春一番(はるいちばん)は、1971年から、福岡風太、阿部登らが中心になって、関西を中心としたミュージシャンを集めて、大阪の天王寺公園野外音楽堂で5月のゴールデンウィークに開催した大規模な野外コンサート。フォークソング、ロック、ジャズなど、ジャンルにこだわらないコンサートとして親しまれている。1979年まで続き、裏方スタッフが業界人となり、一時中断となったが、阪神・淡路大震災の起きた1995年から会場を変えて再開し、2006年からは「祝春一番」の名称で現在に至っている。コンサートを続ける理由を福岡風太は「死んだからや、渡が。それだけや」と語っている。1971年の発足当初は、コンサートを運営する事務所すらなく、大阪・なんば元町にあったコーヒーハウス「ディラン」(店主・大塚まさじ)に友部正人、伊藤銀次、石田長生、永井洋、西岡恭蔵、詩人の片桐ユズルらが集まり、福岡風太が中心となって宴会を兼ねたミーティングのなかで打ち合わせや作業をすすめていった。これに加えて、はっぴいえんどや岡林信康との交流がすすみ、東京で山下洋輔のマネージャーをやっていた阿部登が大阪に帰ってきて、企画がすすんでいった。。1971年5月、名古屋に住んでいた当時20歳のいとうたかおが第1回「春一番」にスタッフとして参加し、以後、大阪に移り住む。1971年8月の第3回全日本フォークジャンボリーの盛り上がりの後を受けた1972年の第2回「春一番」は前回を上回る集客数となる。1972年から、第2回「春一番」のライブ・レコードが制作されるようになり、コンサートの存在が知られるようになった。春一番を毎年続けていくうちに、毎回出演するミュージシャンのなかからレコーディングをしたり、ツアーを組み、本格的なプロの活動をする人が増えていった。スタッフも、ミュージシャンや音楽イベントのマネージャー、PA、照明などを生活の糧とするようになった。音楽を本業とするスタッフが増えていくなかで多忙になるなど諸般の事情を考慮して、1979年を最後に春一番を中断することにした。1995年、大阪城野外音楽堂で、16年振りの復活「春一番‘95」が5月4日と5月5日の2日間にわたって、開催された。再開2回目の1996年5月の春一番は、イベント名称を「祝春一番」に改め、会場を服部緑地野外音楽堂に移して、開催。これまで、2日間だった日程を3日間に拡大。1996年以後、同様の3日間日程だったが、2004年以降、さらに、4日間に拡大。2006年からは、イベント名称を再び「祝春一番」に改称。2009年以降は、5日間の開催となっている。第2回より舞台監督、プロデューサーであった阿部登が2010年11月28日に逝去、2011年3月11日の東日本大震災とそれに端を発する福島第一原子力発電所事故後の「祝春一番2011」(2011年4月30日、5月1日、5月3日、5月4日、5月5日開催)は、40周年記念にあたり、福岡風太は、スタッフブログで「あまりにもデカすぎる追悼コンサート」、「世界中から原子力発電所は無くならなあきません。」と(被災地に向けて)「自由に『心(キモチ)』を発信する」コンサートと位置づけた。1973年、福岡風太の許可を得て、新宿ロフトで『春二番』というライヴが開催された。2006年3月13、14日には、第2回『春二番』ライヴを開催した。2009年4月15日、「東京春一番2009」が福岡のプロデュースで下北沢のライブハウスでも開催されている。春一番コンサートのために西岡恭蔵がテーマ曲「春一番」を作曲。高田渡、ザ・ディランII、岩井宏、加川良、中川イサト、西岡恭蔵、はっぴいえんど、はちみつぱい、シバ、遠藤賢司、あがた森魚、中川五郎、豊田勇造、金森幸介、センチメンタル・シティ・ロマンス、中山ラビ、若林純夫、よしだよしこ、なぎらけんいち、斉藤哲夫、有山じゅんじ、上田正樹&サウス・トゥ・サウス、オレンジ・カウンティ・ブラザーズ、大塚まさじ、ひがしのひとし、いとうたかお、古川豪、中川五郎、佐藤GWAN博、宮里ひろし、金延幸子、林ヒロシ(小林政広)、佐久間順平、三上寛、憂歌団、シーナ&ザ・ロケッツ、遠藤ミチロウ、早川義夫、押尾コータロー、大西ユカリと新世界、矢野絢子、山中一平とオンドリャーズ(河内音頭)、郷土芸術二代目桜川唯丸会(江州音頭)ら。さらに、メジャーとなった、竹内まりや、忌野清志郎、近藤房之助、ウルフルズ、江口洋介、CHAR、中島らもも出演していたことは注目される。ジャズ界からも、山下洋輔トリオ、金子マリとバックスバニー、坂田明、ペギー葉山といった大御所も出演した。
出典:wikipedia
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