堺市(さかいし)は、大阪府泉北地域に位置する日本の政令指定都市。大阪府による地域区分では泉北地域とされるが、市制施行時の堺市域や南河内郡の旧郡域など歴史的に泉北郡ではなかった地域が多く含まれており、他の泉北地域3市1町とは区別されることもある。大阪府内で人口・面積ともに第2の都市であり、人口は2015年4月時点で山梨県・佐賀県・福井県・徳島県・高知県・島根県・鳥取県を上回る。一方、居住人口に比べて昼間人口の割合が低く、大阪市の衛星都市としての特徴も併せ持っている。大阪平野のやや南を西流する大和川の左岸下流域に位置する。大阪湾に西面し、北は大阪市、北東は松原市、東は羽曳野市、富田林市、南東は大阪狭山市、河内長野市、南西は和泉市、高石市に接している。市内は7つの行政区に分かれ、堺区が北西部に、美原区が東端部に位置する他は、中区・東区・西区・南区・北区と方位による区割となっている。「堺」の地名は平安時代には見られ、摂津国、河内国、和泉国の「境(さかい)」に発展したことによると言われている。「境」、「左海」などとも表記された(宿院交差点にある石灯籠には「左海たばこ庖丁鍛治」と書かれてある)。鎌倉時代以降は、摂津国と和泉国の荘園名として見られ、江戸時代(元和年間)以降は、両国の国境に大小路という東西幹線を敷いた町となった。宝永年間には大和川の付け替えが行われたが、明治3-4年まで大小路は摂泉国境(大小路以北の堺市街は摂津国であった)の役割を果たした。国境が大和川に変更された後は和泉国のみに属する町となった。1880年(明治13年)の郡区町村編制法施行により、のちに堺市となる堺区(郡区制)が発足し、のちに泉北郡となる大鳥郡から分離した。また、1938年(昭和13年)の南河内郡金岡村編入以降、和泉国と河内国に跨る市域を形成するようになり現在に至っている。このため、他の泉北地域と区別して「堺・泉北」のように併記されることがある。現在の堺市域に人が定住したのは古く旧石器時代とされる。市内各地の遺跡からは旧石器時代の打製石器や縄文時代の土器・石器、弥生時代の銅鐸・土器などが発掘されている。また、浜寺の四ツ池遺跡は池上・曽根遺跡(和泉市・泉大津市)と並ぶ弥生時代の集落遺跡で、堺市域では最大規模を誇る(浜寺中学校造成と第二阪和国道敷設工事のため遺跡としての形はとどめていない)。1989年には国の史跡に指定された。このほか、石津川流域の下田町や鶴田町でも、竪穴住居跡を中心とする集落や土器・金属器などが出土している。古墳時代には、泉北丘陵を中心に須恵器の生産が行われた。生産は奈良時代を経て平安時代まで続いた。泉北ニュータウン周辺や信太山丘陵にかけて須恵器の窯跡などの遺跡が点在しており、「陶器」「釜室」などの地名が現在に至っても残る。ヤマト王権成立後は大仙陵古墳など大小100数基の百舌鳥古墳群が造られた。神功皇后が三韓征伐からの帰途、現在の七道の浜(当時は摂津国住吉郡)に寄り、地元の田蓑宿禰(摂津国住吉郡の豪族)に津守氏の姓を与え、住吉三神を祀るように告げたという(住吉大社の起源)。飛鳥時代になると、難波宮、難波京や難波津から聖徳太子ゆかりの寺院である四天王寺を経て上町台地を南北に貫く難波大道と、飛鳥の都と方違神社を東西に結ぶ丹比道(竹内街道の前身)、大津道(長尾街道の前身)が整備される。奈良時代から室町時代にかけて、これらの街道沿いの美原区大保(丹南)や北区金岡・東区日置荘周辺には河内鋳物師と呼ばれる人たちが多く住んでおり、東大寺再興や鎌倉大仏の鋳造などで活躍した。平安時代には熊野詣の宿として境王子と大鳥居王子が設置された。鎌倉時代には京都、奈良など後背都市の産業を背景に南北の堺荘が成立。南北朝時代には、南朝方の住吉大社宮司の津守氏に関係して南朝の外港的役割を担うようになり、廻船が発着する港へと発展した。地下請の特権を得て、室町時代には足利将軍家や管領細川氏などが行った日明貿易(勘合貿易)の拠点となる。戦国時代には明やルソン・カンボジアなど東南アジア方面での貿易で栄えた。応仁・文明の乱以後、それまでの兵庫湊に代わり堺は日明貿易の中継地として更なる賑わいを始め、琉球貿易・南蛮貿易の拠点として国内外より多くの商人が集まる難波津や住吉津などと同様、国際貿易都市としての性格を帯びる。