


ジョニー・ペスキー(John Michael Pesky、1919年9月27日 - 2012年8月13日)は、アメリカ合衆国のプロ野球選手。ポジションは内野手。オレゴン州ポートランド生まれ。右投左打。1940年代から選手・監督・コーチと長年レッドソックスにかかわり、現役時代の背番号「6」はレッドソックスの永久欠番になっている。1919年オレゴン州でクロアチア移民の子として生まれた。生まれた時の名前は"John Michael Paveskovich"だったが、1947年に正式に"Pesky"に改名している。父親は野球を全く知らなかったが、ポートランド・ビーバーズの球場が住む家のすぐ近くにあり、子どもの頃から野球には親しんでいたという。熱心に練習に取り組み、1937年に在学するリンカーン高校がオレゴン州のタイトルを獲った時には、ペスキーは打率.543を記録していた。1940年プロ契約の際、セントルイス・カージナルスが2,500ドルのボーナスを提示したが、ペスキーがサインしたのは500ドルを提示したレッドソックスだった。ペスキーは少年時代に、パシフィック・コーストリーグに参加していたボビー・ドーアやテッド・ウィリアムズといった選手の洗濯係をしていたり、1938年と1939年に所属していたチームがトム・ヨーキーが経営していた材木加工会社の持ちものだったりと、それまでもレッドソックスとは何らかの縁があったようである。ペスキーはマイナーリーグで2年を過ごし、1942年にメジャーに昇格する。1年目から147試合に出場し、.331の打率とリーグ最多の205安打を記録する。この年は犠打数(22)もリーグ最多で、同年の最優秀選手投票でジョー・ゴードン、テッド・ウィリアムズに次いで3位に入った。この時まだルーキーの表彰制度はなかったが、オーナーのヨーキーはペスキーに5,000ドルのボーナスを加えて彼の活躍を称えた。この額は、ペスキーが両親のためにポートランドに新居を購入するのに充分な額だった。翌1943年ペスキーは第二次世界大戦に出征し、丸3年間野球を離れたが、1946年に復帰すると1年目を凌ぐ活躍を見せ、レッドソックスの28年ぶりのリーグ優勝に貢献、ペスキー自身もこの年のオールスターゲームに選出された。3年目にも207安打を放ち、3度目のリーグ最多安打を記録する。しかし1948年にバーン・ステフェンスが加入したことで、ペスキーは三塁にコンバートされた。同年打率は.281まで落ちたが、翌年から盛り返し、1949年と1950年は100四球以上を記録、打率3割と出塁率4割以上をキープした。しかし1952年のシーズン中、レッドソックスとデトロイト・タイガースの間で5対5のトレードが成立し、移籍する。しかしかつてのような成績を残すことはできず、1954年にワシントン・セネタースに移籍。同年オフにセネタースから放出され、引退した。ペスキーは引退後1963年に監督としてレッドソックスに復帰、1964年まで2シーズン監督を務めたのち、1965年から3年間ピッツバーグ・パイレーツのベースコーチを経て、1975年から1984年まで再びレッドソックスでコーチを務めた。引退後、ペスキーの背番号「6」はレッドソックスの永久欠番となった。2007年9月27日のペスキーの87歳の誕生日には、フェンウェイ・パークのライト側ファウルポールが、正式に『ペスキーズ・ポール』()と命名された。これは現役時代に、フェンウェイパークのある試合で、ペスキーがこのポールの近くにホームランを放った時に、かつてチームメイトだった実況のメル・パーネルがペスキーが非力だったことに結びつけて呼び始めたことがきっかけである。2012年8月13日、死去。。
出典:wikipedia
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