められていなかったため、松本は全巻の捜索に取り組み、四国の宇和島の旧家小笠原家で、ホツマツタヱ全巻の写本を2つ発見(内1写本は「覆刻版ホツマツタヘ」として印影版が出版)、さらに、国立公文書館の内閣文庫にも全巻の写本が収蔵されているのを発見した。平成4年には、滋賀県高島市安曇川町の日吉神社からホツマツタヱ全巻の親写本が発見された。この写本は、『和仁估安聡本ホツマツタヱ』として印影版が出版された。これらの再発見の後、近代的な研究がはじめられるに至っている。真書であるという立場の論者の間では、一般に『日本書紀』編纂者の意図は、中国(唐)に対する外交政策を有利にするために、日本にも皇帝に匹敵する天皇がおり、正史を漢字で記すだけの文明があると証明する必要があると考えて、漢字で記された歴史書を作ったという見方が定着している。中国の皇帝は、天帝思想であり、天から使命を得て帝位についている。ヲシテ文献の研究家である池田満は、ヲシテ文献の中で当時カミヨ(上代/神代)と呼ばれた歴史について、記紀の編纂にあたり、地上でのできごとではなく天上でのできごとであることにし、日本の天皇も皇帝と同じく天帝であると潤色したのではないか、と推定している。ヲシテ文献のひとつ「ホツマツタヱ」のカミヨ(上代/神代)の記述の内、アマカミ(古代の天皇の名称)の記述以外、臣下であるトミ・オミ(臣)の記述は全く記紀に見られないからである。真書説の立場からは、朝廷が、当時の国字であったヲシテを捨て、漢字を国字に、漢文を公文書の公用語として採用した。そして記紀が成立し、日本書紀が正史とされ、漢字・漢文により表現する時代が長くなると、ヲシテを振り返るものもなくなり、いつしか秘伝の書とされるに至ったのではないかと推測されている。「古事記」「日本書紀」 の同部分と比較して) ホツマツタヘ研究会 1973/08
出典:wikipedia
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