布教のため来日していたイエズス会の宣教師ガスパル・ヴィレラは、その著書『耶蘇会士日本通信』のなかで、「堺の町は甚だ広大にして大なる商人多数あり。この町はベニス市の如く執政官によりて治めらる」と書いた。この文章によって、堺の様子は当時の世界地図に掲載されるほどヨーロッパ世界に認識されることとなる。ヴィレラの後継宣教師であるルイス・フロイスもまた、マラッカの司令官宛に「堺は日本の最も富める湊にして国内の金銀の大部分が集まるところなり」と報告、その著書『日本史』のなかで堺を「東洋のベニス」と記している。なお、江戸時代に宿屋町の十間筋付近(当時の大黒町。現在の宿屋町東2丁)が「るいすの町」と俗称されており、フロイスが堺に4年ほど滞在した地と言われている。安土桃山時代には貿易港としての地位を揺るぎないものとし、戦乱から町を守るため周囲に堀を巡らせた環濠都市を形成。会合衆(えごうしゅう、かいごうしゅう)と呼ばれる商人たちが自治的な都市運営を行い、中世の自治都市となるが、その価値に注目した織田信長、豊臣秀吉らの前に屈服。自治機能が解体され、彼らの支配下(直轄地)に置かれる。その後、秀吉が難波津、住吉津、渡辺津、などの港湾都市、国内流通の中心であった上町台地に付近に大坂城を築き、城下町(船場周辺)が開発されるに伴い大坂の平野商人(摂津国平野郷)、京都の伏見商人(現在の中央区平野町や中央区伏見町にその名を残している)が移動し、堺商人の多くは、大坂へ強制移住させられ堺の都市機能は著しく低下した。(南北朝時代でも述べてるよう堺は大坂との交流は秀吉が大坂に来る以前からあり)は同様に全国各地の城下町にも堺商人などが移り住むようになる。産業面では戦国期より鉄砲生産が盛んに行われ、また文化面では今井宗久や千利休、津田宗及に代表される茶の湯などが特記される。特に信長から武装解除された橿原市の今井町との交流は深く、竹内街道を通じ江戸時代まで毎日行き来した。「海の堺」に対し「陸の今井」と呼ばれ、堺同様に自治都市として栄えた。江戸時代には堺奉行が置かれ、糸割符など保護を受けるが、鎖国の成立とともに経済の中心は再び大坂へ移り、管轄も大坂町奉行が兼任する。1704年には大和川の付け替え工事が行われ、陸続きであった堺と住吉が分断された。しかも、この開削により河口付近に多量の土砂がたまったため、堺港に大きな船が停泊できなくなった。これにより、港湾機能も縮小せざるを得なくなった。しかし、中世の自由都市堺と、江戸初期の堺の財力は莫大なものがあり、それが後世の日本に与えた影響は莫大である。中世の日本において一貫して大都市といえるのは京都だけであり、当時陸運の便利がよい京都に商人が集中していた。一方で堺は積極的に海運のため、全国の主に海岸の中小都市に莫大な投資を行った。その当時既に繁栄していた博多、鹿児島、大分などはともかく、それ以外の全国の多くの都市について、その発展の基礎部分に中世の堺商人の投資が大きな影響を与えているともいえ、それは大阪、名古屋、東京も例外ではない。江戸時代でも後期に入ると、醸造業などが栄えた影響で再度活気を取り戻すようになる。幕末になり、欧米列強が大坂の開港を要求すると、大坂が京都に近く堺がその代港候補に挙がる。だが江戸の幕府内勤皇派は、堺周辺には古墳が多いため、堺を開港地にすると外国人が無断で古墳に出入りする可能性があると指摘。そのため、第二候補であった摂津国の兵庫(神戸)が開港地に選ばれた。この結果、堺は中世以来の国際貿易港への復帰の道を閉ざされ、その座を神戸に明け渡すことになった。明治以降は、紡績や煉瓦産業を中心に次第に工業都市へと変貌を遂げていき、阪神工業地帯の一角を占める経済的地盤を作り上げていく。また、戦後の高度経済成長期以降は大阪都市圏の発展・膨張とともに、泉北ニュータウンの開発に代表されるような、大阪市のベッドタウンとしての側面も兼ね備えるようになった。なお、堺市の町名には「○丁目」の「目」がつかない。1872年の町名改正で、改正前までは独立していた小さな町を「○○東一丁」や「○○西一丁」などに変更し、「丁」に「町」と同格の意味合いを持たせたことに由来する。以後、周辺の町村を合併し市域に編入したが、町を細分する場合も前例に倣い「丁目」を使わず、美原区を除く市内全域が「丁」で統一されている。堺商人が全国で活躍した証しとして、旧城下町から発展した都市には「堺町」もしくは「栄町」という地名が今も残っている。1945(昭和20)年当時、日本には180の都市があり、うち58都市がアメリカ軍による空襲を受けた。アメリカ軍は180都市を人口の多い順に空襲する作戦をとり、堺市は人口18万人で空襲順位は24位であった。広義の「大阪大空襲」で着弾目標地点が置かれたのは大阪市(空襲順位2位)と堺市、尼崎市(同25位)のみである。アメリカ軍は堺市を空襲都市に選んだ理由を「堺の主要価値は大阪市に近接していて、その工業が大阪市と統合されていることである。また、この都市は大阪の軍需工場の労働者に住宅を提供している。大阪の工場に打撃を与えるために、堺の軍需工場は疎開可能箇所として重要である」(アメリカ軍の作戦任務報告より)としているが、実際は非戦闘員を目標にした無差別爆撃であった。被害は工場より民家に集中した。2005年2月1日に東隣の美原町を編入合併した。この編入合併によって政令指定都市の実質上の要件である80万人を超えたため、2006年4月1日に政令指定都市へ移行した。なお、隣接する高石市や大阪狭山市との合併も検討していたが、2003年に高石市で合併の是非を問う住民投票が行われ、反対多数により堺市との合併問題研究協議会は解散。大阪狭山市では合併協議会設置が議会で否決された。しかし、合併はならなかったが、高石市とは現在も消防事業は共同で行っており(堺市消防局)、大阪狭山市内には堺市の飛び地が存在する。また、高石・大阪狭山両市とは市外局番が同じ(072局・堺MA)である。複数の政令指定都市が存在する都道府県は、これまでにも神奈川県(横浜市、川崎市、後に相模原市)、福岡県(福岡市、北九州市)の2つしかなく、堺市の政令指定都市移行により、全国3府県目の事例となった。その後、静岡県(静岡市、浜松市)も加わり現在は4府県となっている。また、都道府県内の人口占有率が1割に満たない初めての例であり、2010年4月に移行した相模原市が2例目となる。1960年代前半まで1960年代後半(合併で移行めざす)1970年代前半(合併白紙の余波)1970年代後半 - 1980年代(合併せず単独で移行めざす)1990年代前半(支所制度の導入)1990年代後半(中核市へ移行)2001年以降(再び合併で移行めざす)次の7区が設置されている。詳細は各区の項を参照のこと。行政区施行に伴い、堺市議会(定数52、法令定数より4人少ない)および大阪府議会の旧堺市選挙区(定数10)は、以下のように分割された。½: 東区と美原区で定数1(北区)1982年に発表された大阪府の総合計画で、豊中市の千里中央、東大阪市の荒本とともに、堺市の中百舌鳥が「大阪府の新都心」として位置付けられることになった。1983年には堺市も総合計画を発表し、中百舌鳥を「堺市の副都心」として位置付けた。ちょうど中百舌鳥にあった日本ピローブロック製造の本社工場が美原町(当時)に移転することになり、その跡地に大規模商業施設を誘致することも計画に盛り込まれた。同時に堺市役所の本庁機能の中百舌鳥移転も計画されたが、現本庁のある堺東駅周辺の商店会などから、同駅周辺の経済が地盤沈下することを理由に強い反対を受けて頓挫している。1987年4月に地下鉄御堂筋線が中百舌鳥まで延伸されたことを機に区画整理事業が始まった。大規模商業施設への出店を募ったところ、そごう、西武百貨店、阪急百貨店などが入札に参加した。設計競技段階では西武が落札したが、駅周辺の土地を先行取得していたそごうが西武への土地提供を拒否。「そごう所有地」の看板を掲げて、西武と縄張り争いのようになった。一方、堺市はなかなか進まない事業を後押しするため1991年、「第三次堺市総合計画」で、改めて中百舌鳥を新都心として位置付けるなど事態の収拾に乗り出したが、1992年に西武は「業績悪化」を理由に中百舌鳥進出を断念。事業からの撤退を表明した。バブル崩壊により、そごうも1993年、中百舌鳥からの撤退を表明。再開発事業は失敗に終わった。その後、西武とそごうは「ミレニアムリテイリンググループ」(→そごう・西武)として経営統合され、現在に至る。堺市にとっては何とも皮肉な結果となった。これらの経緯から、近年まで中百舌鳥駅北側は更地が多かったが、2002年になって駅前にロータリーが完成した。大規模計画がすべて頓挫したことによって、駅周辺には無秩序にマンションや商業ビルが林立している。都市再生緊急整備地域は都市再生の拠点として国が定めたもので、都市開発事業などを通じて重点的に市街地整備を推進すべき地域とされている。堺市内では以下の3地域が指定されている。平成22年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、1.32%増の841,966人であり、増減率は府下43市町村中10位。区別では最高が3.76%増の北区、最低が1.48%減の南区。都市対抗野球大会出場チーム甲子園出場校[[八幡製鐵]]が堺市に製鐵所を設置したのは[[1961年]]。[[1969年]]にはバレーボール部が[[北九州市]]から堺市に本拠地を移転した。[[1970年]]、八幡製鐵と[[富士製鐵]]が合併して社名が新日本製鐵になる。バレーボール部は「燃える鉄人」の愛称を持ち「新日鐵ブレイザーズ」と名乗った。[[2001年]]からクラブチームとして「堺ブレイザーズ」に改称し、地域密着を図っている。大相撲[[本場所|春場所]](大阪場所)が[[難波]]の[[大阪府立体育会館]]で行われるため、距離的に近い堺市に場所中、以下の部屋が宿舎を構える。かつて堺に宿舎を構えていた部屋堺出身力士大浜は[[アマチュア相撲|学生(アマチュア)相撲]]発祥の地である。[[1919年]]、旧大浜相撲場で第1回[[全国学生相撲選手権大会|全国学生相撲大会]]([[毎日新聞社]]主催)が開かれた。その後、東京に主会場を変更したが、[[1974年]]から開催地が再び大浜に戻った(当初は大浜体育館の特設土俵)。[[1981年]]には大相撲と同じ規格の「[[大浜公園 (堺市)|大浜公園]]相撲場」が完成。現在、全国学生相撲選手権大会は、東京の[[両国国技館]]と隔年ごとに開催されている。なお、大浜公園相撲場は女子も土俵に上がることができる。大浜公園相撲場で開かれる主な大会堺市には[[堺泉北臨海工業地帯|臨海工業地帯]]が造成されるまで[[海水浴場]]が4か所(大浜・湊・諏訪ノ森・浜寺)あった。なかでも浜寺は、海浜リゾート地として全国に名を知られていた。現在でも諏訪ノ森から[[浜寺公園]]にかけての一帯は、[[大仙公園]]周辺とともに「風致地区」に指定されている。また[[愛知県]][[碧南市]]にはかつて、浜寺の[[白砂青松]]にあやかった「新浜寺海水浴場」があり、海岸が埋め立てられた今も「浜寺町」の地名が残る。[[泉大津市]]にも1960年代半ばまで「南浜寺」という地名が存在した(現在の松之浜町)。近くに助松海水浴場があり、「浜寺」ブランドにあやかった[[別荘]]地として知られた。現在も区画整理された町割に邸宅が点在する。現在、[[大津市]]の皇子山陸上競技場をスタート・ゴールに行われている「[[びわ湖毎日マラソン]]」と、[[京都市]]の[[西京極総合運動公園陸上競技場兼球技場|西京極陸上競技場]]をスタート・ゴールに行われている「[[全国高等学校駅伝競走大会]]」は[[1960年代]]まで大阪で開催しており、堺市内もコースに含まれていた。両大会とも[[毎日新聞社]]主催のため、[[堂島]]の旧毎日新聞本社前を発着点にしていた時期もあった。現在の[[国道26号]]・[[大阪府道204号堺阪南線|府道堺阪南線]]をコースに使用していたが、交通渋滞などのため、いずれも変更された。市内には以下の[[鉄道路線]]がある。中心駅は市役所最寄駅である[[南海高野線]]の[[堺東駅]]。堺市内を走る鉄道は、全てが大阪市から郊外へ南北に縦断する路線で、東西方向の交通はバスに依存している。そのため、かねてより東西方向を結ぶ鉄軌道の導入が構想されていた。地下鉄なども候補に挙がっていたが、[[木原敬介|木原市長]]時代に堺東駅から[[南海本線]][[堺駅]]を経て[[堺浜]]方面へ向かう[[ライトレール|LRT]](超低床電車による次世代[[路面電車]])の導入が決定した。しかし、LRTの建設中止を公約に掲げて2009年に就任した[[竹山修身|竹山市長]]は2010年1月、公約通り、[[南海電気鉄道|南海電鉄]]に対してLRT計画の中止(事実上の白紙撤回)を申し入れた。計画予算も調査費用の300万円を残して削減。計画は暗礁に乗り上げた。これにより、LRT計画による活性化が見込まれていた[[阪堺電気軌道]][[阪堺電気軌道阪堺線|阪堺線]]も堺市内区間廃止の可能性が高まったが、堺市は2010年から10年間にわたり、運賃割引などの利用促進策に年間2億円を上限に補助するほか、新型車両の導入などに総額30億円を助成する支援策を公表した。大阪モノレールは[[大阪府道2号大阪中央環状線|大阪中央環状線]]上を通り、[[大阪国際空港|大阪空港]]と[[堺泉北臨海工業地帯]]を結ぶ路線として1970年代後半に計画。1980年に運営母体となる[[大阪高速鉄道]]が設立された。また、[[大阪府]]が計画した3大副都心地区「[[千里中央]]」「[[荒本]]」「中百舌鳥」(厳密には新金岡)を繋ぐ目的もあった。当初は大阪空港側と堺側から同時に着工する計画だったが、建設費などの問題から大阪空港側のみの着工となった(堺側は中央分離帯に[[カナリーヤシ|フェニックス]]が植えてあるため、着工するには伐採する必要があった)。1990年に[[千里中央駅|千里中央]] - [[南茨木駅|南茨木]]間が開業し、現在は[[大阪空港駅|大阪空港]]から[[門真市駅|門真市]]まで開通しているが、南伸計画は今のところない。堺市の積年の課題である「東西交通の不備」は、このモノレールに期待を寄せていたことも原因のひとつとしてある。市内交通のほとんどは[[南海バス]]が担っている。[[南海高野線]]の[[堺東駅]]のほか、[[南海本線]]の[[堺駅]]、[[泉北高速鉄道線]]の[[泉ヶ丘駅]]などに[[バスターミナル|ターミナル]]を持つ(初芝駅から平尾方面の路線は、南海バスの子会社である[[南海ウィングバス金岡]]が担当している)。また、美原区や東区内には[[近鉄南大阪線]]の[[河内松原駅]]をターミナルとする[[近鉄バス]]が運行されている。このほか、かつて[[大阪市電阪堺線|大阪市電]]が乗り入れていた関係で、堺区には[[大阪市営バス]]も乗り入れている。堺市自体には公営交通(市営バス)の運行実績がなく、現在も市営バスはない。2013年6月までは南海バスと近鉄バスに業務委託している[[コミュニティバス]](堺市ふれあいバス・みはらふれあい号)があり、各区役所や老人福祉センターを拠点に各区域を循環していたが、利用状況の低迷から堺市ふれあいバス・みはらふれあい号の両方を廃止した。乗車方法は後乗り前降り後払いで、運賃は整理券方式の区間制。なお、大阪市営バスは後乗り前降り後払い、南海バスの堺[[シャトルバス]]と[[大阪シティバス]]は乗降方式は前乗り後降り前払いで、運賃は均一制である。南海バス・近鉄バス・大阪市営バス・大阪シティバスともに磁気プリペイドカードである[[スルッとKANSAI]]対応カードが使用できる。非接触型[[ICカード]]は[[PiTaPa]]・[[ICOCA]]は大阪市営バス及び南海バス、南海ウイングバス金岡、近鉄バス管内で使用可能。南海バス運行便には「サザンクロス」、[[和歌山バス]]運行便には「[[サウスウェーブ号|サウスウェーブ]]」の愛称が付く2006年10月10日より、自動車登録番号標・車両番号標([[日本のナンバープレート|ナンバープレート]])の地名表示が和泉から堺へ変更された。いわゆる[[ご当地ナンバー]]を、2005年7月に[[国土交通省]]が新たに認定したため。10月10日以降に和泉自動車検査登録事務所([[和泉市]])で新車購入時の新規登録をするか、他地域からの編入や名義変更などの際に取得できる。堺市内の道路には以下のような愛称が付けられている。[[File:Kongorikishi statue from 14th century Japan.jpg|160px|right|thumb|[[家原寺]]山門の金剛力士像([[慶派]]作の真像はワシントンのフーリエ博物館の所蔵。明治期に村人が売却と伝わる)]][[堺市出身の人物一覧]]を参照。[[Category:堺市|*]][[Category:大阪府の市町村]][[Category:政令指定都市]]
出典:wikipedia
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